えいちゃん(さかい きよたか)
えいちゃんのぶろぐ



これにはぼく自身のことが書かれているのではないかと思い、精神科医であり作家でもある岡田尊司さんの著した「愛着障害 子ども時代を引きずる人々」を一気に読んでしまった。
ぼく自身について書かれていたかどうかはともかくとして、この本で取り上げられている愛着障害の面々は錚々たる顔ぶれで、ビル・クリントン、バラク・オバマ、川端康成、太宰治、夏目漱石、中原中也、種田山頭火、ミヒャエル・エンデ、アーネスト・ヘミングワイ、ジャン・ジュネ、マーガレット・ミッチェル、E・H・エリクソン、ジャン=ジャック・ルソー、チャールズ・チャップリン、スティーブ・ジョブス。
この本には取り上げられていないのだけれども、ジョン・レノンも多分そのような何らかの愛着障害で、同じく愛着障害であったけれども、アートの創作によって自己回復、自己治癒しつつある小野洋子に救われたのかもしれません。ジョン・レノンとヨーコ・オノの「ダブル・ファンタジー」はその回復と全治の記念碑的なアルバムのようでもあり、だからとても明るく感動的なんだ。
さてこの本にもどり、ジャン・ジュネはジャン=ポール・サルトルや無名のマイノリティーな人たちからの友情により、その友情が岡田尊司さんのいうところの「安全基地」となり、愛着障害を克服し、ついには小説を書かなくなり、もしくは書けなくなり、つかのまの平和が訪れる。本からの引用です。
「盗むことを自分のアイデンティティとしていたジャン・ジュネは、なぜ泥棒稼業から足を洗い、マイノリティのために戦う道に、彼の衝動を昇華することができたのか。二十年以上にもわたる常習的な窃盗癖を克服することは容易ではない。ジュネの天才を最初に見出したジャン・コクトーも、度重なる逮捕と入獄に、次第に愛想を尽かしていく。しかし、それでもジュネのことを見捨てない仲間もいた。彼らははラディカルな政治活動や同性愛者だったが、ジュネに振り回されながらも、彼のすべてを受け入れ、支え続けようとした。彼らが、ジュネの安全基地となっていたのである」
E・H・エリクソンのケースを書いたこんな文章にも感動しました。再び、引用します。
「愛着障害という根源的な苦悩を乗り越えた存在は、人を癒し、救う不思議な力をもっているのかもしれない。エリクソンの場合もそうだが、必ずしも、「克服した」という完了形である必要はない。克服の途上にあるがゆえに、いっそう救う力をもつということもあるのではないか。もっといえば、その人自身、自らの愛着の傷を癒すためにも、人を癒すことが必要なのだ。その過程を通じて、癒す側も癒される側も、愛着障害に打ち克っていけるのだ。なぜなら愛着障害とは、人が人をいたわり、世話をし、愛情をかけることにおける躓きだからだ」
さて、ぼくについてはどうなんでしょう? 読み進んでいって、ふと自分を振り返り、ぎくりとするような箇所がいくつもあったのです。


小川三夫さんが語り塩野米松さんが聞き書きした「棟梁 技を伝え、人を育てる」を読了しました。いいこと、ためになることがいっぱい書いてありました。
ぼくは、若いころ、なりたかった職業があって、ミュージシャンとか小説家、それから、古文書や古美術の修復師、そして、宮大工だったのです。もしかして、この本を読んで、宮大工には無理だったのかもしれませんが、何度も出てくる、見習いのころとかは特にそうだという、仕事にひたるということについては、自分がプログラマーをし始めたころを思い出しました。プログラマーし始めた二年間ぐらいは、物覚えが悪く要領の悪い人より劣っていたぼくは、寝ても覚めてもプログラミングのことが頭から離れず、いつもそのことばかり考えていました。本当ですよ。
人を育て技術を伝承するために小川三男さんが創設した寺社建築専門の建設会社「鵤工舎」が手がけた建築物が巻末にたくさん載っていますが、横浜にもあるもよう。弘明寺の修復を手がけているようです。今度、行って、散歩してこようかな。


