えいちゃん(さかい きよたか)
えいちゃんのぶろぐ

「アミ3度めの約束 愛はすべてをこえて」を読み終え、エンリケ・バリオス著のアミ三部作を読了してしまった。人類の覚醒を促すかのような、南米発の素敵なファンタジーでした。2001年に書かれたこの本は、何か預言めいたところもあり、2012年の今の日本でこそ再び読まれるべきだとも思った。そして、映画化するとおもしろうそうだなとも思った。
自分への覚書としてでもあり、この本で引用されていた北米の作家、エマーソンの詩から素晴らしきメッセージを引用します。
「羨望が無知であり、模倣が自殺であり、よかれあしかれ、あたえられた自分自身をそのまま受け入れるべきであることを、誰しもが理解したときが、すべてのひとの内的成長のときである
たとえ、広大な宇宙には、福が満ち満ちていたとしても、もし、自分につとめとしてあたえられたその土地を、たがやすことをしなければ、何の収穫も得られないだろう
ひと、一人ひとりの中に宿る力は
新しい種類の力であり、
なにものも、ただ自分だけが、なにが自分でできるかを知っている
でも、それをじっさい試みてみないかぎり、自分でもわからない」


二十歳前後のころ、友だちと合うと、挨拶がわりの言葉として、最近、どんなの聴いている、と言い合っていたのを思い出す。こんな感じ。
「最近、どんなの聴いてる?」
「マジック・サムの二枚組のライブ聴いてるよ」
「暑いのに、よくそんな熱苦しいブルース聴いてるな」
「これでこの夏をのりきるのよ。やっぱ暑い時は熱いもんだろ」
「夏は、やっぱビーチ・ボーイズだろ」
「そんな軟弱なもん聴くか」
「軟弱じゃないぜ。「ペット・サウンズ」とかアバンギャルドだよ」
「どこが?」
「リーダーのブライアン・ウィルソンとか、がいきちっていうぜ」
「へー」
「プールの中でわけわからないひとりごと言ってたんだってよ」
「ラモーンズってビーチボーイズの影響受けてんのかなー」
「そういえば、コーラスとか似ている気がする」
「来日した時、見に行ったなー」
「で、どうだった?」
「カマキリのお祈りだった」
「ボーカル、背が高いもんなー」
この調子で毎回毎会永遠と続きます。あのころは、いつだって、飽くことも知らずこんな話ばかりしていたものだけど、奈良美智の「ナラ・ライフ」という文集を読みながら、そのあのころを思い出しもした。なんかこの本を読んでいると、古い友だちに久しぶりに会った気がしたのです。実際に奈良さんはかなりの音楽通で、もしかして、彼はぼくよりも少し年上な兄貴分なのだけど、こんな会話すら成り立つのかもしれない。
「奈良くん、最近、何、聴いてる?」
「昔買ったダン・ペンのレコードが押入れのすみから出てきて、聴き直しているんだ」
「おー、メンフィスソウルの影の立役者」
「白人だけどいいよ。おまえは肌が黒い人間の音楽しか聞かないんじゃない」
「そんなことないよ。おれはロキシー・ミュージックにソウルを感じるね」
「ねとねとしたブライアン・フェリーの歌い方はかっこいいとか」
「デビッド・ボウイの「ステーション・トゥ・ステーション」なんかもろソウル」
「グラム・ロックといえばマーク・ボランとか嫁さんが黒人だぞ」
「リトル・フィートのローウェル・ジョージの嫁さんも黒人だ」
などと話し始めて、こうなるのです。
「ところで奈良くん、何して食っているの?」
「絵とか書いているんだ」
「よく、食っていけるなー。そういえば、絵とかよく描いていたっけ」
「ロック以外に絵画とかの芸術もおれのテーマだったんだよ」
「芸術ねー。漫画みたいなもんか」
「そうかもしれないなー」
「もしかして銀座のつぶれかかったギャラリーで奈良くんの絵とか二束三文で売ってたりして」
「見つけたら買えよなー」
「買う、買う、三十円で」
「三百円ぐらいは出せよな。ところで、おれ、今度、展覧会、開くんだ」
「すごいじゃん。どこで」
「横浜美術館だよ」
「へっ?」
失礼しました。これは、すべてぼくのつくり話の会話ですが、この本を読みながら、そんな再会感すらあった。昔話は好きじゃないけど、みんな、どうしているのかねー。バンド、やろーぜ。ぼくは最近あいかわらず、近所のバーで自分で作ったロックとかリズム・アンド・ブルーズみたいなのを弾き語りで歌っているよ。
この「ナラ・ライフ」という本、絵でも音楽でも詩でも小説でも方法は何でもいいのだけど、何か表現していきたいと思っている人には、本当にお薦めの本です。


