えいちゃん(さかい きよたか)

えいちゃんのぶろぐ

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詩人である伊藤比呂美さんの著した「新訳 説教節」を読了する。「小栗判官」、「しんとく丸」、「山椒大夫」の三篇を今の日本人でも読みやすく訳しなおしたもの。説教節のあの語り物の調子を今の日本人の言葉で表現すべく、とても心のこもった訳で、おもしろく読みとおせました。そして、これらの神仏と人の物語を愛した数百年前の日本人の心って、なんて純情、純真なのだろうと感じました。そのような心がぼくの心にも、きみの心にもいつまでまでありますように、などと願いながら、この本を閉じました。





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近藤ようこさんの漫画「水鏡綺譚」を読む。

ワタルという狼に育てられ、母の顔も知らない男の子と、鏡子という記憶を失った女の子が中世の日本の諸国を不思議な事件に遭いながら旅をする物語。説教節かなんかを漫画にしたものかと思いきや、すべて近藤ようこさんの縦横無尽はいにしえの日本の知識から着想した創作であることにも驚いた。

物語のおもしろさ、その絵の美しさもるのだけど、それを超えた何かもこの漫画にはあって、読み進めるうちに、そこここで、心が清く洗われるようで、ぼくの涙腺は破れ、ぼくのまなこから涙が止まらなくなるのでした。





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R. D. レインの「結ぼれ」を読む。この本を読むこと、何度目かの挑戦なのだけど、やっぱり難しかった。頭がこんがらがってきます。

わからないながらも読み進めていくと、言葉というのは、人に何かを理解させ、人に自由をもたすのと同じく、その言葉が人を鎖でつなぎ、牢獄に人を閉じ込めているのかもしれない、と思う。

あぁ、「結ぼれ」とは、人と人とのほどけなくなったこんがらがりということらしいのだけど、ぼくは、いまだに、悲痛なさよならという言葉ではなく、心貧しくとも、いろんなところにあるその糸を少しづつでもいいから、ほどきたいとも思っているのです。どうしたらいいのでしょう? この本にあった白隠禅師の言葉を引用してみる。

「言葉というものは、あたかも月をさす指のようなもので、指のさす方向において、みずから月を見出さなくてはならないと同じく、言葉そのものは、真の事実ではない。ただその言葉によって真の事実を悟ることが肝要である」

そして、この本からのわからないような言葉に何か魅かれもするのです。

「門を通り抜けないうちは
門があることに気づかないのかもしれない
通り抜けるべき門があると思って
長いあいだそれを探しても
ついにそれを見つけださないのかもしれない
それを見つけだすかもしれない、しかも
それが開かないのかもしれない
それが開けばそれを通り抜けるのかもしれない
それを通り抜けるときに
人は悟る、自分が通り抜けた門とは
それを通り抜けた自己だった、ということを
だれひとりとして、門を通り抜けはしなかった
通り抜けようにも門などなかった
かつて、だれひとりとして、門を見いだしはしなかった
かつて、だれひとりとして、門などまったくないことを了解しはしなかった」






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R. D. レインの著した「好き? 好き? 大好き?」を読む。その昔、R. D. レインの「結ぼれ」は読んだことがあるのだけど、どんな内容かは忘れてしまっている。このイギリスの精神分析医の「引き裂かれた自己」という本は何かとても衝撃的な内容であった、と記憶している。

この「好き? 好き? 大好き?」、読んでいるとなぜか胸がどきどきしてしまっている自分に気づいた。10章からなる詩とも散文ともつかぬ文をゆっくりと読み進め、'TEN'とタイトルされたラストの章では目に熱いものがこみあげて来て、カフェで泣いてしまった。





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誰かにあげるか貸してしまって戻ってこない本があって、そんな本を、今、もう一度読みたいと思って、佐野洋子さんの著した絵本「100万回生きたねこ」を再び購入し読んでしまう。号泣してしまった。読んだことのない人、こんな絵本は知らないという人は、一度読んでみてください。ぼくはこの小さな絵と文の物語に何度、泣いたかわかりません。






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眠れないので仕方ないから読みかけの「武満徹エッセイ集-言葉の海へ」を読了してしまった。この高名な現代音楽の作曲家はなぜかぼくと趣味が似かよっていて、語られるのは、フェリーニの映画だったり、ヴェンダーズの映画、そう、あの「パリ・テキサス」だたり、グレン・グールドだったり、デューク・エリントンだったり、ビートルズだったり、もちろん、ジョン・ケージやメシアンの名前も出てくる。その中でも多く文が書かれているのは代表作「ノーヴェンヴァー・ステップ」とバリで武満が聴いたガムランやケチャについて。西洋と東洋の音楽の違い、とくに東洋の楽器の多くに見られるさわりについて。

なんか、ぼくとこの世界的な作曲家の趣味が似ている、感じ方が似ているのはどうしてだろうと思い、ジャズについて書いたこのような文章にぎくりとしてしまったのです。引用します。

「ジャズには黙示録的な欲望がありそれは人間的というよりはいっそう獣的であり、調和への願望は深く、ジャズ・メンはいつも傷ついている。そして悲劇的なのは、何故自分たちが傷ついているかに気づかないことだ」

ジャズ・メンとは誰のことだろう? チャーリー・パーカーやセロニアス・モンク、ジョン・コルトレーンでなくとも、ありとあらゆるところに、そうきみのそばにもジャズ・メンはいるし、きみやぼくがジャズ・メンなのかもしれない。

ぼくの大好きな「ダニー・ボーイ」を武満さんも好きだといい、こんなことも書いている。

「私は「ダニー・ボーイ」が好きだ。戦争によって、すでに二人の息子を失くした父親がのこされた最後の息子のためにうたった歌-

 いとしい ダニー・ボーイ
 戦いに出ても 戻ってきてくれ
 私が逝ったあとでも
 おまえは生きて 私の墓にもどってくれ

 これは真に孤独な感情であり、それだから訴える力をもつのだ。この歌は、個人的な感情から発しているがために、新しい連帯の可能性をもつのである」

ああ、親愛なる武満徹様、ぼくにあのたいせつなことを教えてはくれませんでしょうか? 秋の夜に未明が来つつあります。




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秋の夜は長いのです。眠れない夜に眠り薬として、聖書なんぞを読み始める。すると「雅歌」というのが旧約聖書の中にあって、それが目に入り、そこを読むと、ロビー・クリーガーが作詞したドアーズの歌("Light My Fire"や"Love Me Two Times"、"Yes, The River Knows"はロビーの作詞だということです)のようで、何か、感動してしまった。

あと、連想してしまったのは三島由紀夫の「潮騒」です。再読してみたくなりました。

おやすみZZZzzz.....

雅歌

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プロフィール
HN:
えいちゃん
性別:
男性
職業:
S.E.
趣味:
音楽
自己紹介:
音楽を演奏したり聴いたりするのが好きです。
歌ってしまいます。そしてギターも少々。
Sam CookeやOtis Reddingなど古いR&Bが好きです。
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