えいちゃん(さかい きよたか)
えいちゃんのぶろぐ

国立音楽大学にオペラを見に行きました。友だちに誘われて、大学院生とそのOB、OGたちの一年に一回の定期演奏会で、その舞台と演奏と歌唱、演技はプロに劣らぬ素晴らしさで、題目はモーツアルト作のあの有名な「フィガロの結婚」でした。この四幕もののモーツアルトのもっとも有名な歌劇がこういうコメディーであったことは知らなかったのですが、一幕目や二幕目では眠くなるところもあったのですが、その四幕目では、これでもか、これでもかとたたみかけ、コンサートホールを満たし、溢れ出るかのような素晴らしい楽曲と演奏、歌唱に、いささかの少なからぬ陳腐なストーリーを超えて、感動してしまい、涙腺を刺激されもしたのです。ついにはぼくもカーテン・コールの拍手の盛大な輪に加わってしまっているのでした。
この作品もモーツアルトの諧謔精神が遺憾なく発揮されていて、ぼくはこの催しに誘ってくれたぼくの友だちにモーツアルトって反逆児だね、と問いかけると、そのクラシック通の友だちは、モーツアルトってパンクなんだよ、と不思議な納得できる答えをぼくにくれたのです。そうか、そういう意味でも、モーツアルトはフランス革命前夜というより、その未明をもっとも速く駆け抜けた、夭折の音楽のミューズに愛された天才パンクだったのかもしれない、などと思いました。
もう一つ、内緒にしておきたことでもあるのだけど、この催しのチケット、千円札三枚でゆうにおつりが来るのです。
以前、モーツアルトの「ドン・ジョバンニ」はこの国立音楽大学で見たことがあるし、となるとモーツアルトの三大オペラのもう一つ「魔笛」もどこかで見てみたいなぁ。
さて、この「フィガロの結婚」を見る前に、おせっかいかもしれない忠告をば。ストーリーと登場人物の相関関係はざっとおさえておきましょう。とても入り組んでて、分かりにくいのです。それから、劇を見たら思ったのですが、「フィガロの結婚」の何かの曲を結婚式の時にBGMか何かでかけるのは、もしかして、不謹慎かもしれませんぞ。などと言うと、空の上からアマデウスの哄笑が聞こえてきますな。
http://www.kunitachi.ac.jp/event/concert/college/20141018_01.html


六本木というか西麻布にある「音楽実験室 新世界」というところで催された「テ祭2014」というライブを見に行ったら、お酒をおごられるDJからお酒をおごられてしまったよ。なはは(へ。へ)ζ。
一部のDJタイムでは美空ひばりがずっとかかっておりましたな。それを聴いて、1950年代の美空ひばりとそのバック・バンドの音楽性の高さにひれ伏したくなりました。ひばりの唄の節回しもすばらしいし、バンドと一体となったはずむリズムがディープです。
セカンドのDJタイムではデヴィッド・ボウイからテレビジョンになだれ込み名曲「マーキー・ムーン」がかっこよすぎです。この「マーキー・ムーン」の張りつめたエキセントリックな緊張感がたまりません。
さて、今夜のメインはオーセンティックなレゲエ・バンドの西内徹バンドでした。そこにからむ内田直之さんの生ダブがするどくかっこよかったのだけど、アンコール前の日本語の一曲が一番好きな感じです。
そして、ふと周りを見回すとわしよりずっと若い人ばっか。その若いみんなも後15年もすれば、こんなところには来なくなるのかしら。それはそれで人の人生だからいいかもしれないけれど、いまだにここに来てしまい、普通にフット・ストンプしてしまうわれは、レッド・アラートの希少生物なのかもしれんなぁ。
そして、三度目のDJタイムでかかったトマトズにほろりとして、家路についたのでした。


