えいちゃん(さかい きよたか)
えいちゃんのぶろぐ

ロバート・ジョンスンという人のブルースが好きになったなら、日暮泰文さんの書いた「ロバート・ジョンソンを読む アメリカ南部が生んだブルース超人」という本を読むがいい。この本の著者、日暮泰文さんは故中村とうよう氏とともに、最も初期、1,970年ごろブルースという音楽を紹介した張本人なのらしい。そして、この本の内容では、ロバート・ジョンスンに墓場でギターを教えたアイク・ジマーマンという人がいたと、伝える。何とも。ビザール(奇っ怪)な魅力ある話だなぁ。この本に書かれているのはロバートを巡るアメリカ南部紀行であり、夢想の入り混じった物語のようでもある。そして、この本を読み終わったあと、この本の内容はあえてすべて忘れて、ロバート・ジョンスンのブルースを聴きたくなるのです。そして、また、ロバートのブルースを聴き終わったあと、この本に手を伸ばしたくなる。
ぼくの言葉としては、ロバートの歌は、聴くたびにずれていき、言葉から解き放たれ、はみ出し、両義的に引き裂かれ、だから、美しい。




本好きのぼくですが、村上春樹の小説はほとんど読んだことがなかった。東日本の地震を数字に表われない何かも知りたく、そういう災害の何かを思ったり、感じたりしたくなって、ふと物語を読みたくなり、阪神大震災の後に「震災のあとで」と題され書かれた短篇集を読んでみた。とてもおもしろくて、共感するところがたくさんあった。この連作集は「神の子どもたちはみな踊る」と名前を変えて、単行本として発刊され、文庫本ともなった。そのタイトルはジャズ好きの春樹さんいかにもというものだけど、その一篇はなんとも言えない苦くて甘い読後感を残す。春樹さん著の「ポートレイト・イン・ジャズ」も大好きな一冊だったことを思い出す。
そうだ、イスラエルやカタルーニャでの受賞の時の村上春樹のスピーチにぼくはまっとうなシンパシーすらおぼえていたのだった。放射能漏れつづける福島の原子発電所に「かえるくん、東京を救う」に登場する「かえるくん」が今、悪と戦っているのではないかという奇妙かも知れない思い描きすらぼくは心にしたのです。


茂木健一郎さん編集の「わたしの3・11 あの日から始まる日」という本を読み終わった。各界の有名人が書き下ろした震災の起こった3月11日についての文章が集められた本。雨宮処凛さんの文章にはぼくとつながる感じ方みたいなのがあって共感を覚えたもした。今でも「3・11」と言われ始めた2011年3月11日の震災は続いているような気がするし、実際そうなんだとぼくは言いたい。ふと、ぼくの死んだ後に生まれたり生きて行ったりする人たち、子供たちのことを思って、今を生きていかなきゃいけないような気がしてきました。そんな意味があるのかも知れず、この本に納められた高橋源一郎さんの「レッツゴー、いいことあるさ」は小さな傑作かもしれません。おやずみZZZzzz.....


