えいちゃん(さかい きよたか)
えいちゃんのぶろぐ

まだ初夢は見ておらす、去年の暮れにこんな夢を見た。ぼくはある人と初詣に出かける。その人と歩いていて、私の神殿は神社でも寺でもないのよ、とその人がつぶやくと、二人は、どこかエキゾチックな日本にはないような、異国に来てしまったかのような建物、しかもそれは神殿らしいものの前にいる。ぼくはそれが美しい思う。その人に促されて、門をゆっくりくぐり抜け、神殿に入っていく。
そこで目が覚めた。なんだろうか? 夢は何かを伝えてくれているのかもしれないのだけれど、ぼくにはわからないのです。ユングは城の夢をよく見たそうだ。そして、その城は育っていき、最晩年には立派な神殿のようになり、自らを呼ばわる声を聞いたというのです。
そこで目が覚めた。なんだろうか? 夢は何かを伝えてくれているのかもしれないのだけれど、ぼくにはわからないのです。ユングは城の夢をよく見たそうだ。そして、その城は育っていき、最晩年には立派な神殿のようになり、自らを呼ばわる声を聞いたというのです。


こんな夢を見た。ぼくはどこかの街を歩いている。街のいたるところで若い人たちが戦争反対のデモをしている。テレビや映画で見た1960年の安保反対のデモや、自分から見たらかなり年上の兄や姉の世代が繰り広げていた世界的な1960年代後半なデモを超える勢い。なにせ街を歩けば、いたるところで若い人たちのデモに出くわす。しかも、昔のデモのようにくすぶった色ではなく、みんな、色とりどりの服を着て、色とりどりのプラカードを掲げ、誰もが笑顔で輝いている。そうか、このように新しい時代は来てしまうのか、とぼくは心地よい喜びとともに感じている。
そこで目が覚めた。夢が現実になりますように、ぼくは街に繰り出し始めた若い人たちを心から応援しています。
そこで目が覚めた。夢が現実になりますように、ぼくは街に繰り出し始めた若い人たちを心から応援しています。


こんな夢を見た。ぼくは見知らぬ海辺の町に会社を辞めて引っ越している。下が海の水であるようなお世辞にも立派とはいえない小さな家は、半分は水上生活者の家であるかのようだ。明日からは会社に行くこともなく、ぼくは仕事探しをしなくてはならない、誰か、ぼくを必要とする人を見つけなければならないなどと思いながら、見知らぬ町を散歩する。海沿いを歩くと、浜辺ではない、いりくんだ入江には、それはたくさん魚がいそうだ。昔、買った釣り竿を車のトランクか物置からかひっぱり出して、釣りをしてみたいななどと思う。すると、あたりにはものすごくきれいな夕焼けがせまっていた。
そこで目が覚めた。この夢はどういうことなんだろう?
そこで目が覚めた。この夢はどういうことなんだろう?


こんな夢を見た。ぼくは矢野顕子さん新しいアルバムのCDを聴いている。楽しげな矢野顕子さんにしか作れない、歌えない知らない曲が流れる。相変わらずでもあるな、などと思っている。すると、いつの間にか、ぼくはテレビのようなものの前にいる。このアルバムにはシークレットのムービーが収録されており、それがスクリーンに映し出される。矢野顕子さんは虹をデザインしたワンピースの衣装をまとい、グランド・ピアノの前に座り、歌い始めると、もの狂いのような暗い影のような、光のようなものがさす。矢野顕子さんは、いろんなものをあげつらい、死ね、死ね、死ねと笑いながら歌い、歌い終えると、呵々爆笑する。それを見ながら、ぼくも大笑いしている。
そこで目が覚めた。これは夢というより悪夢なのだろうか? ぼくは内側から壊れ始めているのだろうか? きっと、もうそろそろ自分に正直に道を曲がり、別の道をゆきなさい、と神さまから言われているのです。
そこで目が覚めた。これは夢というより悪夢なのだろうか? ぼくは内側から壊れ始めているのだろうか? きっと、もうそろそろ自分に正直に道を曲がり、別の道をゆきなさい、と神さまから言われているのです。


