えいちゃん(さかい きよたか)
えいちゃんのぶろぐ
重い障害を持って生まれてきたいんやくりおくんが不思議なことを話した、そのお話をりおくんのお母さんが書きとめ、詩のようにして本にした「自分をえらんで生まれてきたよ」を読みました。この本に書かれている内容には驚きです。ぼくたちは生まれたばかりの小さい時は、大切なことはすべてを知っていて、それを忘れてしまうのでしょうか。美しい言葉とその大切な詩を何度も読み返してしまいました。
http://www.sunmark.co.jp/frame_isbn/978-4-7631-3201-7
行きつけの本屋さんに「柳田國男と遠野物語 日本および日本人の原風景」というムックがおいてあって、おもしろそうだなと買ってしまい、やっぱおもしろくて一気に読めてしまった。
2012年は柳田國男没後50年だそうだし、2011年は「遠野物語」発行100周年だそうだし、その二つにはさまれて、東北の大震災といういたましい災害があったことが、何かの符号のようにも思える。空の向こうからこの民俗学という日本独自の学問の創始者の負けるな、東北、おまえたちは強いという励ましの声が聞こえてはきはしないだろうか? 地図を開けば、宮澤賢治の花巻、柳田國男の「遠野物語」の遠野、製鉄所と漁師の町である釜石が横に並んでいるのを見て、何か想像をかきたてられもする。
さて、この「柳田國男と遠野物語」、大人が読む柳田國男の絵本といった趣で、写真、文章ともに充実していておもしろい。柳田國男とはどんな人かと訊かれれば、このムックにある一つの章「吉本隆明の柳田民俗学」での吉本隆明「無方法の方法」からの引用「わが柳田國男は、いわばお話の学者である。その意味は、民話や説話の学者ということではなく、その本質がお話である学者という意味である」につづけて、こう書かれてもいるのです。
「柳田國男の作品群の力は、物語の力であり、文学の力である。
何をもって文学と見るか。
いろいろな考え方があろうが、それは読んだものの精神を変化させる力をもった物語、文章だと考えている。魂を揺さぶる力といってもよい」
その昔、吉本隆明の「共同幻想論」を読んだことがあるのだけど、何が書いてあるのか、難しくてほとんど分からず、けれども、そこには柳田國男のたくさんの引用から紐解かれた、天皇制論、国家論が語られているらしいことは憶えているのだけど。
ある時、会社帰りに友だちと飲んで酔っぱらい、電車の中で世間話となり、「柳田國男」って「やなぎだくにお」なのかなぁ、「やなぎたくにお」なのかなぁなどと話していると、隣にいた知らない男の人が、いきなり話に割り込み、「やなぎたくにお」だよ、と教えてくれたことがあった。なんか恥ずかしかったです。
あー、「遠野物語」を再読したくなりました。
九州熊本在住のお医者さんであり、大学の先生でもある原田正純さんの著した「豊かさと棄民 -水俣学事始め」を読む。水俣病の社会的な考察から他の公害病や企業による公害的犯罪に考えは及び、社会の産業と経済の発展を差別されながら支えた地が九州ではないか、との問題提起がなされる。九州はアメリカ南部のようなところなのであろうか? 公害発生地域をめぐり、カナダでの水俣病発生の地域であるインディアンのリザベーションを訪れ、原田さんは、この本の大きな主張の一つである、公害が差別と貧困を生むのではなく、差別と貧困のあるところに公害は発生させられるのだ、という思いに至る。
