えいちゃん(さかい きよたか)

えいちゃんのぶろぐ

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仁科邦男さんの著した「犬の伊勢参り」という本を読んで、江戸時代、夏目漱石曰く徳川家(とくせんけ)の世の中って、もしかして幸せな時代だったのかも、と思う。三百五十年つづいたかの時代に「お陰参り」と呼ばれる、神聖なお宮の建て替え儀式である式年遷宮の年の集団での伊勢神宮参拝の国中上げてかのような集団参拝が六十年毎に三回も起きて、当時三千万人ほどだった日本人のうち三百万人以上が参っていたという説もあるほどで、その多くが主人に伺いも立てず、着の身着のまま、三重を目指した、という。その人々の行列に主人や村人に代参として遣わされていたシロやブチと呼ばれた犬たちも歩いていて、首に祓(はらえ)、所謂御札を巻きつけて帰ってきた。楽しそうではないか。それに平和な景色だなぁ。

日本には神の社の三大聖地があるかもしれず、そこは伊勢神宮と熊野本宮、出雲大社。今年の伊勢神宮は六十二回目の式年遷宮にあたって、ぼくも一度は参りたい、と思うのです。日本万歳!







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ヘンリー・D・ソローの「森の生活 ウォールデン」を読了する。この本の中でソローーの思考はウォールデン池から出発し、さまざまに飛翔し、再びウォールデン池に戻ってくる、長大な散文で書かれた詩なのだった。難しいけど、美しかったです。それから、ソローって反逆者だったんだと思った。強固で頑迷な奴隷制反対論者でもあったのはこの本にも出てきて、それはリンカーン登場、アメリカ南北戦争前夜のことであった。失われた最良のアメリカがあるようで、そんなところにも惹かれます。ぼくが読んだのは佐渡谷重信さん訳の日本語なのだが、ここでは「池(Pond)」と題された章のおしまいの一段を英語で引用して、この自然の緑が陽光を受けて輝くかのような明るい瞑想家に敬意を表します。

White Pond and Walden are great crystals on the surface of the earth, Lakes of Light. If they were permanently congealed, and small enough to be clutched, they would, perchance, be carried off by slaves, like precious stones, to adorn the heads of emperors; but being liquid, and ample, and secured to us and our successors forever, we disregard them, and run after the diamond of Kohinoor. They are too pure to have a market value; they contain no muck. How much more beautiful than our lives, how much more transparent than our characters, are they! We never learned meanness of them. How much fairer than the pool before the farmer's door, in which his ducks swim! Hither the clean wild ducks come. Nature has no human inhabitant who appreciates her. The birds with their plumage and their notes are in harmony with the flowers, but what youth or maiden conspires with the wild luxuriant beauty of Nature? She flourishes most alone, far from the towns where they reside. Talk of heaven! ye disgrace earth.





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映画の「兵隊やくざ」をひさしぶりに見たらおもしろかった、と友だちに話したら、小説の「兵隊やくざ」があると言い、その本を貸してくれた。小説の原作があるのか、と思い、読み始め、有馬頼義の書いた「兵隊やくざ 貴三郎一代」を読了した。戦争を舞台にした軽いエンターテイメントかと思って読み始めると、そんなことはなく、「兵隊やくざ」という小説は、本格的な小説であって、一級の文学なのだった。しかも、おもしろくて一気読みしてしまった。そして、ギリシャの文豪、二コス・カザンザキスの名作「その男ゾルバ」を思い出し、再読してみたくなった。しかし、その前に「続兵隊やくざ 続貴三郎一代」を読むぞ。これも貸してもらっているのです。





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ティク・ナット・ハン著、池田久代訳の「小説ブッダ-いにしえの道、白い雲」を読了した。この本、小さい八十一の章からなっているのだが、二段組の四百頁を超す厚さなのに、我ながらよく読み通せたのは、毎晩、眠る前に一章か二章づつ読みつづけたからであった。すると、猛烈に眠くなり、眠ってしまう。次の夜、また読みたくなり、読むと、あえていうなら、つまらなくて、眠ってしまう。けれど、また次の夜、惹かれて読んでしまうの繰り返しであった不思議な本です。ティク・ナット・ハンさんはベトナムからフランスに移住し活動する有名なお坊さんであるらしいのだが、ブッダを描いても決して神がかりならず、しかし、敬意とやさしさに満ちていて、池田久代さんの訳の日本語もまっすぐで平易で読みやすい。後半から仏教の教えが物語に登場するブッダ自身やブッダの弟子たちの口をかりて、つづられるのだけど、平易に語れれるこの震撼とさせる言葉をぼく自身への覚書としてそこから引用し、この眠くなる本をみなさんにお薦めします。

