えいちゃん(さかい きよたか)
えいちゃんのぶろぐ
異端の民俗学者、宮本常一の著した「忘れられた日本人」を読了した。昔の日本人といってもほんの六十年前の彼らだけど、なんて自由で心豊かでおおらかなんだろう、と思った。貧しさを通り越して、失われたものもたくさんるような気がして、どこか少しうらやましくもある。この本は西暦千九百六十年、昭和三十五年に出されたから、今から六十三年前には日本のどこかでこんな風景があったのだろうか。博徒や夜這いの話とかもあって、昔、見た寺山修司の映画「さらば方舟」を思い出す。それが不幸とは言いきれないけれど、現代という時代は、何かとても寂しい時代なのかもしれない。夜這いの話とかは出てこないけれど、ぼくはこの本の中のとても穏やかな「私の祖父」という章がとても好きなのだ。常民学と呼ばれる宮本民俗学をとても深いところで支え、その生涯を動かしたものに祖父の宮本市五郎とその人が常一少年に語ってきかせた昔語りがあったに違いない。そんな日本のおじいさんの話をぼくも聞きたい。
大映の兵隊やくざシリーズの実質のラストである八作目「兵隊やくざ 強奪」を見た。この大映でのシリーズ、一作目のみが増村保造監督で二作目から八作目までが田中徳三監督、九作目が大映ではなく勝プロでの制作の「新兵隊やくざ火線」で異色、唯一DVD化されておらず、ぼくは一作目から八作目まで見たのだけど一作目の「兵隊やくざ」と並ぶ「兵隊やくざ強奪」は不可思議な名作だと感じた。
七作目の「兵隊やくざ 殴りこみ」で日本は負け、田村高廣の演ずる有田上等兵も、勝新太郎の演じる大宮一等兵も、すでに兵隊ですらなく、二人は混乱の中国の中、日本内地を目指し、南に向かう、その途上で三才にもならない捨てられた赤ん坊を拾う。満人か日本人の子かわからんものを置いていけ、と言う有田上等兵に、大宮一等兵は、人間の子どもであります、と返す。一旦は置いていく子どもの泣き声に堪らず、引き返し子どもを連れて行く決心をする有田上等兵に喜ぶ大宮一等兵、そして、名前もわからない子どもとの三人での旅が始まり、大宮一等兵は、おれたちの子どもであります、と叫んだのだった。
戦争映画を二歩離れ、B級映画のマニアであるアメリカのタランティーノ監督が絶賛しそうな無国籍な情趣のこの映画は、あとは見てのお楽しみ。
今作の脇役陣の中で、どの俳優たちも素晴らしかったのだけど、特に、美人の抗日ゲリラ隊長、楊秋蘭を演じる佐藤友美が良かったです。
七作目の「兵隊やくざ 殴りこみ」で日本は負け、田村高廣の演ずる有田上等兵も、勝新太郎の演じる大宮一等兵も、すでに兵隊ですらなく、二人は混乱の中国の中、日本内地を目指し、南に向かう、その途上で三才にもならない捨てられた赤ん坊を拾う。満人か日本人の子かわからんものを置いていけ、と言う有田上等兵に、大宮一等兵は、人間の子どもであります、と返す。一旦は置いていく子どもの泣き声に堪らず、引き返し子どもを連れて行く決心をする有田上等兵に喜ぶ大宮一等兵、そして、名前もわからない子どもとの三人での旅が始まり、大宮一等兵は、おれたちの子どもであります、と叫んだのだった。
戦争映画を二歩離れ、B級映画のマニアであるアメリカのタランティーノ監督が絶賛しそうな無国籍な情趣のこの映画は、あとは見てのお楽しみ。
今作の脇役陣の中で、どの俳優たちも素晴らしかったのだけど、特に、美人の抗日ゲリラ隊長、楊秋蘭を演じる佐藤友美が良かったです。
仁科邦男さんの著した「犬の伊勢参り」という本を読んで、江戸時代、夏目漱石曰く徳川家(とくせんけ)の世の中って、もしかして幸せな時代だったのかも、と思う。三百五十年つづいたかの時代に「お陰参り」と呼ばれる、神聖なお宮の建て替え儀式である式年遷宮の年の集団での伊勢神宮参拝の国中上げてかのような集団参拝が六十年毎に三回も起きて、当時三千万人ほどだった日本人のうち三百万人以上が参っていたという説もあるほどで、その多くが主人に伺いも立てず、着の身着のまま、三重を目指した、という。その人々の行列に主人や村人に代参として遣わされていたシロやブチと呼ばれた犬たちも歩いていて、首に祓(はらえ)、所謂御札を巻きつけて帰ってきた。楽しそうではないか。それに平和な景色だなぁ。
日本には神の社の三大聖地があるかもしれず、そこは伊勢神宮と熊野本宮、出雲大社。今年の伊勢神宮は六十二回目の式年遷宮にあたって、ぼくも一度は参りたい、と思うのです。日本万歳!
