えいちゃん(さかい きよたか)
えいちゃんのぶろぐ

クリストファー・ロイドさんの著した「137億年の物語」を読了した。カラー口絵のたくさんはさまった歴史図鑑のような本です。507頁で2段組のヴォリュームの本で最後の方はななめ読みになってしまいました。しかし、読み通させたこの本はぼくにとって、やはりとてもおもしろかったということ。
歴史の変動に気候の変化があり、その気候の変化はプレート・テクトニクスという大地の移動によるらしい。最後の方の章には解決されなくてはならないたくさんの問題、例えば、人口の爆発的増加、人類の活動による生態系の破壊、貧富の格差の拡大化、エトセトラが書かれてあって、どれも深刻です。
この地球が生きものの楽園となったのはティアという星が地球に衝突し、月が誕生し、そこから、太陽風からの磁気シールドが生まれ、四季を生み出す地軸の傾きと安定的な公転も生まれたということです。なんという偶然なのだろう。その137億年の歴史の中で人類の歴史は1分17秒にすぎず、有史は3秒をすぎない。人類は悪いことをしすぎだとも思うのだけど、歴史に残るとはそういうことなのだろう。ほとんどの人たちは善い心を持った善い人たちだとも思う。
本を閉じて想像するに、今、新しい世界が訪れつつあって、その鍵は、インドのシャカ族の王子が見つけ、アショカ王が広めた生きとし生けるものへの愛を説く教えにあるのではないか、と思いました。
http://hon.bunshun.jp/sp/137okunen




作家であり詩人である辺見庸さんの「瓦礫の中から言葉を わたしの<死者>へ」を読む。この前の震災で壊滅状態となった宮城県石巻市出身の詩人は、この散文集の中で3・11論ならぬ、3・11後論を立て、例えば、それ以降の日本の中の言葉はむしろ自由が狭められてはいないか、と問いていて、軽くなってしまって何も語らなくなった日本人とその言葉に疑問を投げかけている。そして、本当の言葉とは何かを求めようとしている。
少し前に辺見さんはNHK製作のドキュメンタリーに出演していて、その中で石巻のことを語り、詩人にとっての石巻は荒くれた漁師町で、石巻のことをやさしいとか美しかったとか言ってほしくない、むしろ、おっかない町だったと言って欲しい、と語っていて、詩人は生臭くすえた港にまとわりつくの魚の匂いやら魚のせりの時の怒声やら祭りの時の喧嘩のことやらを思い出すらしく、そんな彼に、ぼくは、なるほどとも思ったのだった。
例えば、近頃、聞こえてくる歌も何も歌ってはいなく、何も歌われなくなってはいないか、と音楽好きのぼくは思ってしまう。そんな歌は、聞かなければいいだけのことかもしれないけれど、この本は、忌野清志郎とほぼ同じ年代の兄貴である辺見庸さんからの、ブルースは忘れない方がいい、そして、ブルースによって重い錨を深く下ろし、本当のこと歌わなくてはならない、本当のことを探求すべきだ、というメッセージであると感じた。この本に引用された宮澤賢治の本当の言葉、詩「眼にて云う」をここでも引用しつつ、ぼくはこんな本を書いた同時代の詩人にレスペクトとエールを送ります。おやすみZZZzzz.....
血が出ているにかかわらず
こんなにのんきで苦しくないのは
魂魄なかばからだをはなれたのですから
ただどうも血のために
それを云えないがひどいです
あなたの方からみたら
ずいぶんさんたんたるけしきでせうが
わたくしから見えるは
やっぱりきれいな青ぞらと
すきとほった風ばかりです。
少し前に辺見さんはNHK製作のドキュメンタリーに出演していて、その中で石巻のことを語り、詩人にとっての石巻は荒くれた漁師町で、石巻のことをやさしいとか美しかったとか言ってほしくない、むしろ、おっかない町だったと言って欲しい、と語っていて、詩人は生臭くすえた港にまとわりつくの魚の匂いやら魚のせりの時の怒声やら祭りの時の喧嘩のことやらを思い出すらしく、そんな彼に、ぼくは、なるほどとも思ったのだった。
例えば、近頃、聞こえてくる歌も何も歌ってはいなく、何も歌われなくなってはいないか、と音楽好きのぼくは思ってしまう。そんな歌は、聞かなければいいだけのことかもしれないけれど、この本は、忌野清志郎とほぼ同じ年代の兄貴である辺見庸さんからの、ブルースは忘れない方がいい、そして、ブルースによって重い錨を深く下ろし、本当のこと歌わなくてはならない、本当のことを探求すべきだ、というメッセージであると感じた。この本に引用された宮澤賢治の本当の言葉、詩「眼にて云う」をここでも引用しつつ、ぼくはこんな本を書いた同時代の詩人にレスペクトとエールを送ります。おやすみZZZzzz.....
血が出ているにかかわらず
こんなにのんきで苦しくないのは
魂魄なかばからだをはなれたのですから
ただどうも血のために
それを云えないがひどいです
あなたの方からみたら
ずいぶんさんたんたるけしきでせうが
わたくしから見えるは
やっぱりきれいな青ぞらと
すきとほった風ばかりです。


