えいちゃん(さかい きよたか)
えいちゃんのぶろぐ

Bリーグが開幕した。この前のシーズンでは何回かとどろきアリーナにブレイブサンダースを応援しにいった。ヘッドコーチはイスラエル人のネノ・ギンズブルグさん。去年、ぼくの見たゲームでは体調不良で、長く休んでいて、見たことはなかった。この体調不良はガザのことを憂いてということだったのかもしれない。
ここからはぼくの想像。ネノ・ギンズブルグさんはオフシーズン中にヘッドコーチを辞めることをブレイブサンダースのオーナーに伝えたが、スポーツを通して何か平和に貢献できるはず、と留意されたのではないか? 今シーズンから加入したシューティングガードのオマール・ジャマレディン選手は、イスラエルと何度も戦争を交えている隣国のレバノンの代表選手なのだ。この選手起用は平和のための意志表示であるようにも思える。その人をその人の属している国家によってのみ見ることは、厳に慎まなくてはならない。
今日は試合を見に行きます。フレーフレー、ブレイブサンダース!


椹木野衣さんと会田誠さんの対談本『戦争画とニッポン』が面白くて一気に読んでしまった。椹木野衣さんは美術批評家で多摩美術大学の教授であらせられる。会田誠さんは美術家で「戦争画RETURNS」シリーズという問題作がある。
会田誠さんは戦争画の暗い叙情に惹かれると発言しているが、確かにぼくもその魅力を感じるけれど、やはり危険だよ。椹木野衣さんは西洋画の少なからぬ戦争画が名画とされているという指摘になるほどと思う。ドラクロアの「民衆を導く自由の女神」などがその典型であるように、ぼくは思い浮かべる。
この対談を読んでも、藤田嗣治の戦争画についての芸術か否かのぼくのわだかまりは消えなかった。もしかして藤田嗣治のいくつかの玉砕図は本ものの芸術かもしれない。藤田は戦争協力者として、一人で批判を被り、攻撃され、日本をなかば追放された。日本の国籍すら捨てて、フランスで客死。
『戦争画とニッポン』を読みながら、草間彌生さんがあまりにたくさんの国家からの褒章を受けているのに困惑する。さらに、この本によれば、毀誉褒貶の激しい村上隆さんは「俺は藤田みたいになる。最後には国を追われるしかない」とまで言っていたそうなのだ。さてどうなるか?
国家、戦争、芸術を語ったこの本に興味はつきません。
『戦争画とニッポン』(会田 誠,椹木 野衣) - 講談社


竹橋の国立近代美術館で『コレクションを中心とした特集 記録をひらく 記憶をつむぐ』を見ました。二回目の鑑賞です。深く印象に残った展覧会は二度、見ることにしています。この展覧会は宣伝されず、図録も作られていない。
平日にかかわらず、盛況なのは、この前のNHKのテレビ番組「日曜美術館」のためだろうか? その番組に出ていた音楽家の坂本美雨さんは藤田嗣治の「アッソ島の玉砕」を見て、言葉をつまらせ、泣いているようだった。いわゆる戦争画。「アッソ島の玉砕」よりも凄惨で悲劇的なのは藤田の「サイパン島同胞臣節を全うす」。しかし、これらの戦時中の戦争協力の絵に芸術的な価値があるかどうかは、ぼくにはまったく疑問なのです。暗い抒情ということなかれ。
「愛国」、「報告」、「天皇」という美しいかもしれない言葉の下に醜い人の営みと無念の死体が横たわっている。先人の死のおかげということなかれ。その言葉はあまりに軽すぎて、軍国主義の手垢にまみれて、うす汚すぎる。このぼくの言葉すら軽すぎる。画家ということではなしに、日本人には忘れてはならない歴史も、繰り返してはならない歴史もある。この展覧会で図録をあえて制作しなかったことの理由をぼくは理解し、忘れるなというメッセージも再びしかと受け取りました。




