えいちゃん(さかい きよたか)
えいちゃんのぶろぐ
昔から五木寛之という作家の書くものが好きで、ベストセラーになるような本は読んできたのだけれども、それよりも、ぼくが五木さんに感謝しなくてはならないのは、若いころ、どこかの放送局のラジオ番組でスペインのユパンキ、今は無きソヴィエト連邦のヴィソツキというギター弾き語りの偉大なシンガーを教えてもらったことだ。スペインとソ連という地球の裏側同士の二人のシンガーのあるかないのかの共通点と言えば、「孤高」ならぬ「孤独」という言葉のような気もして、思い出し、最近の五木寛之さんの著作「孤独の力」を読んだ。
この本でも書かれているのだけど、それは、「孤高」ではなく「孤独」で、その違いはどこまでも人や時代の波に分け入っていくようでもあり、読み進めるうちにぼくは日本のロックの黎明期の伝説のロック・バンド「村八分」のチャー坊こと柴田和志の歌う「草臥れて」を思い出したのだった。こんな詞です。
「歩いても
歩いても
はてどなく
はてどなく
握りしめた手のひらはあせばかり
あせばかり
歩いては
立ち止まり
目を閉じて
振りかえる
心にしまった宝は 寂しさばかり
歩いては
草臥れて
振りかえり
草臥れて
握りしめた手のひらは 草臥れて
草臥れて」
とりとめのない文章になってしまったけれど、五木さんは人間はもともと一人でほっつき歩いて旅をする、そんなもって生まれた欲望がありはしないか、と書いていた。あぁ、ぼくはと言えば、一人でほっつき歩いて旅をするのが、確かに好きなんだよ、と思う。長くはなるが、蓮如の「額に王法、こころに仏法」をひもとく、この本の後ろの方に出てきたこんな言葉にぼくは、ぎくりとしたのです。
「世間の秩序とか国法とか、そういうものに対して徹底的に逆らって一揆を起こすようなことは避けなければならない。逆に、こころの中で、いちばん大事なのはこういうものであるという、信心というか、信念というものを持ちながらも、社会の中ではそれを表に直接表さない・・・・・・これは二重生活の仕方であり、ある意味ではダブルスパイみたいな生き方なのだが。
しかしこうした生き方は実際にはよくあると思う。目的のために「社会を離脱せよ」とか「家庭を離れよ」とか「友人を捨てよ」とか、そういうことを言うのではなくて、それなりにちゃんと暮らしつつ、こころの片隅に、孤独の力というものを、じっと、ひそかに、養いつづけている人
思想、あるいは信念というものが生まれてくるのは、つねに、両者を否定するのではなく、また両者を融合させるのでもなく、それぞれの違ったものを同時に、二重に、内部に共存させるという、いちばん難しい道によってであるのだ」
だから、ぼくも、知らない町も、知っている町も、一人ほっつき歩いてしまうのだろうか。
この本でも書かれているのだけど、それは、「孤高」ではなく「孤独」で、その違いはどこまでも人や時代の波に分け入っていくようでもあり、読み進めるうちにぼくは日本のロックの黎明期の伝説のロック・バンド「村八分」のチャー坊こと柴田和志の歌う「草臥れて」を思い出したのだった。こんな詞です。
「歩いても
歩いても
はてどなく
はてどなく
握りしめた手のひらはあせばかり
あせばかり
歩いては
立ち止まり
目を閉じて
振りかえる
心にしまった宝は 寂しさばかり
歩いては
草臥れて
振りかえり
草臥れて
握りしめた手のひらは 草臥れて
草臥れて」
とりとめのない文章になってしまったけれど、五木さんは人間はもともと一人でほっつき歩いて旅をする、そんなもって生まれた欲望がありはしないか、と書いていた。あぁ、ぼくはと言えば、一人でほっつき歩いて旅をするのが、確かに好きなんだよ、と思う。長くはなるが、蓮如の「額に王法、こころに仏法」をひもとく、この本の後ろの方に出てきたこんな言葉にぼくは、ぎくりとしたのです。
「世間の秩序とか国法とか、そういうものに対して徹底的に逆らって一揆を起こすようなことは避けなければならない。逆に、こころの中で、いちばん大事なのはこういうものであるという、信心というか、信念というものを持ちながらも、社会の中ではそれを表に直接表さない・・・・・・これは二重生活の仕方であり、ある意味ではダブルスパイみたいな生き方なのだが。
しかしこうした生き方は実際にはよくあると思う。目的のために「社会を離脱せよ」とか「家庭を離れよ」とか「友人を捨てよ」とか、そういうことを言うのではなくて、それなりにちゃんと暮らしつつ、こころの片隅に、孤独の力というものを、じっと、ひそかに、養いつづけている人