ヘンリー・D・ソローの「森の生活 ウォールデン」を読了する。この本の中でソローーの思考はウォールデン池から出発し、さまざまに飛翔し、再びウォールデン池に戻ってくる、長大な散文で書かれた詩なのだった。難しいけど、美しかったです。それから、ソローって反逆者だったんだと思った。強固で頑迷な奴隷制反対論者でもあったのはこの本にも出てきて、それはリンカーン登場、アメリカ南北戦争前夜のことであった。失われた最良のアメリカがあるようで、そんなところにも惹かれます。ぼくが読んだのは佐渡谷重信さん訳の日本語なのだが、ここでは「池(Pond)」と題された章のおしまいの一段を英語で引用して、この自然の緑が陽光を受けて輝くかのような明るい瞑想家に敬意を表します。
White Pond and Walden are great crystals on the surface of the earth, Lakes of Light. If they were permanently congealed, and small enough to be clutched, they would, perchance, be carried off by slaves, like precious stones, to adorn the heads of emperors; but being liquid, and ample, and secured to us and our successors forever, we disregard them, and run after the diamond of Kohinoor. They are too pure to have a market value; they contain no muck. How much more beautiful than our lives, how much more transparent than our characters, are they! We never learned meanness of them. How much fairer than the pool before the farmer's door, in which his ducks swim! Hither the clean wild ducks come. Nature has no human inhabitant who appreciates her. The birds with their plumage and their notes are in harmony with the flowers, but what youth or maiden conspires with the wild luxuriant beauty of Nature? She flourishes most alone, far from the towns where they reside. Talk of heaven! ye disgrace earth.
映画の「兵隊やくざ」をひさしぶりに見たらおもしろかった、と友だちに話したら、小説の「兵隊やくざ」があると言い、その本を貸してくれた。小説の原作があるのか、と思い、読み始め、有馬頼義の書いた「兵隊やくざ 貴三郎一代」を読了した。戦争を舞台にした軽いエンターテイメントかと思って読み始めると、そんなことはなく、「兵隊やくざ」という小説は、本格的な小説であって、一級の文学なのだった。しかも、おもしろくて一気読みしてしまった。そして、ギリシャの文豪、二コス・カザンザキスの名作「その男ゾルバ」を思い出し、再読してみたくなった。しかし、その前に「続兵隊やくざ 続貴三郎一代」を読むぞ。これも貸してもらっているのです。
ティク・ナット・ハン著、池田久代訳の「小説ブッダ-いにしえの道、白い雲」を読了した。この本、小さい八十一の章からなっているのだが、二段組の四百頁を超す厚さなのに、我ながらよく読み通せたのは、毎晩、眠る前に一章か二章づつ読みつづけたからであった。すると、猛烈に眠くなり、眠ってしまう。次の夜、また読みたくなり、読むと、あえていうなら、つまらなくて、眠ってしまう。けれど、また次の夜、惹かれて読んでしまうの繰り返しであった不思議な本です。ティク・ナット・ハンさんはベトナムからフランスに移住し活動する有名なお坊さんであるらしいのだが、ブッダを描いても決して神がかりならず、しかし、敬意とやさしさに満ちていて、池田久代さんの訳の日本語もまっすぐで平易で読みやすい。後半から仏教の教えが物語に登場するブッダ自身やブッダの弟子たちの口をかりて、つづられるのだけど、平易に語れれるこの震撼とさせる言葉をぼく自身への覚書としてそこから引用し、この眠くなる本をみなさんにお薦めします。