VODで小津安二郎監督の『東京物語』を見ました。1953年の映画です。何度も同じ映画を見ています。すると、細かいところにも目がいってしまいます。
この『東京物語』は夏の話で、団扇の絵柄が大スターの高峰秀子だったりします。
何度、見ても、笠智衆の演ずる平山周吉の美容院を営む娘の金子しげが感じ悪くて、それを演ずる杉村春子は上手いなあ。
金子しげの夫の金子庫造はなかばぶらぶらしている髪結いの亭主で、演ずる中村伸郎がいかにもでこの人も上手い。
酒の席でやっぱり出る「戦争はもうこりごりじゃ」のセリフ。これは三度、応召した小津の本音。
平山周吉の義理の娘で戦争で先立たれた夫を持つ紀子の着ている寝巻の柄が小津安二郎の戦争で亡くなったもっとも深い親友、山中貞雄の思い出の花、ケイトウであったりする。
金子しげの美容院は浅草にあるらしく、どこからか夜に浪曲が聞こえてきたりする。
東山千栄子の演ずる平山周吉の妻のとみは昭和の天皇の皇后であらせられた香淳皇后にとても似ています。
熱海の旅館でアコーディオンを弾いている芸人は村上茂子で、ふむふむ、この人が小津安二郎と深い仲であった人なのか? なかなかに美人じゃのう。
ともあれ、日本映画、全盛期であります。


国立能楽堂で能楽を鑑賞しました。狂言は大蔵流『空腕』、能は喜多流『咸陽宮』。
『空腕』は怖いものなどないという太郎冠者が夜道に剣を渡され使いに出ます。本当は太郎冠者は臆病で夜道に怖いものばかり。これはドリフの笑いの原型ですか? 素朴な笑いが楽しい。
『咸陽宮』は泰の始皇帝の話。暗殺に訪れた二人、荊軻と秦舞陽に捕らえられた始皇帝が命の最後に后、花陽夫人の琴を聴きたいと頼み、それを許される。荊軻と秦舞陽は花陽夫人の秘曲の琴の音に聴き惚れ、暗殺は失敗し、荊軻と秦舞陽の仕えるう国は滅ぼされる。一場ものの劇的な内容でございました。
この能は平家物語の翻案でもあるそうだが、このような外国を舞台にした能も少なくはないように思われる。もっともな例は、英語で演ぜられるエルビス・プレスリーをシテとした新作能の『青い月のメンフィス』というのもあるらしい。しかし、能では中国の河は日本の川となるのです。アメリカのBASEBALLは日本では野球となるのです。日本に生粋のほんものなんてない。日本ではにせものをまっとうし、磨きあげて、ほんものとし、ほんものとなる。
受容と変容は日本を前に進める両軸で、その変容とは力によらない変容で、その力によらない変容によって受容されるものも変容し、日本も変容する。受容しなくなったなら、日本はすべてを失うだろう。変容しなくなれば、日本はすべてを失うだろう。力によって変容させようとすれば、日本はすべてを失うだろう。
(いつものように脱線してしまった。)


山梨県の忍野に釣りの旅をしました。忍野の桂川といえば、昔、来日の際、アメリカ合衆国のジミー・カーター大統領もフライフィッシングをした、フライフィッシャーにとっては聖地的な川でもありますが、魚は見えても、なかなか釣れない。この旅でのぼくは危惧されたボーズ(一匹も釣れないこと)じゃなくてよかった。一日目には虹鱒に出会えて、二日目には山女魚にも出会え、ネットで取り込み、リリースしました。この旅の後、明日から来年の三月十四日まで、釣人が忍野の桂川のほとりに立つことはない。魚たちはどう感じているのだろう? 来年の三月十五日以降、魚たちよ、また会おう。
釣りをしながら、里の川辺をほっつき歩き、いつも同じ宿に泊まり、帰りはいつも、富士吉田の道の駅で吉田うどんを食べる。その旅の繰り返しに平和と穏やかな幸せを感じます。


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プロフィール
HN:
えいちゃん
性別:
男性
職業:
S.E.
趣味:
音楽
自己紹介:
音楽を演奏したり聴いたりするのが好きです。
歌ってしまいます。そしてギターも少々。
Sam CookeやOtis Reddingなど古いR&Bが好きです。
歌ってしまいます。そしてギターも少々。
Sam CookeやOtis Reddingなど古いR&Bが好きです。


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