えいちゃん(さかい きよたか)
えいちゃんのぶろぐ

未明に目が覚めて、いとうせいこうさんの「想像ラジオ」を読了する。読み始めは何のことだかわからない小説で、読み進めるとあることがわかって、わかってしまってから、読み進めるのが苦しくなんるのだけど、読み進めずにはいられない、そんな小説でした。
この新しい意匠をまとった小説は、古い物語、、古い唄、それは死者たちのために語られるという、そういう日本人の心象に深く根付いた伝統性みたいなものを感じた。
あー、2011年3月11日を境にいろんなものが変わってしまった、世界を構成している光の色までもが変わってしまった、と感じているのは、ぼくだけではないはず。そのいたましいことに生死を越えた祈りの声、唄、物語が響いてもほしい。想像ラジオを聴き続けよ、ということなのだろうか。すると、ラジオのジングルが鳴りはじめる。想ー像ーラジオー。


本屋で立ち読みしていたら面白いんで、買って一気読みしてしまったのがシンクタンク「ソフィアバンク」の代表取締役であり社会起業論の教授でもある田坂広志さんの著した「なぜ、マネジメントが壁につきあたるのか」です。まじめなビズネスマンが読むような本だけど、話は仕事のことにとどまらずに、暗黙知、複雑系、禅へと敷衍していき、凡庸なノウハウ本にはない面白さがあった。ぼくはノウハウ本というのは人を単純にし、人の頭をバカにするようなものだとも思っていたのだけど、そんなことも書かれてていたな。
例えば、この本に書かれていたことの一つにぎりぎりのものごとを決める時に「割り切る」と「腹をくくる」というのがあるということ。前の会社にとても尊敬できる面白くて頭脳明晰な切れ者の、しかも人情深い大人物の上司というか取締役がいて、その人もよく「腹をくくる」と言っていたことを思い出したりした。その人は風の噂でまだまだ元気に第一線で活躍しているとのこと。
あぁ、けれども、落ちこぼれビジネスマンのようなぼくだけど、こんな本を読んでしまうのには、わけがあって、近い将来やりたいと思っている夢みたいなこともあるのですぞ。
例えば、この本に書かれていたことの一つにぎりぎりのものごとを決める時に「割り切る」と「腹をくくる」というのがあるということ。前の会社にとても尊敬できる面白くて頭脳明晰な切れ者の、しかも人情深い大人物の上司というか取締役がいて、その人もよく「腹をくくる」と言っていたことを思い出したりした。その人は風の噂でまだまだ元気に第一線で活躍しているとのこと。
あぁ、けれども、落ちこぼれビジネスマンのようなぼくだけど、こんな本を読んでしまうのには、わけがあって、近い将来やりたいと思っている夢みたいなこともあるのですぞ。


「山口冨士夫 天国のひまつぶし」を読了した。いろんな人からの山口冨士夫へのトリビュートブック、言葉による山口冨士夫賛歌の本なのであった。
ミュージシャンはもちろんこと、小説家、詩人、、文学者、写真家、思想家、新聞記者、いろんな人たちが、彼の死を悼み、言葉を寄せている。なんと言えばいいにだろうか、山口冨士夫はミュージシャンという狭い職業範囲を超えて、ロックンローラーも踏み越えて、山口冨士夫たるような存在だったのだと思う。
山口冨士夫がギターを弾いていた日本の日本人による日本語の日本人のための初めてで最高のロック・バンドたる村八分について、いしいしんじさんはあるエピソードをこの本の中で披露しているのだが、やはりこういうのがアティテュードとしてロックではないのか。若いかね? 青臭いかね? 空の向こうではジョン・レノンや忌野清志郎はどう言っているのかね? ここに書かれたチャー坊こと柴田和志や山口冨士夫の空の向こうからのやさしい笑い顔が浮かびはしないかね? 引用して、山口冨士夫は永遠なのだなーと見上げてしまう。
「なに、これ」
と三歳の息子がやってきた。・・・<中略>・・・
「むらはちぶ、きいてみよか」
といって、A面の一曲目に針を落とす。・・・<中略>・・・
「これ、だれがうたってんのん」
「さあ、だれやとおもう?」
息子はしばらく耳をかたむけ、見つめたまま、
「おに」
といった。
「すっごく、やさしい、おに」
唖然とする僕を置き去りに、冨士夫のギターソロがうねりだす。
「これ、キター?」
「うん、ギター」
「だれがひいてんのん」
「さあ、だれやとおもう?」
息子はやはりじっと耳をかたむけ、そうして晴れやかな顔をゆっくりとこっちに向け、ひとこと、
「どろぼう」
とささやいた。
「すっごい、やさしい、うれしい、どろぼう」


コンラート・ローレンツの「ソロモンの指輪」を読んだ。「動物行動学入門」という副題ももったこの本は、動物行動学という学問領域を打ち立て、ノーベル賞も受賞したオーストリアの博士のまず初めの著作だという。学問としてはもう古くなってしまった箇所もあるそうだが、その動物たちに向けられた愛にみちた眼ざしが文から伝わってきて、なんとも暖かい気持ちになります。
犬について書かれたところなどは、死んでしまった愛犬のレオを思い出し、ほろりと涙しそうになりました。
終章に書かれた「モラルと武器」は、激動の二つ戦争のを生き延びたヨーロッパ人の苦しい警句のようでもある。ナチスに入党し、軍医となり、ソビエト軍の捕虜となった過去を持つ彼が、戦後どう生きようとしたのかは、暗喩のようにこの「モラルと武器」に表されているのかもしれない。
ともあれ、動物好きには楽しい古典的名著であると思います。