「私の目は私ではない。私の耳は私ではない。私の鼻も、私の舌も、私の体も、私の心も私ではない。眼識は私ではない。耳識も私ではない。鼻識も、舌識も、身識も、意識も私ではない。地という要素は私ではない。水も、火も、風も、空間も、意識という要素も私ではない。生死は私に触れることがない。生まれたことも死ぬこともないがゆえに私は微笑む。生によって私が存在したのでもなく、また死によって私の存在が奪い去られることもない」





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佐野眞一さんの著した「宮本常一の写真に読む失われた昭和」を読了した。読むと同時に民俗学者、宮本常一の残した101点ものちりばめられた写真をつくづく見てしまう。かの現代日本の写真芸術を代表する森山大道氏も宮本の写真にはかんわない、とこの本の解説で述べている。「苦海浄土」の作者でもある石牟礼道子さんが宮本常一について書いた文がこの本の中で引用されているのだが、それをぼくも書き写す。

「この潮の満ち干きする渚の、おどろくほどの緻密な観察と鮮明な記憶、まのあたりに見ているような平明な描写力。読んでいてふいに胸えぐられる感じになるのは、今はこの列島の海岸線すべてから、氏の書き残されたような渚が消え去ったことに思いいたるからである」

それは日本中を旅したこの民俗学者の残した写真についてもいえる。10,000点以上の写真を残し、それはかげがえいのない日本人の記憶として彼の故郷の地にある山口県の周防大島文化交流センターに展示されているそうだ。いつか見に行きたいものだ。

この本「宮本常一の写真に読む失われた昭和」なのだが、宮本民俗学のかっこうの入り口となるようなものかもしれない。高度成長期に過疎の道をたどる日本の村のために自助自尊をといた宮本常一さんは学者や作家の気質を超えて、もしかして宮澤賢治のような人だったのかもしれない、と思った。失われたのは昭和ではなく日本なのかもしれない。右からは極左と呼ばれ、左から極右と呼ばれていたそうだが、本当だろうか。かっこいなー。怒りすらもともなって宮本常一は自身の死の三年前に述べたそうだ。

「失われるものがすべて不要であり、時代おくれのものであったのだろうか。進歩に対する迷信が、退歩しつつあるものをも進歩と誤解し、時にはそれが人間だけでなく生きとし生けるものを絶滅にさえ向かわしめつつあるのではないかと思うことがある」

そして、ぼくはカメラを持って旅に出たくなりました。


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「白い河 風聞 田中正造」を読了した。立松和平の絶筆だという。作者は病に倒れ、鉱毒事件と戦う谷中村の農夫の大六が日露戦争に従軍するところで物語はふいに中断している。この前に読んだ「毒 風聞 田中正造」の続編だろうかと思い読み始めたのだが、物語はほぼ同じ時を背景にし、「毒 風聞 田中正造」とはまったく異なった文体で書かれていた。人以外の生き物たちも語るというということはなく、全編が三人称でつづられる。この小説を読むと、立松は島崎藤村の「夜明け前」のような小説を書きたかったのかもしれない、と思った。「夜明け前」は途中まで読んだけど、いつか最後まで読み通したい、と望みつつ、この未完の傑作にエールを送る。大六の行軍のところで話は終わり、本を閉じると、勝っても負けても戦争は戦争、と思い、敵味方関係なく、百年前の兵士の霊が背中の方で無言で立っているような気もした。

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立松和平の著した「毒 風聞 田中正造」を読了した。毒水の奔流にのみこまれるなまずの語りから始まるこの物語を読み始めて、ぼくは立松和平の朋友であった中上健次は大逆事件で処刑された大石誠之助を書かずに逝ってしまった、と思った。ひるがえって、立松和平が彼の郷里の怒れる聖人、足尾鉱山鉱毒事件の被害民奔走に人生をかけて奔走し、野垂れ死んだ田中正造の物語を書き残したのはいいことだ、と思った。しかして、彼の小説の筆は、何かにとり憑かれたかのように進み、読後感は衝撃的に重く、小説とか文学というよりも、語り継がれていく和声の歌の物語のようだ。この本の紹介にとこの本自身の後記から引用し、ぼくもそれに声を歌にし合わせたい。

田中正造翁の生涯の願いどおり私も山河の護持を祈りつつ、本書を田中正造翁に捧げたい。








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プロフィール
HN:
えいちゃん
性別:
男性
職業:
S.E.
趣味:
音楽
自己紹介:
音楽を演奏したり聴いたりするのが好きです。
歌ってしまいます。そしてギターも少々。
Sam CookeやOtis Reddingなど古いR&Bが好きです。
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