この本を読み、福島の原発事故と放射能汚染が、水俣病での経験(病気の少しづつの発症から始まり、人々の抗議行動、その企業と政府、国家機関の不誠実、責任逃れな対応、その他もろもろ)を繰り返しているようで戦慄した。首相官邸や各地の官公庁前、電力会社の前で異議を発しているみなさん、問題は潜行し進み続け、戦いは十年はかかるのかもしれない。この本により、水俣病の発症が1958年に始まり、1968年に政府はやっと工場排水が原因でであることを認めたことを知った。本の帯にある言葉「人を棄てることで成り立った物質的豊かさ」が、今や、夜になると人間のごとくひとり歩きを始め、ダモクレスの剣のように、ぼくに向けられ、ひいては日本人、世界中の人たちにつきつけられてはいるのかもしれない。
この本を読み、福島の原発事故と放射能汚染が、水俣病での経験(病気の少しづつの発症から始まり、人々の抗議行動、その企業と政府、国家機関の不誠実、責任逃れな対応、その他もろもろ)を繰り返しているようで戦慄した。首相官邸や各地の官公庁前、電力会社の前で異議を発しているみなさん、問題は潜行し進み続け、戦いは十年はかかるのかもしれない。この本により、水俣病の発症が1958年に始まり、1968年に政府はやっと工場排水が原因でであることを認めたことを知った。本の帯にある言葉「人を棄てることで成り立った物質的豊かさ」が、今や、夜になると人間のごとくひとり歩きを始め、ダモクレスの剣のように、ぼくに向けられ、ひいては日本人、世界中の人たちにつきつけられてはいるのかもしれない。
「アミ3度めの約束 愛はすべてをこえて」を読み終え、エンリケ・バリオス著のアミ三部作を読了してしまった。人類の覚醒を促すかのような、南米発の素敵なファンタジーでした。2001年に書かれたこの本は、何か預言めいたところもあり、2012年の今の日本でこそ再び読まれるべきだとも思った。そして、映画化するとおもしろうそうだなとも思った。
自分への覚書としてでもあり、この本で引用されていた北米の作家、エマーソンの詩から素晴らしきメッセージを引用します。
「羨望が無知であり、模倣が自殺であり、よかれあしかれ、あたえられた自分自身をそのまま受け入れるべきであることを、誰しもが理解したときが、すべてのひとの内的成長のときである
たとえ、広大な宇宙には、福が満ち満ちていたとしても、もし、自分につとめとしてあたえられたその土地を、たがやすことをしなければ、何の収穫も得られないだろう
ひと、一人ひとりの中に宿る力は
新しい種類の力であり、
なにものも、ただ自分だけが、なにが自分でできるかを知っている
でも、それをじっさい試みてみないかぎり、自分でもわからない」
二十歳前後のころ、友だちと合うと、挨拶がわりの言葉として、最近、どんなの聴いている、と言い合っていたのを思い出す。こんな感じ。
「最近、どんなの聴いてる?」
「マジック・サムの二枚組のライブ聴いてるよ」
「暑いのに、よくそんな熱苦しいブルース聴いてるな」
「これでこの夏をのりきるのよ。やっぱ暑い時は熱いもんだろ」
「夏は、やっぱビーチ・ボーイズだろ」
「そんな軟弱なもん聴くか」
「軟弱じゃないぜ。「ペット・サウンズ」とかアバンギャルドだよ」
「どこが?」
「リーダーのブライアン・ウィルソンとか、がいきちっていうぜ」
「へー」
「プールの中でわけわからないひとりごと言ってたんだってよ」
「ラモーンズってビーチボーイズの影響受けてんのかなー」
「そういえば、コーラスとか似ている気がする」
「来日した時、見に行ったなー」
「で、どうだった?」
「カマキリのお祈りだった」
「ボーカル、背が高いもんなー」
この調子で毎回毎会永遠と続きます。あのころは、いつだって、飽くことも知らずこんな話ばかりしていたものだけど、奈良美智の「ナラ・ライフ」という文集を読みながら、そのあのころを思い出しもした。なんかこの本を読んでいると、古い友だちに久しぶりに会った気がしたのです。実際に奈良さんはかなりの音楽通で、もしかして、彼はぼくよりも少し年上な兄貴分なのだけど、こんな会話すら成り立つのかもしれない。
「奈良くん、最近、何、聴いてる?」
