えいちゃん(さかい きよたか)
えいちゃんのぶろぐ

こんな夢を見た。ぼくはスペイン製のクラシック・ギターを弾こうとすると、そのギターの2本の弦、1番と2番が切れているのを知り、張り替えなくてならないと思っている。すると、ある贈りものが郵送されてきているのを知る。これは何かの記念のためにとぼくに贈られた父と母からのプレゼントなのだけど、その記念がどういう記念なのかはぼくは知らない。郵送物を包んでいた紙包みを母がほどきながら、これは無学な自分にはわからないけれど、あなたが欲しいと言うから、贈り物をしんぜますと言い、ぼくに渡してくれる。受け取ると、二冊の古い本で、一冊は平凡社世界大百科事典の分冊で2000年の年度版、一冊は日本文学全集の中の一冊で、小林英雄の集成。母親から丁寧に扱わないといけないよと言われつつ、ぼくは平凡社世界大百科事典の分冊で2000年の年度版の頁を開いてみる。装幀がくずれそうなので、そっと開いてみる。すると、そには写真の張り込みや手書きの書き込みがたくさんしてあって、その本が編集者が校正の時に使用したものだと知る。
そこで目が覚めた。子どものころ百科事典をながめるとも読むともなくめくっていくのが好きだったことを思い出す。そして、ランボーの詩の訳やモーツアルトについての批評文で有名な小林英雄だけど、ぼくの一番好きな文は「ゴッホの手紙」かな。校正中の本が贈られるというのはどういうことだろう? ぼくの本はまだ書かれていないところがあり、完成されていないことは確かなようなのです。
そこで目が覚めた。子どものころ百科事典をながめるとも読むともなくめくっていくのが好きだったことを思い出す。そして、ランボーの詩の訳やモーツアルトについての批評文で有名な小林英雄だけど、ぼくの一番好きな文は「ゴッホの手紙」かな。校正中の本が贈られるというのはどういうことだろう? ぼくの本はまだ書かれていないところがあり、完成されていないことは確かなようなのです。