河合隼雄さんの著した「深層意識への道」を読了した。今は亡き河合隼雄さんが、自分の人生を振り返りつつ、その時その時で、どんな本を読み、どんな感銘を受けたかを語ったものでした。こういう本を読むと、この本で紹介されている本のすべてが読みたくなるというこまったものでもあります。そいいえば、佐野洋子さんの絵本「100万回生きたねこ」などの生涯、忘れられない名作をぼくは河合隼雄さんの本から教わったようなのです。
臨床医、治療者としての苦しみや困難さもたくさん語られています。毎日毎日、自殺したい、誰かを殺したいといような人の話を聞くそうです。そんな中でコスモロジー(cosmology)とパフォーマンス(performance)ということが両軸として大切だということで、とてもか印象に残りました。コスモロジーとは自分もその世界に入ってそのなかの一人として全体を見るということだそうで、パフォーマンスとは自分がやらなくてはいけないということだそうです。他にも宝石のような発想が平易な言葉で述べられているのですが、この書のぼくの思う白眉の文章を引用させてください。
「たとえば誰かが来て、「ねぇ、あなた、私はこうしているのだけれど、あまり人の役に立たないし、死んだほうがましと思うわ」と言うのを、「うーん」と聴くのは大変ですよ。だいたいは、「そんなことないよ。あなたは役に立っているよ。しっかりやってね。じゃあ、さようなら!」とか言って、ものすごく励ましているように思うけど、要は「さよなら!」と言うてるんです。そのときに、さよなら言わずに、「死んだほうがまし」「あ、そう」と言っていたら、まだ続きます。そこをじっと一緒にいたら、その人が生きるほうに帰るのですが、帰ってくるあいだのリミナリティの世界に一緒に住んで時間を過ごすのは、ものすごいエネルギーのいる仕事です」
この文に出てくるリミナリティ(liminality)とは、人類学者ターナーの用語で、日常生活の規範から逸脱し,境界状態にある人間の不確定な状況をさす言葉だそうです。いつの間にか、ぼろぼろになっていたぼく自身もそこにはいる、もしくは、いたような気がして、しかも、この前、見て感動した映画「リップヴァンウィンクルの花嫁」ともぼくの中でシンクロしているように思え、これを読んで、少しだけ傷つくのが怖くなくなったような気がしました。
臨床医、治療者としての苦しみや困難さもたくさん語られています。毎日毎日、自殺したい、誰かを殺したいといような人の話を聞くそうです。そんな中でコスモロジー(cosmology)とパフォーマンス(performance)ということが両軸として大切だということで、とてもか印象に残りました。コスモロジーとは自分もその世界に入ってそのなかの一人として全体を見るということだそうで、パフォーマンスとは自分がやらなくてはいけないということだそうです。他にも宝石のような発想が平易な言葉で述べられているのですが、この書のぼくの思う白眉の文章を引用させてください。
「たとえば誰かが来て、「ねぇ、あなた、私はこうしているのだけれど、あまり人の役に立たないし、死んだほうがましと思うわ」と言うのを、「うーん」と聴くのは大変ですよ。だいたいは、「そんなことないよ。あなたは役に立っているよ。しっかりやってね。じゃあ、さようなら!」とか言って、ものすごく励ましているように思うけど、要は「さよなら!」と言うてるんです。そのときに、さよなら言わずに、「死んだほうがまし」「あ、そう」と言っていたら、まだ続きます。そこをじっと一緒にいたら、その人が生きるほうに帰るのですが、帰ってくるあいだのリミナリティの世界に一緒に住んで時間を過ごすのは、ものすごいエネルギーのいる仕事です」
この文に出てくるリミナリティ(liminality)とは、人類学者ターナーの用語で、日常生活の規範から逸脱し,境界状態にある人間の不確定な状況をさす言葉だそうです。いつの間にか、ぼろぼろになっていたぼく自身もそこにはいる、もしくは、いたような気がして、しかも、この前、見て感動した映画「リップヴァンウィンクルの花嫁」ともぼくの中でシンクロしているように思え、これを読んで、少しだけ傷つくのが怖くなくなったような気がしました。


