えいちゃん(さかい きよたか)
えいちゃんのぶろぐ

ラス・カサスの著した「インディアスの破壊についての簡潔な報告」を読む。ドミニコ修道会の宣教師が書いた十六世紀にアメリカ大陸を覆ったもともとそこに住んでいた人々に対するスペイン人による大量殺戮のスペイン国王への報告書。あまりに無残な内容に読み進めるを止めたくなるのだけど、やっと、すべてを読み終えた。
なにが大航海時代だ。この蛮行が発端となり、オランダのスペインからの独立を招き、この本は十九世紀からの中南米の反スペイン、反植民地主義の思想的根拠を用意する。それは今でも消すことのえできない傷のように形を変えて続き、メキシコの人たちは自分たちのアイデンティティとして、自らを強姦された母親の子どもたちと呼ぶらしい。
パブロ・ピカソやアントニ・ガウディを生んだスペインにこのような無残で残酷な加害者の歴史があったとは。けれども、子どが親の犯した罪を背負えるだろうか。それよりも親こそが子どもたちには責任があるのではなかろうか。それは、未来にやってくるものたちへの責任で、過去と現在の本当のことを求め、未来のために子どもたちの教訓や糧となるように伝えていく責任。そのようなことのためにこの本は読まれ、未来永劫に手渡されていくべきではなかろうか。
なにが大航海時代だ。この蛮行が発端となり、オランダのスペインからの独立を招き、この本は十九世紀からの中南米の反スペイン、反植民地主義の思想的根拠を用意する。それは今でも消すことのえできない傷のように形を変えて続き、メキシコの人たちは自分たちのアイデンティティとして、自らを強姦された母親の子どもたちと呼ぶらしい。
パブロ・ピカソやアントニ・ガウディを生んだスペインにこのような無残で残酷な加害者の歴史があったとは。けれども、子どが親の犯した罪を背負えるだろうか。それよりも親こそが子どもたちには責任があるのではなかろうか。それは、未来にやってくるものたちへの責任で、過去と現在の本当のことを求め、未来のために子どもたちの教訓や糧となるように伝えていく責任。そのようなことのためにこの本は読まれ、未来永劫に手渡されていくべきではなかろうか。


藤子・F・不二雄の「劇画・オバQ」を読む、不思議な読後感でした。大人になった正ちゃんでもよっちゃんでもゴジラでもキザオでもハカセくんでもなく、ぼくものころのままのQちゃんのようだと思う。さびしいようなすがすがしいような妙な気持ちです。藤子不二雄の漫画では「オバケのQ太郎」が一番好きで、赤塚不二夫の漫画では「もーれつア太郎」が一番好きです。さて、明日は何をして遊ぼうかな? おやすみZZZzzz.....


