えいちゃん(さかい きよたか)

えいちゃんのぶろぐ

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杉浦日向子さんの著した、描いた「百物語」を読む。これ三十年ほど前に「小説新潮」に九十九回も連載された掌編の漫画集。怖い、恐ろしいというより、どこか懐かしいような怪しい小さな物語集で、もちろん、この本から流れてくる夏の夜の風に吹かれれば、そう、丑三つ時にでもなれば、江戸への門がぽっかりと開かているのです。






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石田千さんの著した「唄めぐり」を読了した。民謡を聴き求めて日本全国各地を旅した紀行文は、その日本語にしかないような文体のリズム感が、読んでいて、きっぷの良い歌が耳に届くかのようだった。まずこの文体に魅かれてしまい、そして、その日本を北から南、東から西へと旅している気分にもなり、日本っていいなぁ、とつくづく思い。各章に数枚、はさまれた口絵写真も楽しく、こんな幸せな風景と空気があったのかと、ぼくの頬はゆるんで、微笑んでしまう。

おしまいの章「音頭の渦 福島[あまちゃん音頭、新生相馬盆唄]」では、音頭が今ここで生まれるそれが綴られているのだけど、そこに出てくるミュージシャン、大友良英さんの言葉は民謡が歌われ踊られる音頭のもっとも深い真実をついているようにも思え、引用させていただきます。

「震災前から大変だったこともあるし、震災後から大変になったこともある。二年前まで、盆踊りって大嫌いだったんですよ。でも、いまこれだけやっていたら、もう嫌いとは言えないです。いったん踊りが始まると、だれも僕らのいる舞台をみてない。主人公は踊ってる人たちなんです。それが最高。また来年もやります」

日本の音頭の夏が今年もやってきますな。






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ついさっきの土曜日から日曜にかけて、「禅は、今ここ。」という本を読んだよ。1960年にカリフォルニアから全米に禅の精神を広めた曹洞宗の老師、鈴木俊隆さんが弟子のアメリカ人たちに言った言葉、その思い出を集めたとっても魅了的な本でした。

そう、1960年代のカリフォルニアのヒッピーやカウンター・カルチャーの深奥にはこの鈴木俊隆という一人の禅師がいたらしいのです。それで、ぼくは、こんなの読んだら、今日はいつだってどうにでもなるさと、安心してしまったのか、夏風邪をひいてしまった。先週は働きすぎだったな、と思うけれど、もう戻ってはこないのさ。いくつもの美しい言葉がこの本にはあるのだけど、ぼくの今の心に一等響いこんな挿話をたった一つだけ引いておやすみなさいZZZzzz.....

「接心の間に鈴木老師の独参がありました。私は迷い、人生の居場所を失っていると、感じていました。大いなる心(ビッグマインド)も、同じく闇に迷うのかどうか、私は老師に尋ねました。 老師はおっしゃいました。「いいえ、闇の中に迷わず、闇の中で働くのです」老師はそれを千手観音のようだと言って、手を動かし説明されました。その瞬間、千手観音をこの世に出現させたのです」







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あぁ、七夕の夜に村上春樹さんの訳したスコット・フィッツジェラルドの名作「グレート・ギャツビー」を読みおおせる。これは定められた偶然の慶賀ではなかろうか。今や、ゼルダとスコットはもう苦しむこともなく、空の高みでたおやかな永遠の逢瀬に幸せのため息をついているのでしょう。

ささの葉 さらさら のきばに ゆれる お星さま きらきら きん ぎん 砂子 五しきの たんざく わたしが かいた お星さま きらきら 空から 見てる

おやすみZZZzzz.....







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村上龍さんの「ラストワルツ」を一気に読了した。村上龍って偏見のない抜群の知性でありながら、欲望やらの力も認めているっていうか、そこらへんの両義的、多義的なところも好き。昔、村上龍さんが自分の小説を定義している文があって、それは「答え」や「解」ではなく、解けなかった、解けていない「疑問符」なのだといっていて、なるほどと思った。

それから、今回、このエッセイを読んでいて龍さんってハード・ボイルドだな、となんとなく思った。情緒を認めつつも、それを一旦、わきに置いておいて、観察しつづけるようなところが、かっこよく、しかも、ニヒリズムに陥るのを注意深く避け、考えつづける。これは、もしかしてハードボイルドではないだろうか。

さて、この本の題名ともなったエンゲルベルト・フンパーティングの「ラストワルツ」のムービーを紹介します。村上さんが今、書いている小説は「失われたもの」、「失われていて、もう二度と戻ってこないもの」、「失われているもの」なのだそうな。「限るなく透明に近いブルー」からいつの間に遠いところまで来たんだなー。ぼくはそれをノスタルジーなどと呼んでいるのだけど、みなさんもこれを見て、ためいきをついて、おやすみなさいZZZzzz.....



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映画の「あん」がとても良かったので、ドリアン助川さんの原作の小説「あん」も読んでみた。

後半、映画にはないエピソードも語られ、重たい話だけれども、読んで本当に良かった、明るい幸せの暖かい光に包まれたかのような読後感だった。一生に一度の素敵な出会いの素晴らしい小説でした。







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村上春樹さんの訳したレイモンド・チャンドラーの探偵小説「ロング・グッドバイ」を読了する。村上さんは清水俊二さんの同小説"The Long Goodbye"を訳した「長いお別れ」に敬意を表しつつも、訳として大胆に渇愛している部分を、原文の大胆な英語の文体を現代の日本語で再現しようと、この訳を完成させ上梓したということだ。といってもぼくは「長いお別れ」は未読なのだけど。

ところで、アメリカの映画を見ていて疑問だったことがあって、アメリカ人は普段からこんな粋な洒落た会話をしているのだろうかと思っていたのだけど、その原型みたいなものを、ぼくはチャンドラーの小説に見てしまった気がする。

それから、このロサンジェルスを舞台にした小説を読んでいると、ドアーズのアルバム"L.A. Woman"を聴きたくなったよ。ヨーロッパのパリだかローマだかマドリッドを中心にすると西の果てに乾いた楽園の地、カリフォルニアがあって、そこにフィリップ・マーロウという主人公とする探偵の世界が花開いている。巻末にある村上春樹さんによる訳者あとがき「準古典小説としての『ロング・グッドバイ』」が出色。その中からチャンドラーの小説の主人公に言及した文章を引用し、ハードボイルド小説をほめたたえます。かっこいいなぁ。

「彼らはそのような宿命的な巨大な力をまず黙して受容し、そのモーメントに呑まれ、振り回されながらも、その渦中で自らをまっとうに保つ方策を希求しようと努める。そのような状況の中で、彼らに対決すべき相手があるとすれば、それは自らの中に含まれる弱さであり、そこに設定された限界である。そのような闘いはおおむねひそやかであり、用いられる武器は個人的な美学であり、規範であり、徳義である。多くの場合、それが結局は負け戦におわるであろうことを知りながらも、彼等は背筋を真っすぐに伸ばし、敢えて弁明をすることなく、自らを誇るでもなく、ただ口を閉ざし、いくつかの煉獄を通り過ぎていく」






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プロフィール
HN:
えいちゃん
性別:
男性
職業:
S.E.
趣味:
音楽
自己紹介:
音楽を演奏したり聴いたりするのが好きです。
歌ってしまいます。そしてギターも少々。
Sam CookeやOtis Reddingなど古いR&Bが好きです。
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