昔、NHKのラジオか何かで、生前の谷崎潤一郎がその長編の代表作「細雪」につてインタビューで語っているのを聞いたことがある。この日本の近代文学最高の文豪はその「細雪」について、あれは戦前、戦時下の軍部がうるさくて、めくらましに書いたんだよ、というようなことを言っていた。その「細雪」もついには戦中に軍部によって発行禁止となる。発行禁止となっても谷崎は書きつづけ、戦後「細雪」は完成する。
もう一人、永井荷風は「断腸的日乗」を戦前、戦中、発表のあてもなく、戦後の彼の死の前日まで書きつづけ、死後、発表される。「断腸的日乗」から一節を引用します。
「今秋国民兵召集以来、軍人政治の害毒いよいよ社会の各方面に波及するに至れり。親は44、5歳にて祖先伝来の家業を失いて職工となり、その子は十六、七歳より学業を捨て職工より兵卒となりて戦地に死し、母は食物なく幼児の養育に苦しむ。国を挙げて各人みな重税の負担に耐えざらむとす。今は勝敗を問わず、ただ一日も早く戦争の終了を待つのみ也」
世情を感じ、明日を憂い、こんな二人の作家を思い出した。
もう一人、永井荷風は「断腸的日乗」を戦前、戦中、発表のあてもなく、戦後の彼の死の前日まで書きつづけ、死後、発表される。「断腸的日乗」から一節を引用します。
「今秋国民兵召集以来、軍人政治の害毒いよいよ社会の各方面に波及するに至れり。親は44、5歳にて祖先伝来の家業を失いて職工となり、その子は十六、七歳より学業を捨て職工より兵卒となりて戦地に死し、母は食物なく幼児の養育に苦しむ。国を挙げて各人みな重税の負担に耐えざらむとす。今は勝敗を問わず、ただ一日も早く戦争の終了を待つのみ也」
世情を感じ、明日を憂い、こんな二人の作家を思い出した。


ヨシフ・スターリンの恐るべき狂った圧政のソビエト連邦のシベリアの極寒の地の強制収容所から、書きものという方法を奪われた帰還兵たちによって、記憶という手段で、俳号、北溟子こと山本幡男さんからの遺書がその妻、モジミさんに戦後、手渡される、辺見じゅんさんの著したそんなノン・フィクション「収容所(ラーゲリ)からの遺書」を読んだ。
辺見さんが「あとがき」に書かれているように、過酷な状況に置かれてもなお人間らしく生きるとはどういうことか、ということが、胸に重く響く。愛する家族への最後の手紙であると同時に今の時代への警句でもあるかのような、その届けられた遺書がどのようなものかは、本書を読んでいただくとして、死を覚悟した晩年の山本幡男さんの言葉を引用してこの本を紹介します。
「野本さん、釈迦はね、世界最大のセンチメンタリストなんだよ。キリストは詩人なんだ。ぼくはね、なんのとりえもない凡人だけど、どんなときでもセンチメンタリストでありつづけたい。結局ね、パトスだけがわれわれ人間にとって最初の審判者であり最後の審判者なんだ。そう思えてきたよ」
ぼくはこのパトスを受苦をともなう他者への共感と訳してみる。誤訳かもしれないけれど・・・おやすみ、ZZZzzz.....
辺見さんが「あとがき」に書かれているように、過酷な状況に置かれてもなお人間らしく生きるとはどういうことか、ということが、胸に重く響く。愛する家族への最後の手紙であると同時に今の時代への警句でもあるかのような、その届けられた遺書がどのようなものかは、本書を読んでいただくとして、死を覚悟した晩年の山本幡男さんの言葉を引用してこの本を紹介します。
「野本さん、釈迦はね、世界最大のセンチメンタリストなんだよ。キリストは詩人なんだ。ぼくはね、なんのとりえもない凡人だけど、どんなときでもセンチメンタリストでありつづけたい。結局ね、パトスだけがわれわれ人間にとって最初の審判者であり最後の審判者なんだ。そう思えてきたよ」
ぼくはこのパトスを受苦をともなう他者への共感と訳してみる。誤訳かもしれないけれど・・・おやすみ、ZZZzzz.....


戦争ものの大衆小説を著し、今はもう忘れさられたような作家、棟田博の「サイパンから来た列車」を読む。二編収められていて一つは小品の「サイパンから来た列車」、もう一つは中編の「ポッポ班長万歳」。こてこての戦記文学ではなく戦争を背景した淡い笑い、ユーモアと悲哀の涙を誘う珠玉の作品が二つで、かのオー・ヘンリーの名作を思い起こさせる。ぼくは10年後の日本はどこかの国と戦争でもしているのではあるまいかと、昨今の風潮に悪い予感をおぼえ、どんな時にも、どこか善良に生きたいと心貧しくも願いつつ、こんな本に手が伸びてしまう。その悪い予感がはずれたらいいと思い、このような読書が悪魔祓いのまじないのようでもあると感じてしまう。
