えいちゃん(さかい きよたか)
えいちゃんのぶろぐ

「ニッポン猪飼野ものがたり」を読了した。いろんな人が大阪にある日本一のコリアンタウンである猪飼野について書いた本です。
なぜか、前の会社の社長が言っていた二宮尊徳の芋むき器の話を思いだした。二宮尊徳の考案した芋むき器とは、桶のような器にいろんな大きさの芋を入れて、棒のようなものでかき回すと芋と芋とがこすり合わさって、皮が薄くつるりとむけるという。いろんあ芋があっても、そこで切磋琢磨していいじゃないかというような話でした。社長もいいこといいますな。いろんな大きさの芋があってこそ、うまくむけるということだそうだ。その芋は小さな島国にひしめくぼくたちのような気もするではないか。
さて、コリアンタウンというと、東京の新大久保の街などで、聞くに堪えない言葉でデモををする輩もいるらしい。しかしながら、昨今は街や町でいろんな顔の人が見え、いろんな言葉が聞こえてきてくるようになった。ぼくのよくいく相模大野のバーもアフリカ人が経営者でマスターであったりする。これから、いろんな人が日本にやってきて、いろんな人が日本から行くだろう。
仁徳天皇の昔から渡来の文物と人を受け入れてきた歴史もあるらしい。敗れた百済の王とその一族はいろんなものをもたらし猪飼野に定住したという。
この本の雑多な文の中には笑いと涙がつまっています。仲良くしたほうがいいと思います。


「半藤一利と宮崎駿の腰ぬけ愛国談義」という本を読みました。半藤さんは近代日本の歴史の語り部作家で、宮崎さんは日本を代表するアニメーション映画監督。二人とも戦闘機だの軍艦だのが大好きなのですね。宮崎駿が半藤一利の大ファンであるというのも意外な気もしつつ、腑に落ちた。二人とも戦争が大っ嫌いなのです。
ところで、宮崎さんは自ら監督した映画「風立ちぬ」の試写で涙が止まらなかったというのだけど、ぼくは、中国の映画監督、陳凱歌がインタビューに答えていた、後には自ら徹底的に否定する紅衛兵だった中国文化革命時の記録フィルムを見て、涙が止まらくなった、という話を思い出した。ひるがえって、宮崎さんの涙のそれは、東の果ての島の小さな過去に確かにいた人たちへの愛のようなものかもしれない。そして、ぼくが昔、読んだ半藤さんの著作「ノモンハンの夏」はこれからの日本人に書き残すべきものの愛のようなものかもしれない。
そんなお二人が茶碗に酒をそそぎ縁側で近代から現代までの日本と日本人をかって気ままに語りつくしているような本でした。


津島佑子さんの真新しい小説「ヤマネコ・ドーム」を読了した。ひさしぶりに本気の小説、本ものの文学を読んだ気がした。主人公たちは米兵と日本人の間に生まれたホームなどとも呼ばれる施設育ちの子どもたちで、彼らが先の大戦の敗戦から2011年の東日本の震災までを自由にブルーズを歌いながら、世界中を旅して駆け抜ける、ポリフォニーの語りもの。
施設の子どもというとキース・リチャーズと並ぶ日本の最高のロック・ギタリストの山口冨士夫さんもそうなのであったのを思い出した。そして、この小説は同時代を並走して、先に逝ってしまった小説家、中上健次や立松和平に捧げられているような気もした。津島さんのローレン・バコールのようなしゃがれ声で言う、あなたたち、ずるいわよ、さっさと先に逝ってしまてって、今、日本は恐ろしい地震とかおっかない津波とかお化けみたいな原発で大変なことになっているのよ、という声が聞こえてきそうだ。
タイトルの「ヤマネコ・ドーム」はエニウェトク環礁のルニット・ドームからインスパイアされているものと思われるのだけど、津島さんはこの小説の最後の一頁でこう解説している。
「アメリカの核実験はビキニ環礁だけではなく、エニウェトク環礁も四八~五八年にかけて行われ、そこに住んでいたひとたちも強制移住させられた。しかし、ここではアメリカ軍による除染作業ののち、八○年、住民たちは帰島が許された。戻ってみれば、いくつかの島々は核実験によって消え失せ、ルニット島には除染作業で生じた膨大な汚染物質を集めた「ルニット・ドーム」なるコンクリートの巨大なドームが作られていた。その周囲にはマーシャル語と英語で、「危険 近づくな」と記された看板が建てられたがニ五年経った次点で、すでにその文字は薄れて読みにくくなっていた(竹峰誠一郎氏の報告による)」


異端の民俗学者、宮本常一の著した「忘れられた日本人」を読了した。昔の日本人といってもほんの六十年前の彼らだけど、なんて自由で心豊かでおおらかなんだろう、と思った。貧しさを通り越して、失われたものもたくさんるような気がして、どこか少しうらやましくもある。この本は西暦千九百六十年、昭和三十五年に出されたから、今から六十三年前には日本のどこかでこんな風景があったのだろうか。博徒や夜這いの話とかもあって、昔、見た寺山修司の映画「さらば方舟」を思い出す。それが不幸とは言いきれないけれど、現代という時代は、何かとても寂しい時代なのかもしれない。夜這いの話とかは出てこないけれど、ぼくはこの本の中のとても穏やかな「私の祖父」という章がとても好きなのだ。常民学と呼ばれる宮本民俗学をとても深いところで支え、その生涯を動かしたものに祖父の宮本市五郎とその人が常一少年に語ってきかせた昔語りがあったに違いない。そんな日本のおじいさんの話をぼくも聞きたい。