こんな夢を見た。
ぼくは木の梁が見えるような会社の屋根裏で薄汚れた大きなシーツを二枚はおり、しゃがんでパソコンに向かい仕事をしている。着ているのはその二枚のシーツだけなのだけれども、その一枚もはぎ取られてしまう。気がつくと会社の前の田舎道の前にいて、その道に小さなトラックに引っ張られた数台のテレビディスプレイが進んでくる。そのテレビに映し出されているのは、どこかのホールでの弾き語りコンテストだ。ホールの観客席に腰掛けた知らない誰かがギターを持って立ち上がりステージに上がろうとするシーンが映し出される。隣でそれを見ていた営業部長が知らない誰かをぼくだと勘違いをし、すごいじゃないかと声をかけてくる。確かにこの知らない誰かの次はぼくが出るはずなのだけれども、テレビはトラックに引っ張っられて遠くに去ってしまう。気がつくと屋根裏にいるぼくは、パソコンに向かいしゃがんで仕事をしている。汚れたシーツ一枚のぼくはこの格好で電車に乗って帰れるのだろうかと思案していると、いつの間にか会社の外の大きな理容室の前に母と一緒にいる。母が髪を切らなきゃいけませんよと促すので、ぼくは理容室に入ろうとするが、汚れたシーツ一枚の自分の身なりを恥ずかしく思い、やめる。気がつくと屋根裏でまた仕事をしている。
そこで目が覚めた。つげ義春の漫画みたいな不安神経症のような夢だなと思った。ぼくの仕事環境を夢で表すとこういうことになるのかは、わかりません。
ぼくは木の梁が見えるような会社の屋根裏で薄汚れた大きなシーツを二枚はおり、しゃがんでパソコンに向かい仕事をしている。着ているのはその二枚のシーツだけなのだけれども、その一枚もはぎ取られてしまう。気がつくと会社の前の田舎道の前にいて、その道に小さなトラックに引っ張られた数台のテレビディスプレイが進んでくる。そのテレビに映し出されているのは、どこかのホールでの弾き語りコンテストだ。ホールの観客席に腰掛けた知らない誰かがギターを持って立ち上がりステージに上がろうとするシーンが映し出される。隣でそれを見ていた営業部長が知らない誰かをぼくだと勘違いをし、すごいじゃないかと声をかけてくる。確かにこの知らない誰かの次はぼくが出るはずなのだけれども、テレビはトラックに引っ張っられて遠くに去ってしまう。気がつくと屋根裏にいるぼくは、パソコンに向かいしゃがんで仕事をしている。汚れたシーツ一枚のぼくはこの格好で電車に乗って帰れるのだろうかと思案していると、いつの間にか会社の外の大きな理容室の前に母と一緒にいる。母が髪を切らなきゃいけませんよと促すので、ぼくは理容室に入ろうとするが、汚れたシーツ一枚の自分の身なりを恥ずかしく思い、やめる。気がつくと屋根裏でまた仕事をしている。
そこで目が覚めた。つげ義春の漫画みたいな不安神経症のような夢だなと思った。ぼくの仕事環境を夢で表すとこういうことになるのかは、わかりません。


こんな夢を見た。
ぼくは前に勤めていた会社が大きな教室のようなところで開いている会合のようなものに出席している。パイプ椅子がたくさん並べられ、そこに100人以上の人が座り、演台で誰かが話し始めるのを待っていて、少しざわついている。もしかして、就職説明会なのかと思ったが、むしろ、創立記念の会のようなものかもしれない。前に勤めていた会社なので、何人か顔見知りである人もいることを知るのだけど、ぼくは気遅れして、むしろ、ぼくがここにいるのを気づかないで欲しいとも思う。ふと、周りを見回すと、今の会社を辞めた人や数人の今の会社に今現在いる人も見かける。今の会社を辞めた人が前の会社の社長にどうぞ、よろしく、などと挨拶してもいて、どういうことなんだろう、と不思議にも思うが、なんとなく、この会がどういう会なのかを言葉にはならないのだけど、わかったような気がする。気が付くと、席の向こうの演台で誰かがしゃべり始めている声が聞こえている。
そこで目が覚めた。この夢は意味深だろうか。夢辞典というサイトにすごいことが書いてあった。
「【集まり】・【会合】・【集会】・【チーム】…個人的自己が全体性への感覚へ成長すること。個人主義が共同体的精神や集合的無意識または神へと近づいている状態」
ゆめゆめうたがうことなかれ
夢辞典:http://www.geocities.jp/dreamusic7/
ぼくは前に勤めていた会社が大きな教室のようなところで開いている会合のようなものに出席している。パイプ椅子がたくさん並べられ、そこに100人以上の人が座り、演台で誰かが話し始めるのを待っていて、少しざわついている。もしかして、就職説明会なのかと思ったが、むしろ、創立記念の会のようなものかもしれない。前に勤めていた会社なので、何人か顔見知りである人もいることを知るのだけど、ぼくは気遅れして、むしろ、ぼくがここにいるのを気づかないで欲しいとも思う。ふと、周りを見回すと、今の会社を辞めた人や数人の今の会社に今現在いる人も見かける。今の会社を辞めた人が前の会社の社長にどうぞ、よろしく、などと挨拶してもいて、どういうことなんだろう、と不思議にも思うが、なんとなく、この会がどういう会なのかを言葉にはならないのだけど、わかったような気がする。気が付くと、席の向こうの演台で誰かがしゃべり始めている声が聞こえている。
そこで目が覚めた。この夢は意味深だろうか。夢辞典というサイトにすごいことが書いてあった。
「【集まり】・【会合】・【集会】・【チーム】…個人的自己が全体性への感覚へ成長すること。個人主義が共同体的精神や集合的無意識または神へと近づいている状態」
ゆめゆめうたがうことなかれ
夢辞典:http://www.geocities.jp/dreamusic7/