今日の午後三時からの小田急相模原にあるエルトピートでのギグにステラのオールド・ギターを持っていったのだけど、いざ本番で弾き始めると、ブリッジのあたりからビビりの音。結局、直らず、そのまま、弾き語る。
どうしたのだろうとうと、家に帰って来てから、再び弾くと、ビビり音はおさまっていた。弦のエンド・ポールがびびっていたようなので、そこに薄い小さな布を挟むという処置をしたのですが、あのビビり音は何だったのだろう。
人の本性は仏だというけれど、ギターには何か神がやどっているのではないかと、たまに思ったりする。まるで生きているかのようだ。そこでぼくの得た今日の解釈は、このギターが、今日の午後は、こんな音で奏でたかったのだというものだけど、あながちは外れてはいないだろう。いつか、ぼくとギターは心で本当に結ばれ、最高の音を奏でられるでしょう。
ギターは生きている。ゆめゆめうたがうことなかれ。
どうしたのだろうとうと、家に帰って来てから、再び弾くと、ビビり音はおさまっていた。弦のエンド・ポールがびびっていたようなので、そこに薄い小さな布を挟むという処置をしたのですが、あのビビり音は何だったのだろう。
人の本性は仏だというけれど、ギターには何か神がやどっているのではないかと、たまに思ったりする。まるで生きているかのようだ。そこでぼくの得た今日の解釈は、このギターが、今日の午後は、こんな音で奏でたかったのだというものだけど、あながちは外れてはいないだろう。いつか、ぼくとギターは心で本当に結ばれ、最高の音を奏でられるでしょう。
ギターは生きている。ゆめゆめうたがうことなかれ。


銀座にある経文館ウェインライトホールで開催されている「藤城清治卆寿記念90展」に行ってくる。藤城清治さんの影絵は大好きなのです。実物を見ると本当に美しいよ。東京12チャンネルの懐かしい深夜の天気予報の影絵のあの人です。
そう、展覧会会場のそこかしこから、女子からの、かわいい、かわいい、という感嘆の声もいろんなところからぼくの耳に聞こえてきた。かわいくて美しいんです。日本人の美意識の基本なのかな。
藤城清治さんのこれらの影絵は芸術品であるとともに美術品であり、工芸品であると思う。アンディー・ウォーホールは自身のシルクスクリーン制作の工房を"factory"と呼んでいたのだけれど、「ケロヨン」というかわいいキャラクターももつ藤城清治さんは、日本のポップ・アートの草分けのような人で、昔、テレビで見たその工房は美しい何かを作る手工業の工場(こうば)なのだと思った。藤城清治さんは90歳になられてもその工場の工場長をされていて、その美しい心でいつまでも美しいものを作り続けて欲しい、と思いました。
http://www.kyobunkwan.co.jp/blog/archives/5845