こんな夢を見た。ぼくはどこかのライブ・ハウスのオープン・マイクで弾き語りをする。そのオープン・マイクの後、出演した人たちと数軒、飲みに行き、酔っぱらい、ある友人の家に数人で泊めてもらうことにする。夜通し、その友人宅でみんなとおしゃべりをしている。その友人が、もう朝の五時だから、みなさん、家に帰る時間だよと告げる。そうか、ぼくはもう帰ろうと思い、帰ろうとするのだが、ぼくの持って来たギターの入っているバッグが見当たらない。友人にぼくのギターのバッグは見なかったかと尋ねると、あの部屋の隅に立てかけけてあるのがそうではないかと友人は答える。見知らぬ昔風の合皮製のギター・バッグがそこにはあり、中身を覗いてみると、ぼくが、今、欲しいフェンダー社製のテレキャスター・シン・ラインが入っている。これではなくて、ぼくの持って来たギターはハーモニーのパーラー・ギターかヤマハのダイナミック・ギターなのだ。ぼくはギターを失くしてしまったと思うと同時に、今、ぼくのいるところは夢の中なのなだから、夢から覚めればいいんだと思う。
そこで目が覚めた。目が覚めたら、やはりぼくはギターを失くしてはおらず、ぼくの部屋のギター・スタンドにそのギターは立てかけてあった。こういう夢、自分が夢を見ていることに気づく夢を明晰夢と呼ぶらしいのだが、ぼくはしばしば見てしまう。ぼくは荘子の有名な「胡蝶の夢」の話を思い出してしまう。ウィキペディアにあったその訳文です。
「以前のこと、わたし荘周は夢の中で胡蝶となった。喜々として胡蝶になりきっていた。自分でも楽しくて心ゆくばかりにひらひらと舞っていた。荘周であることは全く念頭になかった。はっと目が覚めると、これはしたり、荘周ではないか。ところで、荘周である私が夢の中で胡蝶となったのか、自分は実は胡蝶であって、いま夢を見て荘周となっているのか、いずれが本当か私にはわからない。荘周と胡蝶とには確かに、形の上では区別があるはずだ。しかし主体としての自分には変わりは無く、これが物の変化というものである」
中国には「邯鄲の枕」という話もあるらしい。同じくウィキペディアから引用します。
「趙の時代に「廬生」という若者が人生の目標も定まらぬまま故郷を離れ、趙の都の邯鄲に赴く。廬生はそこで呂翁という道士(日本でいう仙人)に出会い、延々と僅かな田畑を持つだけの自らの身の不平を語った。するとその道士は夢が叶うという枕を廬生に授ける。そして廬生はその枕を使ってみると、みるみる出世し嫁も貰い、時には冤罪で投獄され、名声を求めたことを後悔して自殺しようとしたり、運よく処罰を免れたり、冤罪が晴らされ信義を取り戻ししたりしながら栄旺栄華を極め、国王にも就き賢臣の誉れを恣に至る。子や孫にも恵まれ、幸福な生活を送った。しかし年齢には勝てず、多くの人々に惜しまれながら眠るように死んだ。ふと目覚めると、実は最初に呂翁という道士に出会った当日であり、寝る前に火に掛けた粟粥がまだ煮揚がってさえいなかった。全ては夢であり束の間の出来事であったのである。廬生は枕元に居た呂翁に「人生の栄枯盛衰全てを見ました。先生は私の欲を払ってくださった」と丁寧に礼を言い、故郷へ帰って行った」
夢をとても神聖なものだと考え、夢に理想を叶える力があると信じるマーレー半島のセマイ族の三つの教えです。
「・夢では恐怖や困難に打ち勝つ事・夢の中ではいつも快楽を選択する事・夢では確かな結果を出す事」
Life is a dream time? 目覚めはするのですが、ぼくはまだ夢の操縦士にはなれていないようです。
そこで目が覚めた。目が覚めたら、やはりぼくはギターを失くしてはおらず、ぼくの部屋のギター・スタンドにそのギターは立てかけてあった。こういう夢、自分が夢を見ていることに気づく夢を明晰夢と呼ぶらしいのだが、ぼくはしばしば見てしまう。ぼくは荘子の有名な「胡蝶の夢」の話を思い出してしまう。ウィキペディアにあったその訳文です。
「以前のこと、わたし荘周は夢の中で胡蝶となった。喜々として胡蝶になりきっていた。自分でも楽しくて心ゆくばかりにひらひらと舞っていた。荘周であることは全く念頭になかった。はっと目が覚めると、これはしたり、荘周ではないか。ところで、荘周である私が夢の中で胡蝶となったのか、自分は実は胡蝶であって、いま夢を見て荘周となっているのか、いずれが本当か私にはわからない。荘周と胡蝶とには確かに、形の上では区別があるはずだ。しかし主体としての自分には変わりは無く、これが物の変化というものである」
中国には「邯鄲の枕」という話もあるらしい。同じくウィキペディアから引用します。
「趙の時代に「廬生」という若者が人生の目標も定まらぬまま故郷を離れ、趙の都の邯鄲に赴く。廬生はそこで呂翁という道士(日本でいう仙人)に出会い、延々と僅かな田畑を持つだけの自らの身の不平を語った。するとその道士は夢が叶うという枕を廬生に授ける。そして廬生はその枕を使ってみると、みるみる出世し嫁も貰い、時には冤罪で投獄され、名声を求めたことを後悔して自殺しようとしたり、運よく処罰を免れたり、冤罪が晴らされ信義を取り戻ししたりしながら栄旺栄華を極め、国王にも就き賢臣の誉れを恣に至る。子や孫にも恵まれ、幸福な生活を送った。しかし年齢には勝てず、多くの人々に惜しまれながら眠るように死んだ。ふと目覚めると、実は最初に呂翁という道士に出会った当日であり、寝る前に火に掛けた粟粥がまだ煮揚がってさえいなかった。全ては夢であり束の間の出来事であったのである。廬生は枕元に居た呂翁に「人生の栄枯盛衰全てを見ました。先生は私の欲を払ってくださった」と丁寧に礼を言い、故郷へ帰って行った」
夢をとても神聖なものだと考え、夢に理想を叶える力があると信じるマーレー半島のセマイ族の三つの教えです。
「・夢では恐怖や困難に打ち勝つ事・夢の中ではいつも快楽を選択する事・夢では確かな結果を出す事」
Life is a dream time? 目覚めはするのですが、ぼくはまだ夢の操縦士にはなれていないようです。