こんな夢を見た。
ぼくは海岸に水着を着ている。その海岸は砂浜の海岸ではなく、岩場の海岸で、それらの岩は、火山から吹き出して長い年月もかけて固まったかのようにごつごつしていて大きくてつやのない黒い色をしている。海の水の色も真っ黒で、その黒さで10センチメートル先も見えない。その海岸にはぼく以外に誰一人いない。ぼくは水に入り泳いでみて、その水が冷たくもなく、温かくもなく、その真っ黒な水に不浄さはなく、むしろ清浄さの中で、身も心も洗われるように感じる。ひと泳ぎした後一休みをし、ぼくは持ったきていたフィンを足に着けて泳いでみる。清らかな真っ黒い水の中をイルカを真似た足の動きでどんどん進んで行き気持ちいい。
そこで目がさめた。この夢はあれかな。ユングでもなく、流行りのアドラーでもなく、フロイト系かな。でもないか。
荘子にこんな話があるらしい。長いですが、お暇ならば、お読みになってくださりまし。
「北の果ての黒い海に住んでいる魚がいる。その名を鯤という。鯤の大きさは幾千里ともはかり知ることができない。やがて、化身して鳥となり、その名を鵬という。鵬の背の広さは幾千里あるのかはかり知ることができない。ひとたび、ふるいたって羽ばたけば、その翼は天空にたれこめる雲と区別がつかないほどである。立ちのぼる旋風に羽ばたき、旋回しながら上昇すること九万里、雲海のかなたに出て、青天を背にしながら、やがて南をさし、南極の暗い海に向かおうとする。この南の深い海こそ、世に天池と呼ばれるものである。
斉諧とは、世にも怪奇な物語を多く知っている人である。彼は次のように述べている、「鵬が南のはての海に渡ろうとするときは、翼をひらいて三千里にわたる水面をうち、立ちのぼるつむじ風に羽ばたきながら、九万里の高さに上昇する。こうして、飛びつづけること六月、はじめて到着して憩うのである」
地上にはかげろうが揺らぎ立ち、塵が立ちこめ、さまざまな生物が息づいているのに、空は青一色に見える。あの青々とした色は、天そのものの本来の色なのだろうか。それとも遠く果てしないために、あのように見えるのだろうか。おそらくは後者であろう。とするならば、あの大鵬が下界を見下ろした場合にも、やはり青一色に見えていることであろう。そもそも、水も厚く積もらなければ、大舟を浮かべるだけの力がない。杯の水を土間のくぼみに落としただけでは、芥が浮かんで舟になるのがせいぜいであり、杯を置いても地につかえるであろう。水が浅くて、舟が大きすぎるからである。とするならば、風も厚く積もらなければ、鵬の大きな翼をささえるだけの力はない。だから、九万里の高さにのぼって、はじめて翼に耐える風が下にあることになる。こうしていまこそ、大鵬は風に乗って上昇しようとする。背に青天を背負うばかりで、さえぎるものもない。こうしていまこそ、南を指して飛び立とうとする。
蜩と小鳩はこの大鵬のありさまを見て、あざ笑っていう、「われわれは勢いよく飛び立ち、楡や枋の木をめがけて突進しても、ときには届かず、地面にたたきつけられることがある。それなのに、九万里の空に上り、南をさしてゆくとは、とほうもないことではないか」だが、近郊の野に出かける者は、三度の食事をするだけで帰ってきても、腹のすくことはないだろうが、百里の地に出かける者は、前夜から米をついて準備しなくてはならず、千里の地に出かける者は、三ヶ月も前から食糧を集めておかなければならない。とするならば、蜩や小鳩などに、大鵬の心を知ることなど、どうしてできようか」