音楽について書いた本を読むのが好きである。雑誌とかも好きなのだが、このところ読み応えのある雑誌がなくなってしまった。
昔、ティーン・エイジャーのころミュージック・マガジンの前身であるニュー・ミュージック・マガジンのフィル・オクスに関する記事など、貪るように読んで刺激を受けた。フィル・オクスとは、アメリカに希望があるとするならば、エルヴィスがチェ・ゲバラになれるかどうかにかかっているんだ、というような歌を歌っていて、エルヴィスが死んだ、その年に自殺したフォーク・シンガーで、もう一人の日のあたらないボブ・ディランをも呼ばれた人であった。
ロックについて書かれたグリル・マーカスの名著「ミステリー・トレイン―ロック音楽にみるアメリカ像」は反逆や放浪こそがアメリカ的であるとしてスライ・アンド・ファミリーストーンやザ・バンド、ロバート・ジョンソンを取り上げ、ロック・ミュージックにこそそれが表れていると刺激的に書かれていたのだけど、その本はわがバンド、チェーズの最も初期のギタリスト、イノウエくんの病気見舞いに、昔、あげてしまった。もう一回読んでみたいなぁ。
雑誌に関して言えば、今はもう何もおもしろいものは無いと思っていたのだけど、近所の中古CD・レーコド屋さん、ディスク・ユニオンでおもしろそうな雑誌があって、買ってしまって、読んでみて、とてもおもしろかったのが、「音盤時代」という雑誌の創刊準備号。音楽好きの喜びは音楽を自由に語ることにもあるというような内容を追求した雑誌であった。ぼくがファンである物書き、湯浅学さんの「抵抗の音楽史~レコード倫理とな何か」に登場するミュージシャンはボブ・ディラン、ザ・バンド、フランク・ザッパ、じゃがたの江戸アケミ。妹沢奈美さんの「ロックとワーキングクラスとの蜜月の、断絶と復縁」では労働者階級に再び戻りつつある反抗のロックン・ロールが語られて興味深い。ローリング・ストーンズやクラッシュのジョー・ストラマーは違うのだけど、ビートルズもセックス・ピストルズもポール・ウェラーもポーグスも大英帝国の階級社会の中でワーキング・クラスなのであるのだよ。
久々におもしろい雑誌だったのでこんな文章を書いてしまったのです。


ぼくにとってのアイルランドとはヴァン・モリソンやチーフタンズになるのだけど、ウィリアム・トレヴァーというアイルランド人の著したアイルランドを舞台にした短編集「アイルランド・ストーリーズ」を読んでみた。
北アイルランド紛争を通低音にした小さな物語たちが語りかけるのは、その紛争や、また差別による貧困によって心に傷を負った人の、静かだけど確かな響きをもつ小さな音楽やら歌、ブルーズのようであった。訳者の栩木伸明さんによればアイルランドは大英帝国の最古の植民地であったし、北アイルランド紛争とは、アメリカの公民権運動の影響を受けたカトリック系住民たちが差別撤廃のデモの行うようになったそデモにイギリス軍が治安維持ということで出動し、デモ行進していたグループに発砲し、13人の一般市民が殺害される所謂「血の日曜日事件」が起き、それを機に1997年までカソリック系とプロテスタント系の紛争状態となっていた。ウィリアム・トレバーの小さな物語は政治的にはカソリック系にもプロテスタン系にも身を置かないようなとこがあって、それは、アイルランドのぼくには地名も知らない町を彷徨うブルーズ・マンのようでもあるのだ。詩人イエーツや文豪ジェームズ・ジョイスの詩心や魂はトレヴァーに受け継がれている。がんばれ、アイルランド。


インド独立の偉人、ガンディーについての本を読んだ。中島岳志著の「ガンディーからの<問い> 君は「欲望」を捨てられるか」という本です。
ぼくは実は欲望を捨てることについてはさしたる興味もないが、非暴力だの植民地からの英国の奴隷状態からのインド独立だのというキーワードから語られるガンディーには、何か惹かれるものがあって、読み進めたのです。この本はガンディーのことを知るための入門編みたいな本で、ガンディーの異性に関するスキャンダルについても書かれている。
なにごとも神格化は歪んでいるなと思いながら、ガンディーについても神格化は良くないとも思う。「塩の行進」のこととか、ガンディーが言葉を超えた実践と行動の人であることを知る。ガンディーの子どもは、ぐれて、奥さんには寂しい思いをさせてというような話を読み、聖人というより、インド愛国のお父さんというようなガンディーであったのだった。けれど、ガンディーは単なるしゃべるだけのベロヤではなく、口より実践と行動の人だったと納得した。独立運動として、自分たち生きていくには欠かせない塩ぐらいは、英国の植民地政府ではなく、自分たちの手で作ろうと、彼はそれを訴えるために独りで塩の行進を始めるのだけど、その行進は数十万人の大行進になり、それがインド独立の端初となる。そこにはドン・キホーテ、ラ・マンチャの男ののような愚か者的な真理の輝きがあった。その愚かさは今も輝いてもいる。
ぼくもガンディーの行進に続けているのだろうか?
