えいちゃん(さかい きよたか)
えいちゃんのぶろぐ
杉浦日向子さんとソ連(ソバ連)のみなさんが著し、編集した「ソバ屋で憩う」を読む。1997年に出された本で、当時の東京を中心とするそば屋案内とソバとソバ屋談義の本。この本に紹介されているソバ屋がまだ存続していることを願い、もしもあるとするならば、行って、食して、午後にお酒を飲みたい。そう、ソバ屋とは、杉浦日向子さんとソ連のみなさんによれば、ソバを食すところであるとともに、昼から酒を飲み、憩うところでもあるらしい。杉浦日向子さんがこの本で説かれている「ソバ屋の客のたしなみ」を心する。引用します。
「ソバの香りは繊細だ。ソバ屋では、きつく匂う話題は避けたい。なま臭い色恋の修羅話、うさん臭い商談、キナ臭い口論は、禁煙席より徹底して排すべきだ。
店に入ったら、つとめて自然体で背景に溶け込む。そこから、じわじわ憩いが醸し出される」
さて、憩いとは何だろうか? 「野麦 長野・松本 山野草のごとき清楚なたたずまい」の章で杉浦日向子さんはこうも述べられている。
「憩う、とは、のんべんだらりと時を過ごすことではない。余分なものをそぎおとして、素になるときこそが、憩いであろう。野麦で憩う。ソバが好きで、ほんとうに良かったと、必ず実感できるだろう」
なるほどですね。ソバ屋に憩いにいきましょう。
栩木伸明さんの著した「アイルランド紀行」を読了した。中世からの過去にさかのぼりながら、19世紀末のW.B.イェイツから始まり、21世紀初頭のU2までのさまざまな文化事象を、原文を日本語訳しながら読み解かれ、アイルランドという土地がたくさんの詩や詞、歌の豊かなゆりかごであったのを知りました。一つ一つの章が短く、どこかのアイルランドのパブに入り込み、黒いビールかウィスキーを飲みながら、誰かの小さなお話を聞くかのようです。そんな風に読み進んでいくと、小さなことどもの中に人の歴史やら今やらの真実は伝えられていくのかな、と思いました。おもしろかった。
去年の8月頃に神奈川近代文学館が佐野洋子展があって、見に行き、そこで買った本がまだ読んでいなくて、今頃、読んでしまった。この「わたしが妹だったとき」という佐野洋子さんの本は佐野洋子さんがちいさいころ、日本は戦争中で、満州国という名で今の中国の一部を統治していて、その北京という大きな町での少女時代の幼い兄との思い出を絵とともに綴ったもの。この本のカバーの表紙の裏にあった佐野洋子さん自身によるこの本の解説です。
わたしとお兄さんは、
だれよりも気の合う遊び仲間でした。
わたしに弟ができ、また弟ができ、また弟ができたのに、
わたしは、お兄さんとばかり遊んでいました。
お兄さんが、ある日、遠くへいってしまうまで―。
これは、わたしが妹だったときの、
お兄さんとわたしの話です。
佐野洋子さんの絵本の原型のようなものは、このようなところにあって、この生きられなかったお兄さんが名作「100万回生きたねこ」になるような気もしました。もう一つの隠れた名作だとも思いました。
河合隼雄さんの著しわしたものを河合隼雄さんの子息の河合俊雄さんが編纂した岩波現代文庫の「<心理療法>コレクション」の中の一冊「ユング心理学と仏教」を読む。「I ユングか仏教か」の章でなぜ、自分の心理療法の患者への治療を進めていくうちに、仏教の考え方へ近接すらしていったのか、その発端から始まり、「II 牧牛図と錬金術」では十牛図の物語に興味深い紐解きもなされ、その後、西洋から東洋、東洋から西洋へとその文化を照射しつつ、さらなる東洋の思想の深みに錘をおろすかのようなのだ。
「まえがき」でデイヴィッド・H・ローゼンさんが河合さんへ捧げている芭蕉の句です。
「此のあたり目に見ゆるものは皆涼し」
「IV 心理療法における個人的・非個人的関係」ではこう述べられる。
「人間関係を個人的な水準のみではなく、非個人的な水準にまでひろげて持つようになると、その底に流れている感情は、感情とさえ呼べないものではありますが、「かなしみ」というのが適切と感じられます」
この章はこう結ばれる。
「クライアントにそのような楽しい世界のよさを教えたりするよりよりも、心理療法を行うとき、私はかなしみの中心に自分を置こうと心がけている、と言えます。その場にずっといると、楽しい世界が自然にひらかれていきます」
河合さんは学者や文筆家であるよりもまず、悩み苦しむものを治療しようとする医師であったような気もするのです。そして、河合隼雄さんの「エピローグ」でのしめくくりの言葉としてあげられた作者不詳の西洋人の詩「1000の風」。
「『1000の風』
訳 南風椎
私の墓石の前に立って
涙を流さないでください。
私はそこにはいません。
眠ってなんかいません。
私は1000の風になって