国旗って見ていて見あきないと「世界が見える国旗の本」を読みながら思う。世界にはこんなにいろんな国があり、国旗があったのか、と思う。ソビエト連邦が崩壊していろんな国が生まれたことを知る。アフリカや中南米には知らない小さな国がたくさん。で、日本の国旗がわが国の国旗なので対象外とし、特に印象に残った国旗というか、これはいいなぁ、好きだなぁ、と思う国旗を三つ紹介します。
では、お隣の韓国の国旗。韓国の国旗の由来はこういうことだそうだ。
「「太極旗(テグッキ)」と呼ばれるこの旗は赤(陽)と青(陰)を組み合わせた中央の円が宇宙を表し、相反するものとの調和を表す。太極の周囲には易経で用いられる4つの記号が配置され、それぞれ天・水・火・地を意味している」
深淵なる東洋思想の奥義が韓国の国旗には表されているのですな。
アフリカのガーナの国旗はかっこいい。
「イギリスからの独立を機に、汎アフリカ色(赤・黄・緑)の横三分割旗を採用している。中央に配置された黒い星はアフリカの解放と統一、希望を象徴していて、国歌でも「希望と栄誉の黒い星」と歌われている」
おー、これはレゲエミュージックに多大な影響を与えたジャマイカの思想家、マーカス・ガーベイの商船会社、ブラック・スター・ライナーの記章そのままではないか。
ブラジルの国旗も強烈に印象に残ります。
「中央の天体は王政から共和制に移行1989年11月15日のリオデジャネイロの夜空を表す。緑は自然、黄色は資源を表し、白帯の文字には「秩序と進歩」の文字が記されている」
夜空を国旗にするのなんか、なんか素敵ではありませんか。
番外編として日本の国旗も世界の国旗の中に並べて見ると、とても個性的。
「中央の赤い円は太陽をモチーフにしたもので千年以上も前から日本のシンボルとなっているが、1999年の国旗及び国歌に関する法律によって正式に国旗に制定された」
日本の国旗と国歌の法制化とその後の大阪府や東京都を始めとする行政の取り扱いについて、右翼団体の最高顧問である鈴木邦夫さんの意見になるほどと思い、腑が落ちた。
「しかし、不思議だね。国旗・国歌が法制化された時「これは強制するものではありません」と政府や(当時の)文部省は言っていた。つまり、「日本の旗は日の丸ですよ。日本の歌は君が代ですよ」と確認するだけだ、と言っていた。しかし、法律を作ると、急にそれを拡大解釈しようとする人が出る。
「じゃあ、国旗・国歌にふさわしい扱いをしよう」 「じゃあ、公立の中学・高校では生徒に歌わせよう」となる。さらには、「全員で歌った方がいい」となる。全員が立ち上がり、全員が口を開けて歌う。そこに「統一美」を感じるんでしょうな。また、それが「愛国心」だと錯覚する。いかんですな。
さらに、「歌わない人間は困る」 「処分しろ」という発想になる。いやいや立っても「歌ってないじゃないか」と責める人がいる。「あら探し」が始まる。都内の高校で本当にあった話で、「実際に口を開けて歌っているかどうか」を写真に撮って歩いている人間がいるという。教育委員会や保守派の議員だ。やだね。法律ができるとこんな人間が出てくる。でも、写真を撮っている人間は少なくとも歌っていない。じゃあ、そいつが一番「君が代」を侮辱している「国賊」だよ。違いますかね。
さらに「口を開いて、歌っているフリだけしている人間がいる。だから、本当に声を出しているかどうかを調べよう」という人もいる。つまり、音声を計るわけだ。いやだね。よくこんなことを考えつくもんだ。
これじゃあ、君が代がかわいそうだ。ただ「強制」の道具にされているだけだ。左翼教師や「内心の自由」を持った教師を苛めるための道具にされている。「国歌」として大事にされていない。尊重されていない。まるで「拷問の道具」だよ。「踏み絵」だよ。
それに「何でもいいから歌え!」と言っているだけだ。いや「何でもいいから」なんて言っていない、と「強制派」の人は言うかもしれない。しかし、違う。「君が代」を今まで5000回は歌ってきた私が言うのだから間違いない。
・・・・・・・
ここで思った。よし、私は、これから教師になってやる。今から大学に入り直し、教職課程をとり、公立高校の教師になる。それで、入学式や卒業式の時、君が代で起立しない。当然、処分される。しかし、今まで5000回、君が代を歌ってきた「愛国者」である私を、誰が処分できるのか。そう言ってやりますよ。「じゃあ、あなたは何回君が代を歌いましたか?」と。20回ですか? 30回ですか?その程度で「君が代を愛していると言えるんですか」。20回しか歌わん人が、5000回歌った私を処分できるんですか? と。」
日本社会の同調圧力に怖さすら感じることがあるのだけど、「日本中の学校にですね、国旗を挙げて、国歌を斉唱させるというのが、私の仕事でございます」を受けての園遊会での天皇陛下のおっしゃっていたことを思い出します。
「やはり、あの、あれですね、その、強制になるというようなことでないほうがね、望ましい」
二十世紀はたくさんの国が生まれ、国旗が生まれ、国と国との間で戦争も繰り返され、民族が国を求めての争いもたくさん起きて、本当にたくさんの人たちが死んだ。二十一世紀もそれが続いているのだけれども、未来の歴史はそれをどう見るのだろう?
さて、ロンドン・オリンピックが始まりますね。がんばれ、ニッポン!


