えいちゃん(さかい きよたか)
えいちゃんのぶろぐ
ボブ・ディランがノーベル文学賞を受賞したこともあり、なんだか、ディラン関係の本を読みたくなって、「ローリング・サンダー航海日誌 ディランが街にやってきた」を本屋で買ってしまい。読み終えたところ。この本はディラン本人の著作ではなくて、アメリカの劇作家、サム・シェパードの著作なのです。1975年ごろ、その同時のお祭り騒ぎの全米ツアー、ディランがたくさんのいかれた仲間を引き連れて、見世物小屋の芸人になろうとした「ローリング・サンダー・レビュー」のサムによる随行記。
いくら、サムがディランに近づこうとして、ここでのディラン、サムの目から見たディランは台風の渦の中心の目の中であるかのように、静かな無風の空白であるかのようなのだ。ボブ・ディランとはなんて不思議な男なのだろう。何かをかたくなに信じることよりも、もしかして、それは、ありうるべき正しく美しい何かとは、どのようなものであるかを問いを発しながら、探しつづけているかのようなのだ。それは、もう一つのアメリカへの終わりのない旅であるかのよう。
この時、サムが即興で脚本を書こうとして書けなかった映画「レナルド&クララ」は評論家をはじめ、多くの人びとから酷評されるのだけど、サムにとっては、この経験が種となり糧となりヴィム・ヴェンダース監督の「パリ・テキサス」での脚本家の仕事の美しい果実となったのかもしれない。
ロード・ムービーならぬ、ロード・ブック、路上の本であるかのような一冊。ちりばめられた断片が詩の美しさとして、ときおり輝き始める。
この前、下北沢に用があり、出かけて、ちょっと時間があったので、ヴィレッジ。ヴァンガードに入ったのさ。アニメ映画「この世界の片隅に」がとてもヒットしている、その原作者のこうの史代さんコーナーがあって、読みたいと思っていた「夕凪の街 桜の国」があって即座に買い、読んでみたよ。この人の描く漫画って、いろんな小さな泡のような物語がいくつも細部に描きこまれ、眠っているかのようでもある。どうしてだろうと思い、カバーに書かれた略歴を読むと、こうのさんのもっとも好きな言葉が載っていて、それはフランスの小説家、アンドレ・ジッドが自らの小説を語ったものだそう。
「私はいつも真の栄誉をかくし持つ人間を書きたいと思っている」
英雄じゃなくてもきっといいんだよ。小さな小さな本当の歌が素敵なのさ。それはこうの史代さんの漫画に描かれた物語でもあるように思った。
もう一度、すずに会いたくなり、本を読みました。こうの史代さんの漫画「この世界の片隅に」を読んだのです。
映画の方も大ヒットしています。アニメ映画も漫画とほぼ同じストーリーなのですが、映画では漫画でのりんさんとのあるエピソードは描かれていないのですね。
あっ、そうだ、この映画は反戦の映画ではないというツイッターを見つけて、びくっりしてしまう。反戦だけの映画ではないのなら分かるのだけど、そういう人は例えば「第22回 19年12月」をどう読むのだろう?