こんな夢を見た。ぼくはどこかのライブ会場にいる。立食のパーティー会場にもなっていて、古友だちがたくさん来ている。ぼくがある友だちと話していると、入口から死んでしまった友だちが歩いて来て、ぼくに近づいて来る。ぼくも、あっとお思い、彼に近づき挨拶をする。よっ、久しぶりと声をかけ、右手と左手の両手をあわせて、握手をする。友だちは見たこともないような無精髭をはやし、少し疲れた風なのだけど、確かに彼なのだ。けれど、少し目をはなしたすきに彼は姿を消して、いなくなっている。隣にいた友だちに今の見たか、来ているんだよと声をかけると、確かに見た、見た、来ているんだねと答える。しばらくして、ぼくはパーティー会場を歩き、別の友だちにそのことを話すと、その友だちも、おれも見た、見た、きているんだよと答える。すると、どこから、えいちゃんとぼくを呼ぶ声がし、ぼくは声のした方に歩いて行く。彼の姿は見えない。ぼくは見えない姿に手をさしのべてみる。人の形にかすかに暖かい。来ているんだとぼくは思う。
そこで目が覚めた。その友だちが旅立ったのはちょうど今ごろの季節だったっけと思い出した。
そこで目が覚めた。その友だちが旅立ったのはちょうど今ごろの季節だったっけと思い出した。


こんな夢を見た。ぼくは自分の部屋にいる。いつもすわっているカーペットのあたりにのぼくの昔から使っているブルーのフレームの眼鏡の柄の折れているのを見つける。お気に入りの眼鏡だから、ぼくは同じようなデザインの新しい眼鏡を買うしかないかなと思う。
そこで目が覚めた。眠る前に蚊がまとわりついてくるので、蚊取り線香を取り出す時に偶然、なくしたと思っていた柄のおれた黄色いフレームの眼鏡を見つけたことが夢にも反映されたのでだろうか? それとも、この前の会社の飲み会で女子から青いフレームの眼鏡が似合うのなんて素敵と言われたことが出てきたのだろうか? はたまた、眼鏡を変えるということは、新しい世界の見方、見え方を発見するということだろうか? ぼくはいつだってブルーにふちどられた眼鏡をかけて明日を見たいと思っていたのかもしれないけれど、それを見たことはなかったのです。で、ぼくの心の中で河合隼雄先生はぼくに、もう眼鏡は必要ないのですかと問いかけるのかもしれません。ぼくは、こう答えるような気もするのです。それがもらえるとするなら、今がよく見える眼鏡をください。
そこで目が覚めた。眠る前に蚊がまとわりついてくるので、蚊取り線香を取り出す時に偶然、なくしたと思っていた柄のおれた黄色いフレームの眼鏡を見つけたことが夢にも反映されたのでだろうか? それとも、この前の会社の飲み会で女子から青いフレームの眼鏡が似合うのなんて素敵と言われたことが出てきたのだろうか? はたまた、眼鏡を変えるということは、新しい世界の見方、見え方を発見するということだろうか? ぼくはいつだってブルーにふちどられた眼鏡をかけて明日を見たいと思っていたのかもしれないけれど、それを見たことはなかったのです。で、ぼくの心の中で河合隼雄先生はぼくに、もう眼鏡は必要ないのですかと問いかけるのかもしれません。ぼくは、こう答えるような気もするのです。それがもらえるとするなら、今がよく見える眼鏡をください。