「昔買ったダン・ペンのレコードが押入れのすみから出てきて、聴き直しているんだ」
「おー、メンフィスソウルの影の立役者」
「白人だけどいいよ。おまえは肌が黒い人間の音楽しか聞かないんじゃない」
「そんなことないよ。おれはロキシー・ミュージックにソウルを感じるね」
「ねとねとしたブライアン・フェリーの歌い方はかっこいいとか」
「デビッド・ボウイの「ステーション・トゥ・ステーション」なんかもろソウル」
「グラム・ロックといえばマーク・ボランとか嫁さんが黒人だぞ」
「リトル・フィートのローウェル・ジョージの嫁さんも黒人だ」
などと話し始めて、こうなるのです。
「ところで奈良くん、何して食っているの?」
「絵とか書いているんだ」
「よく、食っていけるなー。そういえば、絵とかよく描いていたっけ」
「ロック以外に絵画とかの芸術もおれのテーマだったんだよ」
「芸術ねー。漫画みたいなもんか」
「そうかもしれないなー」
「もしかして銀座のつぶれかかったギャラリーで奈良くんの絵とか二束三文で売ってたりして」
「見つけたら買えよなー」
「買う、買う、三十円で」
「三百円ぐらいは出せよな。ところで、おれ、今度、展覧会、開くんだ」
「すごいじゃん。どこで」
「横浜美術館だよ」
「へっ?」
失礼しました。これは、すべてぼくのつくり話の会話ですが、この本を読みながら、そんな再会感すらあった。昔話は好きじゃないけど、みんな、どうしているのかねー。バンド、やろーぜ。ぼくは最近あいかわらず、近所のバーで自分で作ったロックとかリズム・アンド・ブルーズみたいなのを弾き語りで歌っているよ。
この「ナラ・ライフ」という本、絵でも音楽でも詩でも小説でも方法は何でもいいのだけど、何か表現していきたいと思っている人には、本当にお薦めの本です。
国旗って見ていて見あきないと「世界が見える国旗の本」を読みながら思う。世界にはこんなにいろんな国があり、国旗があったのか、と思う。ソビエト連邦が崩壊していろんな国が生まれたことを知る。アフリカや中南米には知らない小さな国がたくさん。で、日本の国旗がわが国の国旗なので対象外とし、特に印象に残った国旗というか、これはいいなぁ、好きだなぁ、と思う国旗を三つ紹介します。
では、お隣の韓国の国旗。韓国の国旗の由来はこういうことだそうだ。
「「太極旗(テグッキ)」と呼ばれるこの旗は赤(陽)と青(陰)を組み合わせた中央の円が宇宙を表し、相反するものとの調和を表す。太極の周囲には易経で用いられる4つの記号が配置され、それぞれ天・水・火・地を意味している」
深淵なる東洋思想の奥義が韓国の国旗には表されているのですな。
アフリカのガーナの国旗はかっこいい。
「イギリスからの独立を機に、汎アフリカ色(赤・黄・緑)の横三分割旗を採用している。中央に配置された黒い星はアフリカの解放と統一、希望を象徴していて、国歌でも「希望と栄誉の黒い星」と歌われている」
おー、これはレゲエミュージックに多大な影響を与えたジャマイカの思想家、マーカス・ガーベイの商船会社、ブラック・スター・ライナーの記章そのままではないか。
ブラジルの国旗も強烈に印象に残ります。
「中央の天体は王政から共和制に移行1989年11月15日のリオデジャネイロの夜空を表す。緑は自然、黄色は資源を表し、白帯の文字には「秩序と進歩」の文字が記されている」
夜空を国旗にするのなんか、なんか素敵ではありませんか。
番外編として日本の国旗も世界の国旗の中に並べて見ると、とても個性的。
「中央の赤い円は太陽をモチーフにしたもので千年以上も前から日本のシンボルとなっているが、1999年の国旗及び国歌に関する法律によって正式に国旗に制定された」
日本の国旗と国歌の法制化とその後の大阪府や東京都を始めとする行政の取り扱いについて、右翼団体の最高顧問である鈴木邦夫さんの意見になるほどと思い、腑が落ちた。