五千円札に刷られた日本国の父のようでもある新渡戸稲造の「武士道」を山本博文さんの現代語訳で読んだ。「葉隠」が著された江戸時代の武士道について山本博文さんが、明治の人である新渡戸稲造の描く理想化された武士道よりも更に厳しいものだった、と解説の中でこのように書いている。
「武士道は、もともと戦闘者の倫理である。そのために独特の名誉の感覚を持ち、臆病や卑怯とされる行為には病的にまで厳しいものであった。武士が刀を抜けば必ず相手を斬り留めねばならず、もし首尾よく斬り留めてることができても、人を殺したものには切腹が命じられた。これらの行為には理非の判断はなかった。そしてもし斬り損じたら、武士として未熟だという理由で切腹が命じられた」
あの「キテレツ大百科」のコロちゃんことコロ助にはこんな厳しい背景もあったのです。
新渡戸稲造の称揚する武士道のすべてに同意するわけではないけれど、何か惹かれるものもあり、よって、彼の書いた「武士道」の現代語訳からの美しい一節をどうぞ。
「わが桜花は、その美の下に刃も毒も隠しておらず、自然が呼ぶ時にいつでも生を捨てる準備ができている。その色は華美ではなく、その香りは淡く、人を飽きさせない。色彩と形状の美しさは、外観に限られる。色彩と形状は固定した性質である。これに対し香りはうつろいやすく、生命の息のように天上にのぼる」
「武士道は、もともと戦闘者の倫理である。そのために独特の名誉の感覚を持ち、臆病や卑怯とされる行為には病的にまで厳しいものであった。武士が刀を抜けば必ず相手を斬り留めねばならず、もし首尾よく斬り留めてることができても、人を殺したものには切腹が命じられた。これらの行為には理非の判断はなかった。そしてもし斬り損じたら、武士として未熟だという理由で切腹が命じられた」
あの「キテレツ大百科」のコロちゃんことコロ助にはこんな厳しい背景もあったのです。
新渡戸稲造の称揚する武士道のすべてに同意するわけではないけれど、何か惹かれるものもあり、よって、彼の書いた「武士道」の現代語訳からの美しい一節をどうぞ。
「わが桜花は、その美の下に刃も毒も隠しておらず、自然が呼ぶ時にいつでも生を捨てる準備ができている。その色は華美ではなく、その香りは淡く、人を飽きさせない。色彩と形状の美しさは、外観に限られる。色彩と形状は固定した性質である。これに対し香りはうつろいやすく、生命の息のように天上にのぼる」


南米の作家エンリケ・バリオスさんの著した「アミ 小さな宇宙人」を読んだことは既に書いたけれど、その続編である「もどってきたアミ 小さな宇宙人」も読了してしまった。次のページにはどんなことが書いてあるんだろうかと思い、そう、子どもに戻ったかのように、いくぶんわくわくしながらも読み進めていった。
南米の人が書いた物語だけあって、ところどころに聖書の一節が引用されている。1990年代の解放の神学への弾圧のことなども思ってしまいつつ、この小説のような童話のような物語が南米から発信されていることに感慨し、UFOはインディオの居住するゲットーのようなところに着地する詩的な光景の絵を思い浮かべてしまった。
12年前に出版されたこの本は、2012年の今、日本という辺境の島に住むぼくに届けられた特別な本でもあるような気がした。さくらももこさんの表紙もかわいらしい、そんな素敵な本です。