思想、あるいは信念というものが生まれてくるのは、つねに、両者を否定するのではなく、また両者を融合させるのでもなく、それぞれの違ったものを同時に、二重に、内部に共存させるという、いちばん難しい道によってであるのだ」
だから、ぼくも、知らない町も、知っている町も、一人ほっつき歩いてしまうのだろうか。
旅の宿で読み始めたら止められなくなってしまって、テレビなど一切、見ず、一気読みしてしまった本が東京大学医学部救急医療分野教授という堅い肩書も持つ矢作直樹さんの著した「おかげさまで生きる」。
この人の本って流行っているらしくて、どこの本屋でも平積みしてあって、何か一冊、読んでみたいと思っていたのです。巷では死後の世界を主張する医学教授として毀誉褒貶かまびすしい時の人えでもあるらしい。
こういう本って、結局、論理性とかにには乏しくて、そこに書いてあることに共感できるか否かが、おもしろく、興味を持って読み通せるかの鍵のような気もする。さて、ぼくはといえば、楽しく、共感を持って読み進められました。後ろの方に出てくる宗教観、日本人観などは、ぼくに近いような気もして、不思議というか、二十一世紀になって、右とか左とか、北とか南とか、西とか東とか、渦巻き巻いていて、わけがわからんことになっているよ。
さて、この本に戻り。「第1章 見えないものに意味がある」の中の「死ぬことは普通のこと」なぞを立ち読みして、共感できたなら、本を買って、全編、お読みなることをお薦めしますだ。
この人の本って流行っているらしくて、どこの本屋でも平積みしてあって、何か一冊、読んでみたいと思っていたのです。巷では死後の世界を主張する医学教授として毀誉褒貶かまびすしい時の人えでもあるらしい。
こういう本って、結局、論理性とかにには乏しくて、そこに書いてあることに共感できるか否かが、おもしろく、興味を持って読み通せるかの鍵のような気もする。さて、ぼくはといえば、楽しく、共感を持って読み進められました。後ろの方に出てくる宗教観、日本人観などは、ぼくに近いような気もして、不思議というか、二十一世紀になって、右とか左とか、北とか南とか、西とか東とか、渦巻き巻いていて、わけがわからんことになっているよ。
さて、この本に戻り。「第1章 見えないものに意味がある」の中の「死ぬことは普通のこと」なぞを立ち読みして、共感できたなら、本を買って、全編、お読みなることをお薦めしますだ。
めずらしく読んだビジネス書は、創業した「ブックオフ」を石もて追われ、起死回生かと立ち上げた新しい会社「俺の株式会社」で飲食業界に革命らしきものも起こしつつある破格のやり方で「俺のイタリアン」や「俺のフレンチ」が好調な坂本孝さんが語りつくした「俺のフィロソフィ 仕組みで勝って、人で圧勝する俺のイタリアンの成功哲学」。
こういう本を読むと、やはり、社長というのが世の中で最もおもしろい、やりがいのある職業かもしれない、などと思ってしまうのは、坂本さんの術中にはまってしまっているからだろうか。
そういえば、ローリング・ストーンズのミック・ジャガーも社長みたいなもんだし、ストーンズのロックが嫌いな人間がストーンズのクリューをやっていることってあるのだろうかと問い、この本のタイトルともなっているフィロソフィーとは何ぞや、その昔、社会の授業で習ったゲマインシャフトとゲゼルシャフトとは何だっただろうか、などと考える。そうだ、最近、映画「黄金のメロディー」で見たフェィム・レコーディング・スタジオのリック・ホールもまぎれもない社長であったし、そのリック・ホールは、最も有能な部下、ドラマーのロジャー・ホーキンスとベースのデビッド・フットに去られた直後、ドラマーのフリーマン・ブラウン、ベース・マンのジョン・ボイスを新たに迎えて、更に最高の音楽を作り始めたことを思い出しもした。
ぼくの友だちにも社長とか、社長みたいな人がちらほらいるのだけど、スタートなんて、いつ切ってもいいのだし、地位や名誉、富にも興味がなくなりつつあるぼくが、なぜか今に見ていろよ、とつぶやくのだった。
こういう本を読むと、やはり、社長というのが世の中で最もおもしろい、やりがいのある職業かもしれない、などと思ってしまうのは、坂本さんの術中にはまってしまっているからだろうか。
そういえば、ローリング・ストーンズのミック・ジャガーも社長みたいなもんだし、ストーンズのロックが嫌いな人間がストーンズのクリューをやっていることってあるのだろうかと問い、この本のタイトルともなっているフィロソフィーとは何ぞや、その昔、社会の授業で習ったゲマインシャフトとゲゼルシャフトとは何だっただろうか、などと考える。そうだ、最近、映画「黄金のメロディー」で見たフェィム・レコーディング・スタジオのリック・ホールもまぎれもない社長であったし、そのリック・ホールは、最も有能な部下、ドラマーのロジャー・ホーキンスとベースのデビッド・フットに去られた直後、ドラマーのフリーマン・ブラウン、ベース・マンのジョン・ボイスを新たに迎えて、更に最高の音楽を作り始めたことを思い出しもした。