最近の自分の個人的事情もあって、稲盛和夫さんの著した「京セラフィロソフィー」を読了した。600頁もある大著には、平易な言葉で、新書でいうと4冊分ぐらいだろうか、内向きの螺旋階段を少しづつ上るか、下るかのように、同じテーマがつづられていた。当たり前的な話に感心してつまらなく、つまらないけれど、感心する、そんな内容。
京セラとKDDIの創業者は、JALも再建し、今、最も注目される経営者であり、その稲盛さんが、京セラ社内のみに配布している社訓集「京セラフィロソフィー手帳」を自ら、ひもとき、読み解いている。どこの本屋でも平置きされていて、「生き方」に続くベストセラーになろう。
この本から想像される内部から見た京セラは共産主義のようだ。そのことからか、京セラは元祖ブラック企業との説もある。その昔、よくゴルフをしてもらった年上の友だちの友だちが京セラ系の企業に再就職したことがあって、思い出すに、その友だちの友だちからブラック企業に勤めているがゆえの疲弊感のようなものは感じられなかったけれど、明日、運動会なんだ、絶対参加なんだ、まー、こういうのもいいことなのかな、などと言っていた。京セラは社内行事は原則、全員参加なんだそうだ。やはり、「京セラ」ではなく、「共(産)セラ」のほうがしっくり来るかも。ぼく自身は、社内行事とかいやではなく、社内旅行とかバーべ―キューとか、おもしろがって、ほいほい参加するけどね。
稲盛和夫さん、春を過ぎ、今は夏の真っ盛りですね。けれど、すべては春夏秋冬をめぐるのです。この「京セラフィロソフィー」には希薄で、それを引き裂くかのような、ダモクレスの剣、もしくは、ふいにかき曇り、撃つ雷かのような、自然学者、チャールズ・ダーウィン翁の二つの言葉をもう一つの警句として捧げ、自分への戒めともします。
「最も強い者が生き残るのではなく、最も賢い者が生き延びるのでもない。唯一生き残ることが出来るのは、変化できる者である」
「自然淘汰とは、有用でさえあれば、いかに小さな事であろうとも、保存されていくという原理である」
京セラとKDDIの創業者は、JALも再建し、今、最も注目される経営者であり、その稲盛さんが、京セラ社内のみに配布している社訓集「京セラフィロソフィー手帳」を自ら、ひもとき、読み解いている。どこの本屋でも平置きされていて、「生き方」に続くベストセラーになろう。
この本から想像される内部から見た京セラは共産主義のようだ。そのことからか、京セラは元祖ブラック企業との説もある。その昔、よくゴルフをしてもらった年上の友だちの友だちが京セラ系の企業に再就職したことがあって、思い出すに、その友だちの友だちからブラック企業に勤めているがゆえの疲弊感のようなものは感じられなかったけれど、明日、運動会なんだ、絶対参加なんだ、まー、こういうのもいいことなのかな、などと言っていた。京セラは社内行事は原則、全員参加なんだそうだ。やはり、「京セラ」ではなく、「共(産)セラ」のほうがしっくり来るかも。ぼく自身は、社内行事とかいやではなく、社内旅行とかバーべ―キューとか、おもしろがって、ほいほい参加するけどね。
稲盛和夫さん、春を過ぎ、今は夏の真っ盛りですね。けれど、すべては春夏秋冬をめぐるのです。この「京セラフィロソフィー」には希薄で、それを引き裂くかのような、ダモクレスの剣、もしくは、ふいにかき曇り、撃つ雷かのような、自然学者、チャールズ・ダーウィン翁の二つの言葉をもう一つの警句として捧げ、自分への戒めともします。
「最も強い者が生き残るのではなく、最も賢い者が生き延びるのでもない。唯一生き残ることが出来るのは、変化できる者である」
「自然淘汰とは、有用でさえあれば、いかに小さな事であろうとも、保存されていくという原理である」




東北学を提唱する民俗学者、赤坂憲雄さんの著した「ゴジラとナウシカ」が面白くて、一気に読んでしまった。全4章のうち、3章がゴジラ及び怪獣論でナウシカ論は最後の1章のみで、ナウシカ論は多分、序論となり、この先、継続して何かが書かれるように思えた。赤坂さんは先の東日本大震災が起きた後、初代の「ゴジラ」と「風の谷のナウシカ」ばかりを見て、感銘を受け、これらの文を書くこととなったらしいが、その出発点はぼくも昔、読んだことがあり、なるほどと思った川本三郎さんの有名なゴジラ論「ゴジラはなぜ「暗い」のか」であった。この本の出発点と思われる川本さんゴジラ論を引用しておきます。
「戦争で死んでいった者たちが、いまだに海の底で日本天皇制の呪縛の中にいる。ゴジラはついに皇居だけは破壊できない。これを「ゴジラ」の思想的不徹底と批判するものは、天皇制の「暗い」呪縛力を知らぬ者でしかないだろう」
赤坂さんは民俗学による想像力を翼にして飛び、三島由紀夫の短編「英霊の声」を接合し、大胆に歩みを進めていて、日本映画の他の怪獣たちにも言及し、面白かった。そして、「ナウシカ」へと続く。宮崎駿さんの作品の多くが柳田国男らの民俗学からかなり直接的に影響もされているらしい。思い浮かべれば「となりのトトロ」、「風の谷のナウシカ」、「もののけ姫」、「千と千尋の神隠し」など。昔、インタビューで宮崎さんは「千と千尋の神隠し」の前にヨーロッパ旅行をし、ヨーロッパの伝統の深さと奥行きにかなわない、とある種、観念し、それを乗り越えるために柳田国男ばかり読んでいた、と言っていたのを思い出した。赤坂さん、さらに書き継いで、論じてください。