村上龍には親しみをおぼえているのに、それほどたくさんの小説は読んでいない。一番好きなのは、「限りなく透明に近いブルー」。その小説に出てくる「おまえには黒い鳥がみえるよ」というセリフがかっこいいなどと友だちと語りあっていた。一番美しい音楽は初期のビートルズと言ったのも村上龍さんで、なるほどと思った。ローリング・ストーンズ好きで、それにキューバ好き。中上健次に殴られなかった数少ない同世代の小説家。その中上と対談した時、ありとあらゆる薬物を若いころ試したと語っていた。何かのアンケートで数年前、もっとも上司になって欲しい有名人の一人に選ばれたりもしていた。龍さんの最近の小説は常に同時代を活劇的な物語の中で描き、少年の心を残しているかのよう。理屈っぽくなく、けれどとても聡明で、偏見なしにものを見ることができる人。そんな龍さんの最新のエッセイ「櫻の樹の下には瓦礫が埋まっている。」を読んだ。やはり面白かった。この本の中の「若者の病理と文学」からぼくの共感した龍さんの文学観を引用します。
「小説というのは、基本的にマイノリティを代弁するものだ。社会に受け入れられない人々の声にならない声を翻訳して、人間の精神の自由と社会の公正さを訴える、それが文学である。だから文学は回答を示すものではない。本質的な疑問を提出する」
そして、最後の章「櫻の樹の下には瓦礫が埋まっている。」にはとても感じ入り、震災後の日本の状況について、わが意を得たりと思い、深く溜飲をさげた。立ち読みでもいいから、この章だけでも読むことをおすすめします。
章と章の間のはさまった龍さん自信が写したカラーの花の写真も素敵です。


チリの作家、エンリケ・バリオスさんの著した「アミ 小さな宇宙人」を読んだ。なんだか、ジョン・レノンの歌、メッセージ、例えば、"All You Nedd Is Love"とか"Imagine"とか"Mind Games"が物語になったような本であった。この物語の中に、空飛ぶ円盤の中で子どもの宇宙人といっしょに宇宙の音楽や地球の音楽を聴く場面があるのだけど、その音楽の一つが、ジョン・レノンでありビートルズなのだ。しかも、物語の後ろのほうで少しだけ日本の少女も出てくるのだけど、ジョン・レノンの二人目のお嫁さんは誰だっけ? そこで、ぼくは、ジョン・レノンの"Mind Games"という歌を思い出したので、拙訳してみます。この物語の伴奏曲にどうかな。
「ぼくたちはいっしょに心のゲームを遊んでいる
種を植えに柵を押すんだよ
そう、心のゲリラを遊んでいる
世界に平和をと真言を詠唱し
ぼくたちは永久に心のゲームを遊んでいる
古代ケルトの祭司のようにめかしてベールをそっと持ち上げ
心のゲリラをしているのさ
聖杯を探し求める魔法だとも人はよぶ
愛が答え、それは確かなことだよ
愛はきみが育む一つの花
だから、この心のゲームを続けよう
さあ、たった今から未来をかたく信じよう
きみにこの心のゲリラを打ちのめせはしない
それはきみの心のなかの石ころにある何か完璧なところなんだ
そう、ぼくたちはいっしょに心のゲームを遊んでいる
イエスが答え、それは確かなことだよ
はいというのは降伏で、もっといかせてあげよう
だから、この心のゲームを続けよう
典礼の舞いを陽の下で踊り
数えきれない心のゲリラは
魂の力をカルマの輪にそそぎ
この心のゲームを永久に続けて
平和と愛の精神を掲げよう
愛
戦争ではなく愛しあって欲しい、どこかで聞いたことがあるはずさ」
心のゲリラもやりとげ、世界の心に平和と愛がもたらされ、さて、「アミ 小さな宇宙人」に戻れば、一つ政府もよいのだが、この空の下、地の上の世界は、分裂せずに、しかも、多様にいくつもであって欲しいと願います。


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プロフィール
HN:
えいちゃん
性別:
男性
職業:
S.E.
趣味:
音楽
自己紹介:
音楽を演奏したり聴いたりするのが好きです。
歌ってしまいます。そしてギターも少々。
Sam CookeやOtis Reddingなど古いR&Bが好きです。
歌ってしまいます。そしてギターも少々。
Sam CookeやOtis Reddingなど古いR&Bが好きです。


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