「しかし、不思議だね。国旗・国歌が法制化された時「これは強制するものではありません」と政府や(当時の)文部省は言っていた。つまり、「日本の旗は日の丸ですよ。日本の歌は君が代ですよ」と確認するだけだ、と言っていた。しかし、法律を作ると、急にそれを拡大解釈しようとする人が出る。
「じゃあ、国旗・国歌にふさわしい扱いをしよう」 「じゃあ、公立の中学・高校では生徒に歌わせよう」となる。さらには、「全員で歌った方がいい」となる。全員が立ち上がり、全員が口を開けて歌う。そこに「統一美」を感じるんでしょうな。また、それが「愛国心」だと錯覚する。いかんですな。
さらに、「歌わない人間は困る」 「処分しろ」という発想になる。いやいや立っても「歌ってないじゃないか」と責める人がいる。「あら探し」が始まる。都内の高校で本当にあった話で、「実際に口を開けて歌っているかどうか」を写真に撮って歩いている人間がいるという。教育委員会や保守派の議員だ。やだね。法律ができるとこんな人間が出てくる。でも、写真を撮っている人間は少なくとも歌っていない。じゃあ、そいつが一番「君が代」を侮辱している「国賊」だよ。違いますかね。
さらに「口を開いて、歌っているフリだけしている人間がいる。だから、本当に声を出しているかどうかを調べよう」という人もいる。つまり、音声を計るわけだ。いやだね。よくこんなことを考えつくもんだ。
これじゃあ、君が代がかわいそうだ。ただ「強制」の道具にされているだけだ。左翼教師や「内心の自由」を持った教師を苛めるための道具にされている。「国歌」として大事にされていない。尊重されていない。まるで「拷問の道具」だよ。「踏み絵」だよ。
それに「何でもいいから歌え!」と言っているだけだ。いや「何でもいいから」なんて言っていない、と「強制派」の人は言うかもしれない。しかし、違う。「君が代」を今まで5000回は歌ってきた私が言うのだから間違いない。
・・・・・・・
ここで思った。よし、私は、これから教師になってやる。今から大学に入り直し、教職課程をとり、公立高校の教師になる。それで、入学式や卒業式の時、君が代で起立しない。当然、処分される。しかし、今まで5000回、君が代を歌ってきた「愛国者」である私を、誰が処分できるのか。そう言ってやりますよ。「じゃあ、あなたは何回君が代を歌いましたか?」と。20回ですか? 30回ですか?その程度で「君が代を愛していると言えるんですか」。20回しか歌わん人が、5000回歌った私を処分できるんですか? と。」
日本社会の同調圧力に怖さすら感じることがあるのだけど、「日本中の学校にですね、国旗を挙げて、国歌を斉唱させるというのが、私の仕事でございます」を受けての園遊会での天皇陛下のおっしゃっていたことを思い出します。
「やはり、あの、あれですね、その、強制になるというようなことでないほうがね、望ましい」
二十世紀はたくさんの国が生まれ、国旗が生まれ、国と国との間で戦争も繰り返され、民族が国を求めての争いもたくさん起きて、本当にたくさんの人たちが死んだ。二十一世紀もそれが続いているのだけれども、未来の歴史はそれをどう見るのだろう?
さて、ロンドン・オリンピックが始まりますね。がんばれ、ニッポン!
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プロフィール
HN:
えいちゃん
性別:
男性
職業:
S.E.
趣味:
音楽
自己紹介:
音楽を演奏したり聴いたりするのが好きです。
歌ってしまいます。そしてギターも少々。
Sam CookeやOtis Reddingなど古いR&Bが好きです。
歌ってしまいます。そしてギターも少々。
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