「原発、いのち、日本人」を読みました。2012年に出版された原発周辺に関してのさまざまな議論についての浅田次郎さん、藤原新也さん、ピーター・バラカンさん、レーナ・リンダルさん、辻井喬さん、豊竹英大夫さん、野中ともよさん、想田和弘さん、谷川俊太郎さんへのインタビュー集でした。谷川俊太郎さんの言葉が一番、胸に響いて共感してしまいました。2011年の震災の時のあの原発事故でぼくの子どもの頃の夢が一つ失われてしまったのだと思うのは、谷川俊太郎さんのこんな言葉からでもあるよう。そして、ついさっきの熊本での地震でも原発は大丈夫なのかと危惧してしまう。「原発、いのち、日本人」から引用します。
「そんな生意気なこと言いませんけど、今、アトムとかウランちゃんがまた逆に攻撃されているわけでしょう。昔はあんなに人気があったのに、あの当時は、原子力っていうものは平和利用、すばらしいという時代だったからね」
そして、大詩人はこう続けるのです。
「この間ちょっと、もうちょっと年とったアトムを書こうと思ったんだけど、うまく書けなくてさ、今、アトムじゃないアンドロイドっていうのが出てきているし、もっと精巧なのがね。アトムはちょっとシンプル過ぎてだめなのかなみたいな感じ。あれ以上頭脳が進化しないのかもしれないっていう。今、アトムに「原子力、今もう、ちょっと問題なんだよ」って言っても、あの方、「そうですか」って言って何かにこにこ笑っていそうな」
このくだりになぜか感動して落涙しました。
「そんな生意気なこと言いませんけど、今、アトムとかウランちゃんがまた逆に攻撃されているわけでしょう。昔はあんなに人気があったのに、あの当時は、原子力っていうものは平和利用、すばらしいという時代だったからね」
そして、大詩人はこう続けるのです。
「この間ちょっと、もうちょっと年とったアトムを書こうと思ったんだけど、うまく書けなくてさ、今、アトムじゃないアンドロイドっていうのが出てきているし、もっと精巧なのがね。アトムはちょっとシンプル過ぎてだめなのかなみたいな感じ。あれ以上頭脳が進化しないのかもしれないっていう。今、アトムに「原子力、今もう、ちょっと問題なんだよ」って言っても、あの方、「そうですか」って言って何かにこにこ笑っていそうな」
このくだりになぜか感動して落涙しました。


デボラ・B・ローズさんの著した「生命の大地 アボリジニ文化とエコロジー」を読了する。オーストリア先住民の文化と生活について、その人たちの言葉や詩とともに敬意をもって書かれていた。
この本の中に頻繁に出てくる言葉が二つあって、それは「カントリー(country)」と「ドリーミング(dreaming)」。「カントリー」というのは「地」や「川」や「海」のことを多分、言っているのだと思うのだけど、「ドリーミング」とは何だろうか? ちょっと難しい。デボラさんが聞き語るアボリジニの知恵によれば、人も鳥も獣も虫も石もなにもかもが「ドリーミング」なのだそうだ。それは「夢見るもの」ということなのだろうか? するとこういうことなのかもしれない。人も鳥も獣も虫も石も魚も貝もクジラやイルカもなにもかもが地の上、川の中、海の中での夢見るものたちなのだと。とってもすてきです。その夢はとてもかけがえのない美しい夢なのではないかしら? ぼくもときどき同じ夢を見ています。


姜信子さんが文章を書き、アン・ビクトルさんが写真を写した「追放の高麗人(コリョサラム)天然の美と百年の記憶」を読了した。
1937年、ロシア極東の沿海州で暮らしていた朝鮮民族の人たちがスターリンが統治していたソビエト連邦により中央アジア、今のカザフスタンに強制移住させられたという史実があって、その人たちを追って、そして、その人たちの携えてきた日本ではサーカス小やチンドン屋さんのジンタの響きとしても有名な「天然の美」という音楽をめぐるルポルタージュに美しく深いアン・ビクトルの写真も載せられている。これはそのような民族の悲劇を追いながらも、幸せを求める希望やその強さも発見する物語でもあったよう。ぼくも、どんな時でも希望に向けて一歩を踏み出す、その強さを持った人でありたいと、今さらに思いました。
ソ連の崩壊後、カザフスタンでの排他的民族主義の高まりにより、今、その地、カザフスタンを後にする人たちも多いという。それでも、彼らは希望に向けて一歩、踏み出すことをやめない、したたかな強さの素晴らしさと生きることの美しさ、そのようなことをこの本により知りました。
