えいちゃん(さかい きよたか)

えいちゃんのぶろぐ

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増田寛也さんの著した「地方消滅」を読む。この本によると、今、日本は極点社会に向かっているらしい。極点社会とは何かといえば、それは、東京の人口の一極集中化がさらに進み、地方に住む人々がいあなくなり、地方が消滅し、集中化した東京、極点でも出生率が低迷し、女性が子どもを産まなくなり、人口が急激に減っていく、ということだそう。それは現在も進行中で、近い将来、896の自治体が消滅しかねなく、しかも、今、対策を立てても、効果の現われるのは60年先だという怖い話もある。

この本は極点社会を食い止めるための対策が論ぜられているのだけれど、確かに地方の小都市を旅したりすると、その静まりかえった夕方のシャッター街に震撼としたりするのを思い出す。それに、朝、奴隷船のような小田急線に乗って、都心に通勤に出かける時、本当に東京の一極集中の歪を身に染みて感じ、その終わりをひしひしと感じもするのです。急激な人口減はあっさりと医療や福祉の崩壊を招きかねず、あぁ、ぼくたちのこの社会はどうなってしまうんだろう。子どもたちのいなくなった公園や広場、学校を思い浮かべると、ひしひしと寂しくもあります。






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柄谷行人さんの編纂した柳田国男の文集「「小さきもの」の思想」を読了した。柳田国男というと「遠野物語」に代表される昔話の採取者というイメージが持たれてしまうのだけど、それにとどまらずに、明治、大正、昭和という時代をまたがって、経世済民を志し、近代によって無くされていく何か「小さきもの」に価値を見出し、日本の状況を「孤島苦」と喝破し、敗戦後は、日本人は社会を「死者ととともに」再建することを望んだ、最も偉大な思想家だったことが、柄谷行人さんの解題とともに読み進めていくと、よくわかります。柳田国男の思想の大きなあらましを知ることのできる入門編的な重い一冊でした。








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石牟礼道子さんの著した「あやとりの記」を読了した。工場が垂れ流した有機水銀で所謂、水俣病が発生するより前の美しい水俣のこれはスケッチのような小説で、その美しさゆえにゆっくり、ゆっくり読まずにはいられなかった。それらの美しい風景を日本は失ってしまったように感じられ、ものがあふれ、人が心をなくしていくようなこの病気のような近代というものが、本当に良いものだったのだろうか、と疑問にも思ってしまいます。あとがきに道子さんはこんなことも書いている。

「九州の南の方を舞台としていますが、高速道路に副う情けない都市のあそこここにも立って、彼岸を見つめ、"時間よ戻れ" と呪文を唱えたのです。
 どこもかしこもコンクリートで塗り固めた、近代建築の間や、谷間の跡などから、昔の時間が美しい水のように流れて来て、あのひとたちの世界が、現代の景色を透けさせながらあらわれました」

この本を読みながら、心の奥底で言葉というものの力によって、ぼくもその美しい水にふれたようなのです。こんな美しい言葉はありませぬ。






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この前、フォーク・シンガー、友川カズキをフランスの映像作家がとらまえた映画「花々の過失」を見た時に、買ってしまって、友川さんその人にサインまでしてもらった本「友川カズキ 独白録 生きてるって言ってみろ」がおもしろくて、一気に読んでしまった。

友川さんって、饒舌で、しかもどこか吃音、なまりありで、これは、胸にも腹にも刺さってきて、それが、なんだか泣きたいほどに気持ちいいブルーズなのよ。なるほどと勇気をもらったこの本の冒頭を引用しつつ、友川カズキという稀代の歌手、詩人、競輪愛好家、宴会師に絶大なる拍手と敬意を送り、あとは自分で買って読んでみてくださいと言ってしまおう。そして、それよりも、友川さんを知らない人は、友川さんの歌を生で、どこかのライブ・ハウスでぜひ聴いてみてくだい。