ぼくの友だちにも社長とか、社長みたいな人がちらほらいるのだけど、スタートなんて、いつ切ってもいいのだし、地位や名誉、富にも興味がなくなりつつあるぼくが、なぜか今に見ていろよ、とつぶやくのだった。
小倉広さんの著した「アルフレッド・アドラー 人生に革命が起きる100の言葉」を読んだ。フロイトやユングと並ぶアドラーの心理学を平易に実践的に、そして、良き人生を読んだ人がおくれるように、読み解いた本。
心理カウンセラーであり組織人事コンサルタントでもある小倉広さんによれば、アドラーとはフロイトとは正反対の考えの人で、フロイトが精神や心を人がセックスをし、食べ、うんこをする、その欲望によって、無意識と意識を含めて、存在していると説いているのに対し、アドラーは精神や心というものは本来的にそれ自身に備わった、善なる性向があるという。なるほど、ぼくの好きなユングと同様にフロイトから離反したアドラーは十九世紀から二十世紀の時代を生きたのだけど、その思想はユングのように闇の奥にある深い光っているところに沈潜していくようではなく、あくまでも、日常的な言葉の理論的な警句で語りかけるかのようだ。決して難しくはないアドラーの言葉をいろんな人が読めばいいと思った。この本でアドラーの言葉と呼応するかのように述べられている西郷隆盛のぼくの好きな言葉を引用します。
「人を相手にせず天を相手にせよ。天を相手にして己を尽くし、人をとがめず我が誠の足らざるを尋ぬべし」
そして、アドラーの言葉です。
「「暗い」のではなく「優しい」のだ。
「のろま」ではなく「ていねい」なのだ。
「失敗ばかり」ではなく「たくさんチャレンジしている」のだ」
この西洋的な克己心は、どこか東洋的であり、しかもドグマ(教条)を持たず、悟り向かいながら、悟りの前で何か自ら足踏みしてしまう禅の僧侶であるかのよう。
心理カウンセラーであり組織人事コンサルタントでもある小倉広さんによれば、アドラーとはフロイトとは正反対の考えの人で、フロイトが精神や心を人がセックスをし、食べ、うんこをする、その欲望によって、無意識と意識を含めて、存在していると説いているのに対し、アドラーは精神や心というものは本来的にそれ自身に備わった、善なる性向があるという。なるほど、ぼくの好きなユングと同様にフロイトから離反したアドラーは十九世紀から二十世紀の時代を生きたのだけど、その思想はユングのように闇の奥にある深い光っているところに沈潜していくようではなく、あくまでも、日常的な言葉の理論的な警句で語りかけるかのようだ。決して難しくはないアドラーの言葉をいろんな人が読めばいいと思った。この本でアドラーの言葉と呼応するかのように述べられている西郷隆盛のぼくの好きな言葉を引用します。
「人を相手にせず天を相手にせよ。天を相手にして己を尽くし、人をとがめず我が誠の足らざるを尋ぬべし」
そして、アドラーの言葉です。
「「暗い」のではなく「優しい」のだ。
「のろま」ではなく「ていねい」なのだ。
「失敗ばかり」ではなく「たくさんチャレンジしている」のだ」
この西洋的な克己心は、どこか東洋的であり、しかもドグマ(教条)を持たず、悟り向かいながら、悟りの前で何か自ら足踏みしてしまう禅の僧侶であるかのよう。
ラス・カサスの著した「インディアスの破壊についての簡潔な報告」を読む。ドミニコ修道会の宣教師が書いた十六世紀にアメリカ大陸を覆ったもともとそこに住んでいた人々に対するスペイン人による大量殺戮のスペイン国王への報告書。あまりに無残な内容に読み進めるを止めたくなるのだけど、やっと、すべてを読み終えた。
なにが大航海時代だ。この蛮行が発端となり、オランダのスペインからの独立を招き、この本は十九世紀からの中南米の反スペイン、反植民地主義の思想的根拠を用意する。それは今でも消すことのえできない傷のように形を変えて続き、メキシコの人たちは自分たちのアイデンティティとして、自らを強姦された母親の子どもたちと呼ぶらしい。
パブロ・ピカソやアントニ・ガウディを生んだスペインにこのような無残で残酷な加害者の歴史があったとは。けれども、子どが親の犯した罪を背負えるだろうか。それよりも親こそが子どもたちには責任があるのではなかろうか。それは、未来にやってくるものたちへの責任で、過去と現在の本当のことを求め、未来のために子どもたちの教訓や糧となるように伝えていく責任。そのようなことのためにこの本は読まれ、未来永劫に手渡されていくべきではなかろうか。