大映の兵隊やくざシリーズの実質のラストである八作目「兵隊やくざ 強奪」を見た。この大映でのシリーズ、一作目のみが増村保造監督で二作目から八作目までが田中徳三監督、九作目が大映ではなく勝プロでの制作の「新兵隊やくざ火線」で異色、唯一DVD化されておらず、ぼくは一作目から八作目まで見たのだけど一作目の「兵隊やくざ」と並ぶ「兵隊やくざ強奪」は不可思議な名作だと感じた。
七作目の「兵隊やくざ 殴りこみ」で日本は負け、田村高廣の演ずる有田上等兵も、勝新太郎の演じる大宮一等兵も、すでに兵隊ですらなく、二人は混乱の中国の中、日本内地を目指し、南に向かう、その途上で三才にもならない捨てられた赤ん坊を拾う。満人か日本人の子かわからんものを置いていけ、と言う有田上等兵に、大宮一等兵は、人間の子どもであります、と返す。一旦は置いていく子どもの泣き声に堪らず、引き返し子どもを連れて行く決心をする有田上等兵に喜ぶ大宮一等兵、そして、名前もわからない子どもとの三人での旅が始まり、大宮一等兵は、おれたちの子どもであります、と叫んだのだった。
戦争映画を二歩離れ、B級映画のマニアであるアメリカのタランティーノ監督が絶賛しそうな無国籍な情趣のこの映画は、あとは見てのお楽しみ。
今作の脇役陣の中で、どの俳優たちも素晴らしかったのだけど、特に、美人の抗日ゲリラ隊長、楊秋蘭を演じる佐藤友美が良かったです。
七作目の「兵隊やくざ 殴りこみ」で日本は負け、田村高廣の演ずる有田上等兵も、勝新太郎の演じる大宮一等兵も、すでに兵隊ですらなく、二人は混乱の中国の中、日本内地を目指し、南に向かう、その途上で三才にもならない捨てられた赤ん坊を拾う。満人か日本人の子かわからんものを置いていけ、と言う有田上等兵に、大宮一等兵は、人間の子どもであります、と返す。一旦は置いていく子どもの泣き声に堪らず、引き返し子どもを連れて行く決心をする有田上等兵に喜ぶ大宮一等兵、そして、名前もわからない子どもとの三人での旅が始まり、大宮一等兵は、おれたちの子どもであります、と叫んだのだった。
戦争映画を二歩離れ、B級映画のマニアであるアメリカのタランティーノ監督が絶賛しそうな無国籍な情趣のこの映画は、あとは見てのお楽しみ。
今作の脇役陣の中で、どの俳優たちも素晴らしかったのだけど、特に、美人の抗日ゲリラ隊長、楊秋蘭を演じる佐藤友美が良かったです。


仁科邦男さんの著した「犬の伊勢参り」という本を読んで、江戸時代、夏目漱石曰く徳川家(とくせんけ)の世の中って、もしかして幸せな時代だったのかも、と思う。三百五十年つづいたかの時代に「お陰参り」と呼ばれる、神聖なお宮の建て替え儀式である式年遷宮の年の集団での伊勢神宮参拝の国中上げてかのような集団参拝が六十年毎に三回も起きて、当時三千万人ほどだった日本人のうち三百万人以上が参っていたという説もあるほどで、その多くが主人に伺いも立てず、着の身着のまま、三重を目指した、という。その人々の行列に主人や村人に代参として遣わされていたシロやブチと呼ばれた犬たちも歩いていて、首に祓(はらえ)、所謂御札を巻きつけて帰ってきた。楽しそうではないか。それに平和な景色だなぁ。
日本には神の社の三大聖地があるかもしれず、そこは伊勢神宮と熊野本宮、出雲大社。今年の伊勢神宮は六十二回目の式年遷宮にあたって、ぼくも一度は参りたい、と思うのです。日本万歳!


ヘンリー・D・ソローの「森の生活 ウォールデン」を読了する。この本の中でソローーの思考はウォールデン池から出発し、さまざまに飛翔し、再びウォールデン池に戻ってくる、長大な散文で書かれた詩なのだった。難しいけど、美しかったです。それから、ソローって反逆者だったんだと思った。強固で頑迷な奴隷制反対論者でもあったのはこの本にも出てきて、それはリンカーン登場、アメリカ南北戦争前夜のことであった。失われた最良のアメリカがあるようで、そんなところにも惹かれます。ぼくが読んだのは佐渡谷重信さん訳の日本語なのだが、ここでは「池(Pond)」と題された章のおしまいの一段を英語で引用して、この自然の緑が陽光を受けて輝くかのような明るい瞑想家に敬意を表します。
White Pond and Walden are great crystals on the surface of the earth, Lakes of Light. If they were permanently congealed, and small enough to be clutched, they would, perchance, be carried off by slaves, like precious stones, to adorn the heads of emperors; but being liquid, and ample, and secured to us and our successors forever, we disregard them, and run after the diamond of Kohinoor. They are too pure to have a market value; they contain no muck. How much more beautiful than our lives, how much more transparent than our characters, are they! We never learned meanness of them. How much fairer than the pool before the farmer's door, in which his ducks swim! Hither the clean wild ducks come. Nature has no human inhabitant who appreciates her. The birds with their plumage and their notes are in harmony with the flowers, but what youth or maiden conspires with the wild luxuriant beauty of Nature? She flourishes most alone, far from the towns where they reside. Talk of heaven! ye disgrace earth.


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プロフィール
HN:
えいちゃん
性別:
男性
職業:
S.E.
趣味:
音楽
自己紹介:
音楽を演奏したり聴いたりするのが好きです。
歌ってしまいます。そしてギターも少々。
Sam CookeやOtis Reddingなど古いR&Bが好きです。
歌ってしまいます。そしてギターも少々。
Sam CookeやOtis Reddingなど古いR&Bが好きです。


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