親愛なるジョージくん、自ら銃を発砲し、その弾が敵にあたらないように願うのなんて、きみらしいけれど、兵士としてはどうかと思うよ。この本を読んで、ぼくは著者に、こんな手紙を書くたくなったのだけど、その本とはジョージ・オーウェルの著した「カタロニア賛歌」。「1984」を著したオーウェルがそれに先立つこと11年前の1939年に発表したスペイン市民戦争の従軍ルポルタージュ。「1984」にある全体主義のへの警鐘の種子のようなものすらここにはある。
1936年から1939年までスペインは反ファシズムの熱狂の中にあって、有名な小説家、もしくは後に小説を書く人としては、フランスのアンドレ・マルロー、アメリカのアーネスト・ヘミングウェイ、そしてイギリスのジョージ・オーウェルが兵士として、銃をとっている。ロバート・キャパやゲルダ・タローはカメラを武器に戦場に赴き、パブロ・ピカソは爆撃するフランコ軍への抗議として「ゲルニカ」を描いた。
パレスティナのガザへの爆撃のニュースを見るにつけ、この「カタロニア賛歌」が、21世紀にも向けた、何らかの強くて絶えることのないメッセージであるかのようだ。


講談社学術文庫版、夏目漱石の「私の個人主義」を読了した。「私の個人主義」以外に4つの講演も所収されていた。どれも漱石の早すぎる晩年に行われた講演で、確か、この「私の個人主義」は高校の教科書の載っていなかったかしら。そういえば、高校の教科書には大江健三郎の「ヒロシマ・ノート」が載っていたけれど、ある国語の教師は大江健三郎を好きではないと言っていたな。教科書には三島由紀夫の「不道徳教育講座」は載っていなかったな。ぼくは三島由紀夫も大江健三郎もおもしろく思い、両者とも好きなのだ。教科書には大江の「政治青年死す」と三島の「英霊の声」をとなりあわせに載せるというのはどうだろう。おもしろくないだろうか。世界にはいろんな見方があって、ものごとにはいろんな角度からの見え方がある。
さて、有名な漱石の「私の個人主義」に戻して、ぼくはこの講演記録を読んで、何か自分を励ましてくれるものを感じた。個人主義とはこんなものでもあるらしい。引用して漱石に感謝と尊敬の意を表します。
「もっと解りやすく云えば、党派心がなくって理非がある主義なのです。朋党を結び団隊を作って、権力や金力のために盲動しないという事なのです。それだからその裏面には人に知られない淋しさも潜んでいるのです。すでに党派でない以上、我は我の行くべき道を勝手に行くだけで、そうしてこれと同時に、他人の行くべき道を妨げないのだから、ある時ある場合には人間がばらばらにならなければなりません。そこが淋しいのです」
日露戦争の勝利に祝杯、喝采する日本にいて、夏目漱石は洞察し、こう言いはなったという。
「この国は滅ぶね」
その20年後、日本は敗戦した。暑い夏がやってまいりました。
さて、有名な漱石の「私の個人主義」に戻して、ぼくはこの講演記録を読んで、何か自分を励ましてくれるものを感じた。個人主義とはこんなものでもあるらしい。引用して漱石に感謝と尊敬の意を表します。
「もっと解りやすく云えば、党派心がなくって理非がある主義なのです。朋党を結び団隊を作って、権力や金力のために盲動しないという事なのです。それだからその裏面には人に知られない淋しさも潜んでいるのです。すでに党派でない以上、我は我の行くべき道を勝手に行くだけで、そうしてこれと同時に、他人の行くべき道を妨げないのだから、ある時ある場合には人間がばらばらにならなければなりません。そこが淋しいのです」
日露戦争の勝利に祝杯、喝采する日本にいて、夏目漱石は洞察し、こう言いはなったという。
「この国は滅ぶね」
その20年後、日本は敗戦した。暑い夏がやってまいりました。