「私の目は私ではない。私の耳は私ではない。私の鼻も、私の舌も、私の体も、私の心も私ではない。眼識は私ではない。耳識も私ではない。鼻識も、舌識も、身識も、意識も私ではない。地という要素は私ではない。水も、火も、風も、空間も、意識という要素も私ではない。生死は私に触れることがない。生まれたことも死ぬこともないがゆえに私は微笑む。生によって私が存在したのでもなく、また死によって私の存在が奪い去られることもない」
「私の目は私ではない。私の耳は私ではない。私の鼻も、私の舌も、私の体も、私の心も私ではない。眼識は私ではない。耳識も私ではない。鼻識も、舌識も、身識も、意識も私ではない。地という要素は私ではない。水も、火も、風も、空間も、意識という要素も私ではない。生死は私に触れることがない。生まれたことも死ぬこともないがゆえに私は微笑む。生によって私が存在したのでもなく、また死によって私の存在が奪い去られることもない」
佐野眞一さんの著した「宮本常一の写真に読む失われた昭和」を読了した。読むと同時に民俗学者、宮本常一の残した101点ものちりばめられた写真をつくづく見てしまう。かの現代日本の写真芸術を代表する森山大道氏も宮本の写真にはかんわない、とこの本の解説で述べている。「苦海浄土」の作者でもある石牟礼道子さんが宮本常一について書いた文がこの本の中で引用されているのだが、それをぼくも書き写す。
「この潮の満ち干きする渚の、おどろくほどの緻密な観察と鮮明な記憶、まのあたりに見ているような平明な描写力。読んでいてふいに胸えぐられる感じになるのは、今はこの列島の海岸線すべてから、氏の書き残されたような渚が消え去ったことに思いいたるからである」
それは日本中を旅したこの民俗学者の残した写真についてもいえる。10,000点以上の写真を残し、それはかげがえいのない日本人の記憶として彼の故郷の地にある山口県の周防大島文化交流センターに展示されているそうだ。いつか見に行きたいものだ。
この本「宮本常一の写真に読む失われた昭和」なのだが、宮本民俗学のかっこうの入り口となるようなものかもしれない。高度成長期に過疎の道をたどる日本の村のために自助自尊をといた宮本常一さんは学者や作家の気質を超えて、もしかして宮澤賢治のような人だったのかもしれない、と思った。失われたのは昭和ではなく日本なのかもしれない。右からは極左と呼ばれ、左から極右と呼ばれていたそうだが、本当だろうか。かっこいなー。怒りすらもともなって宮本常一は自身の死の三年前に述べたそうだ。
「失われるものがすべて不要であり、時代おくれのものであったのだろうか。進歩に対する迷信が、退歩しつつあるものをも進歩と誤解し、時にはそれが人間だけでなく生きとし生けるものを絶滅にさえ向かわしめつつあるのではないかと思うことがある」
そして、ぼくはカメラを持って旅に出たくなりました。
「この潮の満ち干きする渚の、おどろくほどの緻密な観察と鮮明な記憶、まのあたりに見ているような平明な描写力。読んでいてふいに胸えぐられる感じになるのは、今はこの列島の海岸線すべてから、氏の書き残されたような渚が消え去ったことに思いいたるからである」
それは日本中を旅したこの民俗学者の残した写真についてもいえる。10,000点以上の写真を残し、それはかげがえいのない日本人の記憶として彼の故郷の地にある山口県の周防大島文化交流センターに展示されているそうだ。いつか見に行きたいものだ。
この本「宮本常一の写真に読む失われた昭和」なのだが、宮本民俗学のかっこうの入り口となるようなものかもしれない。高度成長期に過疎の道をたどる日本の村のために自助自尊をといた宮本常一さんは学者や作家の気質を超えて、もしかして宮澤賢治のような人だったのかもしれない、と思った。失われたのは昭和ではなく日本なのかもしれない。右からは極左と呼ばれ、左から極右と呼ばれていたそうだが、本当だろうか。かっこいなー。怒りすらもともなって宮本常一は自身の死の三年前に述べたそうだ。
「失われるものがすべて不要であり、時代おくれのものであったのだろうか。進歩に対する迷信が、退歩しつつあるものをも進歩と誤解し、時にはそれが人間だけでなく生きとし生けるものを絶滅にさえ向かわしめつつあるのではないかと思うことがある」
そして、ぼくはカメラを持って旅に出たくなりました。
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プロフィール
HN:
えいちゃん
性別:
男性
職業:
S.E.
趣味:
音楽
自己紹介:
音楽を演奏したり聴いたりするのが好きです。
歌ってしまいます。そしてギターも少々。
Sam CookeやOtis Reddingなど古いR&Bが好きです。
歌ってしまいます。そしてギターも少々。
Sam CookeやOtis Reddingなど古いR&Bが好きです。
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