今夜は町田の万象房で日倉士歳朗さんのギグでした。日倉士さんの素晴らしいギターと歌を堪能しました。日倉士さんのライブは何度か経験しているのだけど、その素晴らしい歌の中で、いつも深くぼくの心のにほんとうに入りこんでくる歌があって、それは「ダニー・ボーイ」という歌なのです。日倉士さんの「ダニー・ボーイ」を聞いてから、ぼくはユー・チューブやCDで何人ものシンガーの「ダニー・ボーイ」を聞いてみました。日倉士さんを越える「ダニー・ボーイ」は見つからなかった。
ギグで終え、まかないの食事を食べる日倉士さんにぼくはリクエストしてしまう。「ダニー・ボーイ」をCDで発売してくれませんか、ぼくは毎日、聞きますよ。日倉士さんは笑って何も答えない。そこでぼくは、妄想に走ってしまう。この「ダニー・ボーイ」一曲で何人もの日本のミュージシャンに参加してもらいコンピレーション・アルバムは作れないものかと。ぼくはプロデューサーでこのアルバムでは歌わないことにしよう。このアルバムは大ヒットし、ぼくは日本のボブ・ゲルドフだと、偽善者だと揶揄されても気にしない。ティーン・エイジャーのころ、ぼくはボブ・ゲルドフのブームタウン・ラッツというバンドが好きだったから。
もちろんそのアルバムのラストは日倉士歳朗さんの「ダニー・ボーイ」で、もしも、このアルバムが発売されるならば、その理由はこの「ダニー・ボーイ」の歌自身にあるようなのだ。訳してみます。バグ・パイプは、昔、アイルランドやスコットランドでは戦いの召集ラッパであることを気にとめて、つたない訳詞を読んでみてください。
「ダニー・ボーイ、バグ・パイプが呼んでいる
山の谷から谷へ
夏も終わり、薔薇も枯れてしまった
行かなけばならなかったおまえをわたしは待っている
草の生い茂る夏におまえは帰ってくる
それとも雪におおわれた静かな渓谷に
日が照ろうが曇りの日であろうとも
ダニー・ボーイ、おまえがいないととても寂しい
もしも、おまえが帰ってきたとして、その時にはすべての花は散っている
たぶん、わたしも死んでいるだろう
おまえはよこたわったわたしを見つけ
ひざまずいて祈りをささげてくれるだろうか
草の生い茂る夏におまえは帰ってくる
それとも雪におおわれた静かな渓谷に
日が照ろうが曇りの日であろうとも
ダニー・ボーイ、おまえがいないととても寂しい」
ギグで終え、まかないの食事を食べる日倉士さんにぼくはリクエストしてしまう。「ダニー・ボーイ」をCDで発売してくれませんか、ぼくは毎日、聞きますよ。日倉士さんは笑って何も答えない。そこでぼくは、妄想に走ってしまう。この「ダニー・ボーイ」一曲で何人もの日本のミュージシャンに参加してもらいコンピレーション・アルバムは作れないものかと。ぼくはプロデューサーでこのアルバムでは歌わないことにしよう。このアルバムは大ヒットし、ぼくは日本のボブ・ゲルドフだと、偽善者だと揶揄されても気にしない。ティーン・エイジャーのころ、ぼくはボブ・ゲルドフのブームタウン・ラッツというバンドが好きだったから。
もちろんそのアルバムのラストは日倉士歳朗さんの「ダニー・ボーイ」で、もしも、このアルバムが発売されるならば、その理由はこの「ダニー・ボーイ」の歌自身にあるようなのだ。訳してみます。バグ・パイプは、昔、アイルランドやスコットランドでは戦いの召集ラッパであることを気にとめて、つたない訳詞を読んでみてください。
「ダニー・ボーイ、バグ・パイプが呼んでいる
山の谷から谷へ
夏も終わり、薔薇も枯れてしまった
行かなけばならなかったおまえをわたしは待っている
草の生い茂る夏におまえは帰ってくる
それとも雪におおわれた静かな渓谷に
日が照ろうが曇りの日であろうとも
ダニー・ボーイ、おまえがいないととても寂しい
もしも、おまえが帰ってきたとして、その時にはすべての花は散っている
たぶん、わたしも死んでいるだろう
おまえはよこたわったわたしを見つけ
ひざまずいて祈りをささげてくれるだろうか
草の生い茂る夏におまえは帰ってくる
それとも雪におおわれた静かな渓谷に
日が照ろうが曇りの日であろうとも
ダニー・ボーイ、おまえがいないととても寂しい」


ボビー・ウーマックの訃報が届いた。本当に偉大なソウル・シンガーでもありコンポーザーでもあり、そのキャリアの出発地はサム・クックのレコーディング・バンドのギタリストだった。常にソウル・ミュージックの第一線で活躍し、音楽を発表しつづけ、世界中へコンサート・ツアーに出かけていた。
ぼくは一番好きなアルバム"Home Is Where the Heart Is"を聴いています。このアルバムはアラバマの片田舎の今では伝説ともなっているマッスル・ショールズ・サウンド・スタジオで1976年に制作されたもので、アメリカ南部のあの空気、風が豊かにゆっくり吹いてくる、決して古くならないエヴァー・グリーンの傑作です。
このアルバムにサム・クックのカヴァー曲"A Change Is Gonna Come"が入っているのだけど、いまごろ、再会した二人は、空の向こうの世界でセッションしているんですな。二人の共作の新曲が聞こえたよ。


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プロフィール
HN:
えいちゃん
性別:
男性
職業:
S.E.
趣味:
音楽
自己紹介:
音楽を演奏したり聴いたりするのが好きです。
歌ってしまいます。そしてギターも少々。
Sam CookeやOtis Reddingなど古いR&Bが好きです。
歌ってしまいます。そしてギターも少々。
Sam CookeやOtis Reddingなど古いR&Bが好きです。


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