「私、ひとりでなければなんにもできないって思ってるんです。
 自分自身、変な人間だとは思ってますけどね。生活も性格も破綻寸前でなんとか踏みとどまってるに過ぎないんですが。結局、表現者の端くれとしては、「ひとりである」ということがすべての起点であり、基準であり、全部でもあるわけなんです。群れちゃダメだ、簡単に他人と肩を組んだり握手しちゃいけないってね。それだけは、今も昔も変わらない」






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大岡昇平の「野火」を読んだら、武田泰淳の「ひかりごけ」を再び読みたくなった。これを読んだのは十代のころで、何度か読み返している。初めて読んだ時は、意味とか今でもよくわからないのだけど、あんて奇怪な小説だろうと、驚愕した。何度目かの今、読むと、序破急の恐るべきラストが、何か救いのようにも感じられて、しーんと胸が静まりかえるような感動をおぼえた。

ところで、武田泰淳は愛する中国で戦時中に兵士として何を見て、何を経験したのだろうか。それは作家に胸に永遠にしまわれてしまった。









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友だちがこれ面白いよと言って貸してくれた大岡昇平の小説「野火」を読了した。

ぼくにこの本を貸してくれた友だちはこの小説を何度も何度も読み返したそうなのだけれど、なるほど、確かに、読み終えたなら、また始めから読み直してしまいたくなるのは、この本が発する重くて深い問いかけのためでもある。そして、その問いかけこそが、文学の神髄のようにも思え、この中編は世界にまさしく通用する文学であるとも思った。

しかも、最近の流行りの言葉で言うと、なんとも美しくブルリリアンなエクリチュールなのだろうか。そこで書かれ、語られているのは、戦争末期の日本の敗兵の想像を絶するかのような一人称の手記のようなもの。

ぼくは所謂、椎名麟三、武田泰淳、梅崎春生らの戦争経験者の戦後文学は、十代のころ、よく読んだものだったけれど、大岡昇平はぽっかりと抜けていたのを悔い、大岡の他の小説も読んでみたくなった。

そういえば、この大岡は中原中也の親友だったのだっけ。最近では右だの左だの騒がしくもある世の中でもあるらしいのだけれども、この大岡昇平って人は、それはそうだろう、この本に書かれているような戦争体験をすれば、何の組織にも依らず、本当に自由で反骨の人であるらしいのだ。

かっこいいなぁ。あこがれます。





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映画の「バンクーバーの朝日」を見て、テッド・Y・フルモトさんの著した「バンクーバー朝日」を読み、続けて、同じくテッド・Y・フルモトさんの著した「バンクーバー朝日軍」を読了した。

「バンクーバー朝日」が史実に近い小説だったのに比べ、この「バンクーバー朝日軍」はあくまでもフィクション性を遠ざけ、本当にあった事実としてのカナダの日系野球チームをあぶりだそうとしているかのようだ。この本を読んで、初めて、著者のテッド・Y・フルモトさんがバンクーバー朝日の往年のエースピッチャー、テディー・フルモトの息子であることも知った。

あぁ、しかし北アメリカのかの地では、野球をワークするものではなく、プレイするもの、働いて何かを得たりするものではなく、ただ遊ぶためのベース・ボールであるらしく、だから、あきもせずに、子どもたちと同じく、子どもの心をまだ残り持っている大人たちも夕闇が来て白い球が見えなくなるまで、日本人差別、民族差別、人種差別をものともせず、遊び続けられるのだ。すばらしいではないですか。

ぼくもへたくそだけど、ギターを持って遊びに出かけますよ。それは何と言ったらいいのか、命みたいなものなんだな。






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プロフィール
HN:
えいちゃん
性別:
男性
職業:
S.E.
趣味:
音楽
自己紹介:
音楽を演奏したり聴いたりするのが好きです。
歌ってしまいます。そしてギターも少々。
Sam CookeやOtis Reddingなど古いR&Bが好きです。
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