なにが大航海時代だ。この蛮行が発端となり、オランダのスペインからの独立を招き、この本は十九世紀からの中南米の反スペイン、反植民地主義の思想的根拠を用意する。それは今でも消すことのえできない傷のように形を変えて続き、メキシコの人たちは自分たちのアイデンティティとして、自らを強姦された母親の子どもたちと呼ぶらしい。
パブロ・ピカソやアントニ・ガウディを生んだスペインにこのような無残で残酷な加害者の歴史があったとは。けれども、子どが親の犯した罪を背負えるだろうか。それよりも親こそが子どもたちには責任があるのではなかろうか。それは、未来にやってくるものたちへの責任で、過去と現在の本当のことを求め、未来のために子どもたちの教訓や糧となるように伝えていく責任。そのようなことのためにこの本は読まれ、未来永劫に手渡されていくべきではなかろうか。
藤子・F・不二雄の「劇画・オバQ」を読む、不思議な読後感でした。大人になった正ちゃんでもよっちゃんでもゴジラでもキザオでもハカセくんでもなく、ぼくものころのままのQちゃんのようだと思う。さびしいようなすがすがしいような妙な気持ちです。藤子不二雄の漫画では「オバケのQ太郎」が一番好きで、赤塚不二夫の漫画では「もーれつア太郎」が一番好きです。さて、明日は何をして遊ぼうかな? おやすみZZZzzz.....
最近の自分の個人的事情もあって、稲盛和夫さんの著した「京セラフィロソフィー」を読了した。600頁もある大著には、平易な言葉で、新書でいうと4冊分ぐらいだろうか、内向きの螺旋階段を少しづつ上るか、下るかのように、同じテーマがつづられていた。当たり前的な話に感心してつまらなく、つまらないけれど、感心する、そんな内容。
京セラとKDDIの創業者は、JALも再建し、今、最も注目される経営者であり、その稲盛さんが、京セラ社内のみに配布している社訓集「京セラフィロソフィー手帳」を自ら、ひもとき、読み解いている。どこの本屋でも平置きされていて、「生き方」に続くベストセラーになろう。
この本から想像される内部から見た京セラは共産主義のようだ。そのことからか、京セラは元祖ブラック企業との説もある。その昔、よくゴルフをしてもらった年上の友だちの友だちが京セラ系の企業に再就職したことがあって、思い出すに、その友だちの友だちからブラック企業に勤めているがゆえの疲弊感のようなものは感じられなかったけれど、明日、運動会なんだ、絶対参加なんだ、まー、こういうのもいいことなのかな、などと言っていた。京セラは社内行事は原則、全員参加なんだそうだ。やはり、「京セラ」ではなく、「共(産)セラ」のほうがしっくり来るかも。ぼく自身は、社内行事とかいやではなく、社内旅行とかバーべ―キューとか、おもしろがって、ほいほい参加するけどね。
稲盛和夫さん、春を過ぎ、今は夏の真っ盛りですね。けれど、すべては春夏秋冬をめぐるのです。この「京セラフィロソフィー」には希薄で、それを引き裂くかのような、ダモクレスの剣、もしくは、ふいにかき曇り、撃つ雷かのような、自然学者、チャールズ・ダーウィン翁の二つの言葉をもう一つの警句として捧げ、自分への戒めともします。
「最も強い者が生き残るのではなく、最も賢い者が生き延びるのでもない。唯一生き残ることが出来るのは、変化できる者である」
「自然淘汰とは、有用でさえあれば、いかに小さな事であろうとも、保存されていくという原理である」
京セラとKDDIの創業者は、JALも再建し、今、最も注目される経営者であり、その稲盛さんが、京セラ社内のみに配布している社訓集「京セラフィロソフィー手帳」を自ら、ひもとき、読み解いている。どこの本屋でも平置きされていて、「生き方」に続くベストセラーになろう。
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稲盛和夫さん、春を過ぎ、今は夏の真っ盛りですね。けれど、すべては春夏秋冬をめぐるのです。この「京セラフィロソフィー」には希薄で、それを引き裂くかのような、ダモクレスの剣、もしくは、ふいにかき曇り、撃つ雷かのような、自然学者、チャールズ・ダーウィン翁の二つの言葉をもう一つの警句として捧げ、自分への戒めともします。
「最も強い者が生き残るのではなく、最も賢い者が生き延びるのでもない。唯一生き残ることが出来るのは、変化できる者である」
「自然淘汰とは、有用でさえあれば、いかに小さな事であろうとも、保存されていくという原理である」