吹きぬけています。
私はダイアモンドのように
雪の上で輝いています。
私は陽の光になって
熟した穀物にふりそそいでいます。
秋には
やさしい雨になります。
朝の静けさのなかで
あなたが目ざめるとき
私はすばやい流れとなって
駆けあがり
鳥たちを
空でくるくる舞わせています。
夜は星になり、
私は、そっと光っています。
どうか、その墓石の前で
泣かないでください。
私はそこにはいません。
私は死んでないのです。」
「まえがき」でデイヴィッド・H・ローゼンさんが河合さんへ捧げている芭蕉の句です。
「此のあたり目に見ゆるものは皆涼し」
「IV 心理療法における個人的・非個人的関係」ではこう述べられる。
「人間関係を個人的な水準のみではなく、非個人的な水準にまでひろげて持つようになると、その底に流れている感情は、感情とさえ呼べないものではありますが、「かなしみ」というのが適切と感じられます」
この章はこう結ばれる。
「クライアントにそのような楽しい世界のよさを教えたりするよりよりも、心理療法を行うとき、私はかなしみの中心に自分を置こうと心がけている、と言えます。その場にずっといると、楽しい世界が自然にひらかれていきます」
河合さんは学者や文筆家であるよりもまず、悩み苦しむものを治療しようとする医師であったような気もするのです。そして、河合隼雄さんの「エピローグ」でのしめくくりの言葉としてあげられた作者不詳の西洋人の詩「1000の風」。
「『1000の風』
訳 南風椎
私の墓石の前に立って
涙を流さないでください。
私はそこにはいません。
眠ってなんかいません。
私は1000の風になって
吹きぬけています。
私はダイアモンドのように
雪の上で輝いています。
私は陽の光になって
熟した穀物にふりそそいでいます。
秋には
やさしい雨になります。
朝の静けさのなかで
あなたが目ざめるとき
私はすばやい流れとなって
駆けあがり
鳥たちを
空でくるくる舞わせています。
夜は星になり、
私は、そっと光っています。
どうか、その墓石の前で
泣かないでください。
私はそこにはいません。
私は死んでないのです。」
「大江健三郎自選短篇」を読了した。デビュー作「奇妙な仕事」から1992年の「マルゴ公妃のかくしつきスカート」までさまざまな短篇を大江さん自身が新たに加筆修正をほどこしたもの。
「I 初期短篇」、「II 中期短篇」、「III 後期短篇」に分かれていて、時代につれて、文体が変化してきたことも判る。その中で、ぼくは異質なものを無理やり接合したような文体でもある「II 中期短篇」が一番おもしろかった。その「II 中期短篇」なのだけど、連載の抜粋がほとんで、読んでいくと、そのすべてを読んでしまいたくなる。「I 初期短篇」は戦後文学の時代潮流を受けとめ、椎名鱗三や梅崎春生の小説とどこか近しいものもあるように感じた。「III 後期短篇」の「火をめぐらす鳥」は枯れた澄み切ったふうで、小説家の年齢をかさねて変わっていき、それに合わせて小説の変わっていくのかと思った。
どの時代の作品にも、何か小さな啓明のようなものがあり、感動しました。とくにラストに収められた「火をめぐらす鳥」は美しくて深く、ずしんと感動しました。
「I 初期短篇」、「II 中期短篇」、「III 後期短篇」に分かれていて、時代につれて、文体が変化してきたことも判る。その中で、ぼくは異質なものを無理やり接合したような文体でもある「II 中期短篇」が一番おもしろかった。その「II 中期短篇」なのだけど、連載の抜粋がほとんで、読んでいくと、そのすべてを読んでしまいたくなる。「I 初期短篇」は戦後文学の時代潮流を受けとめ、椎名鱗三や梅崎春生の小説とどこか近しいものもあるように感じた。「III 後期短篇」の「火をめぐらす鳥」は枯れた澄み切ったふうで、小説家の年齢をかさねて変わっていき、それに合わせて小説の変わっていくのかと思った。
どの時代の作品にも、何か小さな啓明のようなものがあり、感動しました。とくにラストに収められた「火をめぐらす鳥」は美しくて深く、ずしんと感動しました。
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プロフィール
HN:
えいちゃん
性別:
男性
職業:
S.E.
趣味:
音楽
自己紹介:
音楽を演奏したり聴いたりするのが好きです。
歌ってしまいます。そしてギターも少々。
Sam CookeやOtis Reddingなど古いR&Bが好きです。
歌ってしまいます。そしてギターも少々。
Sam CookeやOtis Reddingなど古いR&Bが好きです。
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