音楽は洋物かぶれのぼくですが、この前、近所のコンビニで買った畑野英三さん監修の「<<神さまとご利益がわかる>>日本のお守り」という本は良かったです。
日本人ってこんな人たちだったんだなと思うし、まだそんな日本人の心って残っている、残っていって欲しい、と願います。日本万歳! 小さな祈りや願いが小さな玩具となって誰かの手に渡りっていきます。そんなおもちゃでもあり願いを叶えてくれるお守りですが、そのたくさんが失われつつあるみたいなのがとても残念でもあります。こんな小さなものをなくしていくということは、心をなくしていくようなものなんだよ。
ぼくは寝る前とかにこの本を眺めて楽しい気持ちになるのですが、いい夢も見られそうなのです。では、おやすみZZZzzz.....


イタリア文学、パヴェーゼの「美しい夏」を読み終えました。ムッソリーニのファシスト政権時代の大人になる前の少女を描いた美しくも少し暗い絵のような小説でした。フランスの作家、ポール・ニザンの「アデン、アラビア」の有名な書き出し「ぼくは二十歳だった。それがいちばん美しい歳だとは誰にも言わせない」を思い出した。短い一文なのだけど「美しい夏」の書き出しも素晴らしい。
「あのころはいつもお祭りだった」
それはもっとも美しい少女の時のお祭りであるのだけど、戦争とファシズムがもたらすお祭りでもあるのかな、と思った。人生も、世界も、何か残酷なものがあり、そのお祭りにも終りがやってくる。お祭りのあとの灰色を思う。軍事政権下の言論統制か何かもあり、発表されずに第二次世界大戦中に書かれていたこの小説は、大戦後に上梓され、作者のパヴェーゼは自殺し、帰らぬ人となってしまう。不謹慎な言い方かもしれないけれど、、戦時中、反ファシストということで逮捕されたこともあるパヴェーゼにも戦争という夏の祭りの終りはやってくる。その喪失感はやはりあったのかもしれない。
それから、ミケランジェロ・アントニオーニ監督のイタリア映画「さすらい」を思い出した。イタリア・ネオ・リアリズモの傑作はこの「美しい夏」に何か通じるものがあるのかもしれない。
あぁ、イタリア。話は戦争に戻り、敗戦したイタリアの市民はムッソリーニを銃殺し、その死体を逆さ吊りにして市内を引き回したそうだ。
今は夏の終りです。




重い障害を持って生まれてきたいんやくりおくんが不思議なことを話した、そのお話をりおくんのお母さんが書きとめ、詩のようにして本にした「自分をえらんで生まれてきたよ」を読みました。この本に書かれている内容には驚きです。ぼくたちは生まれたばかりの小さい時は、大切なことはすべてを知っていて、それを忘れてしまうのでしょうか。美しい言葉とその大切な詩を何度も読み返してしまいました。
http://www.sunmark.co.jp/frame_isbn/978-4-7631-3201-7