ぼくは海岸に水着を着ている。その海岸は砂浜の海岸ではなく、岩場の海岸で、それらの岩は、火山から吹き出して長い年月もかけて固まったかのようにごつごつしていて大きくてつやのない黒い色をしている。海の水の色も真っ黒で、その黒さで10センチメートル先も見えない。その海岸にはぼく以外に誰一人いない。ぼくは水に入り泳いでみて、その水が冷たくもなく、温かくもなく、その真っ黒な水に不浄さはなく、むしろ清浄さの中で、身も心も洗われるように感じる。ひと泳ぎした後一休みをし、ぼくは持ったきていたフィンを足に着けて泳いでみる。清らかな真っ黒い水の中をイルカを真似た足の動きでどんどん進んで行き気持ちいい。
そこで目がさめた。この夢はあれかな。ユングでもなく、流行りのアドラーでもなく、フロイト系かな。でもないか。
荘子にこんな話があるらしい。長いですが、お暇ならば、お読みになってくださりまし。
「北の果ての黒い海に住んでいる魚がいる。その名を鯤という。鯤の大きさは幾千里ともはかり知ることができない。やがて、化身して鳥となり、その名を鵬という。鵬の背の広さは幾千里あるのかはかり知ることができない。ひとたび、ふるいたって羽ばたけば、その翼は天空にたれこめる雲と区別がつかないほどである。立ちのぼる旋風に羽ばたき、旋回しながら上昇すること九万里、雲海のかなたに出て、青天を背にしながら、やがて南をさし、南極の暗い海に向かおうとする。この南の深い海こそ、世に天池と呼ばれるものである。
斉諧とは、世にも怪奇な物語を多く知っている人である。彼は次のように述べている、「鵬が南のはての海に渡ろうとするときは、翼をひらいて三千里にわたる水面をうち、立ちのぼるつむじ風に羽ばたきながら、九万里の高さに上昇する。こうして、飛びつづけること六月、はじめて到着して憩うのである」
地上にはかげろうが揺らぎ立ち、塵が立ちこめ、さまざまな生物が息づいているのに、空は青一色に見える。あの青々とした色は、天そのものの本来の色なのだろうか。それとも遠く果てしないために、あのように見えるのだろうか。おそらくは後者であろう。とするならば、あの大鵬が下界を見下ろした場合にも、やはり青一色に見えていることであろう。そもそも、水も厚く積もらなければ、大舟を浮かべるだけの力がない。杯の水を土間のくぼみに落としただけでは、芥が浮かんで舟になるのがせいぜいであり、杯を置いても地につかえるであろう。水が浅くて、舟が大きすぎるからである。とするならば、風も厚く積もらなければ、鵬の大きな翼をささえるだけの力はない。だから、九万里の高さにのぼって、はじめて翼に耐える風が下にあることになる。こうしていまこそ、大鵬は風に乗って上昇しようとする。背に青天を背負うばかりで、さえぎるものもない。こうしていまこそ、南を指して飛び立とうとする。
蜩と小鳩はこの大鵬のありさまを見て、あざ笑っていう、「われわれは勢いよく飛び立ち、楡や枋の木をめがけて突進しても、ときには届かず、地面にたたきつけられることがある。それなのに、九万里の空に上り、南をさしてゆくとは、とほうもないことではないか」だが、近郊の野に出かける者は、三度の食事をするだけで帰ってきても、腹のすくことはないだろうが、百里の地に出かける者は、前夜から米をついて準備しなくてはならず、千里の地に出かける者は、三ヶ月も前から食糧を集めておかなければならない。とするならば、蜩や小鳩などに、大鵬の心を知ることなど、どうしてできようか」