こんな夢を見た。ぼくは自分の家のとある部屋にいる。その中には、一部、これから色を塗ったり、形を組み立てなくてはならない、完成されていないものもあるのだけれど、その部屋にはさまざまな神さまの青や緑、エメラルド色の鉱物の彫像が四方八方に置かれている。いつの間にか父親が通信販売か何かでこれらの数えきれない像を取り寄せたのだろうか? ぼくはそれらを見ながら、それらの神々の笑みの恵みの中にもいて、自分がおごそかにで安らかな気持にもなっていることを発見し、その部屋で、神々の彫像を眺めている。
そこで目が覚めた。芥川龍之介の「神神の微笑」という小説は、どんな物語だっただろうか? ふと、江戸には八百八町があり、八百万の神が御座していたのだろうかとも思う。夢から覚めても、四方八方の数えきれない笑みを含んだ神々から見つめられているような不思議さがぼくに残っていた。
そこで目が覚めた。芥川龍之介の「神神の微笑」という小説は、どんな物語だっただろうか? ふと、江戸には八百八町があり、八百万の神が御座していたのだろうかとも思う。夢から覚めても、四方八方の数えきれない笑みを含んだ神々から見つめられているような不思議さがぼくに残っていた。


こんな夢を見た。ぼくは何のへんてつもない日本国中どこにでもあるような知らない町にいる。ある古びた小さな日本旅館が見える。どんな旅館だろうと思い、旅館の建屋につづく細くて短い砂利道を歩くと、すぐに人の高さよりも高い大きな岩が二つ、置いてあり、それが門のようになっている。その門から覗くに、その旅館は昔の連れ込み宿のような風情。ぼくは道を引き返してくると、そこに飲ものの自動販売機がある。お茶かブラックコーヒーでも飲もうかなと思案していると、工事現場からやって来たかのような小型のトラックが猛スピードで、ぎりぎりにぶつからず、あの岩の門をくぐり抜けて行った。
近くにいたぼくの友だちの女子がかけよって来て、今の見た、猛スピードだったね、どうしたんだろうとぼくに話しかけ、ぼくの肩を抱いて、大笑いを始める。肩よせあい、ぼくと彼女は大笑いしている。
そこで目が覚めた。ぼくは空の向こうの河合隼雄先生にこう申し述べるような気がするのです。
「ぼくは、もうあんな岩の門をくぐることはありません、くぐるとしたならば、何かしらもっと違う門です」
河合先生はこうもぼくに尋ねられます。
「それは、どういうことかな?」
ぼくはそれにこう答えるような気もするのです。
「何と言ったらいいのか、ぼくはもう急がないということです」
「急がない、ほほう、それはいいですね。それでは、岩の門ではない、何かしらもっと違う門のことは、また今度の機会にお話してくださいね」と河合先生の言葉に、ぼくは大きな声で、「はい」と答えるような気がしました。
近くにいたぼくの友だちの女子がかけよって来て、今の見た、猛スピードだったね、どうしたんだろうとぼくに話しかけ、ぼくの肩を抱いて、大笑いを始める。肩よせあい、ぼくと彼女は大笑いしている。
そこで目が覚めた。ぼくは空の向こうの河合隼雄先生にこう申し述べるような気がするのです。
「ぼくは、もうあんな岩の門をくぐることはありません、くぐるとしたならば、何かしらもっと違う門です」
河合先生はこうもぼくに尋ねられます。
「それは、どういうことかな?」
ぼくはそれにこう答えるような気もするのです。
「何と言ったらいいのか、ぼくはもう急がないということです」
「急がない、ほほう、それはいいですね。それでは、岩の門ではない、何かしらもっと違う門のことは、また今度の機会にお話してくださいね」と河合先生の言葉に、ぼくは大きな声で、「はい」と答えるような気がしました。


こんな夢を見た。ぼくはとあるバーにいる。顔見知りの友だちや知り合いがたくさんいて、今まで見たことないほどにとてもにぎわっている。1人でまかなっているバーテンダーもとても忙しいそうだ。それを見ていたぼくの友だちの女子が、わたし、手伝うよ、と言ってカウンターの中に入って行く。それを見たぼくは、お客さんとして来ているのに、いかにもあの人らしいな、とカクテルを作り始める姿を見て思う。
そこで目が覚めた。空の上から河合隼雄先生にこう聞かれるかもしれません。そのバーにはまた行きますかな? ぼくは答えるでしょう。
ええ、行きますよ、夢の中で。だって、そこは夢の中のバーなのですから。
そこで目が覚めた。空の上から河合隼雄先生にこう聞かれるかもしれません。そのバーにはまた行きますかな? ぼくは答えるでしょう。
ええ、行きますよ、夢の中で。だって、そこは夢の中のバーなのですから。