高校の修学旅行で広島の原爆資料館を見学したことも思い出した。高校生のぼくはショックを受けていました。
日付順の漫画で描かれた日常の物語を読み進めるうちに、もしかして、多くの日本人にとって平和こそが深く内面化しているのではないかとも思いました。
この漫画は日記のようでもあり、戦争中の人たちと同じ時間を共有しているかのようにも感じられてしまう。そして、ラストでは泣いてしまった。世界は美しい。
三島由紀夫の「潮騒」を読んだ。何度目の「潮騒」だろうかと思う。三島由紀夫の小説を読み始めると、おもしろくて、止められなくなってしまう。この「潮騒」もほぼ一気に読めてしまった。「潮騒」は問題作ばかりの三島の小説の中で孤立した美しく清楚な絵画のようでもあるようだ。
ぼくは、三島由紀夫の小説ならほぼすべて読んでしまっているのだけど、お薦めはこの「潮騒」以外にも、「豊饒の海」、「近代能楽集」、「午後の曳航」、「英霊の聲」あたりだろか。
「金閣寺」をあげなかったのは水上勉の「金閣炎上」の重さによる。
「潮騒」はたくさん映画化されているけれど、この小説「潮騒」での三島の文章の美しさにはどの映画もかなわないと思う。
井上享さんの著した「忘れられた島々 「南洋群島」の現代史」を読了した。この本に書かれている南洋群島とはどこだろうか? この本が指し示す南洋群島とはサイパン島、グアム島周辺に広がるマリアナ諸島、パラオ諸島、西カロリン諸島、東カロリン諸島、トラック諸島、マーシャル諸島、ヤレート島の広大な地域を指し、その現代史とはドイツ、日本、アメリカ合衆国の占領の歴史でもあり、そこに、日本人が集団自決したサイパン島の地獄のような悲劇のスーサイドクリフやバンザイクリフが出てくるのだった。
日本が遥かな南の島国にしたことははとても悪かったけれど、驚くべきは、さらに悪いことを第二次世界大戦後のアメリカ合衆国がしたということは、この本の「第六章 水爆の海」に書かれている。
鳥からの視点からも書かれ、虫からの視点からも書かれた南洋のいわゆるミクロネシアの歴史の厳しい現実を知ることのできる良書です。
日本が遥かな南の島国にしたことははとても悪かったけれど、驚くべきは、さらに悪いことを第二次世界大戦後のアメリカ合衆国がしたということは、この本の「第六章 水爆の海」に書かれている。
鳥からの視点からも書かれ、虫からの視点からも書かれた南洋のいわゆるミクロネシアの歴史の厳しい現実を知ることのできる良書です。
柄谷行人さんの著した「憲法の無意識」を読んだ。哲学者イマヌエル・カントと精神分析医ジークムント・フロイトによって日本国憲法の九条を論じるというもの。カントもフロイトもドイツ人なんですね。どうしてだろう?
ちょっと難しい本だけど、「非現実的な」憲法九条について考えてみたい人は読んでみるといいかもしれません。難しくても明解でおもしろかったです。
この本に出てくる「自然の狡知」ってなんだろう? 「自然の隠微な計画」ということらしいのだが。
この本を読みながら、ふと、戦争と敗戦を知っている逝ってしまった多くの日本の文学者、小説家、三島由紀夫、渋澤龍彦、大岡昇平、安岡章太郎、安倍公房、谷崎潤一郎、梅崎春生、椎名麟三、埴生雄高、島尾敏雄、武田泰淳、北杜夫、石川淳、太宰治、そして、坂口安吾らに甦ってもらって、今の日本と日本国憲法を論じてもらいたいなどと思う。想像力、想像力です。
来る11月3日は憲法公布から70年目にあたるそうです。
ちょっと難しい本だけど、「非現実的な」憲法九条について考えてみたい人は読んでみるといいかもしれません。難しくても明解でおもしろかったです。
この本に出てくる「自然の狡知」ってなんだろう? 「自然の隠微な計画」ということらしいのだが。
この本を読みながら、ふと、戦争と敗戦を知っている逝ってしまった多くの日本の文学者、小説家、三島由紀夫、渋澤龍彦、大岡昇平、安岡章太郎、安倍公房、谷崎潤一郎、梅崎春生、椎名麟三、埴生雄高、島尾敏雄、武田泰淳、北杜夫、石川淳、太宰治、そして、坂口安吾らに甦ってもらって、今の日本と日本国憲法を論じてもらいたいなどと思う。想像力、想像力です。
来る11月3日は憲法公布から70年目にあたるそうです。
日本国憲法が公布されて今年で70年だそうです。1946年11月3日、日本国憲法が公布され、翌1947年5月3日に施行された。あー、そうかと思い小学館から出版されている「日本国憲法」を読んでみました。ティーンエイジャーのころ、社会科の公民か何かの授業で憲法のことが取り上げられ、ぼくは自分の国の憲法の前文をなんてかっこいいのだろうと思いました。今でもこの文をかっこいいと思い、ぼくは大好きなのです。引用します。
「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。
日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。
日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ」
小学館から出された「日本国憲法」を読んで、議論多き戦争の放棄を謳った九条のみならず、いくつかの条項が、日本の社会の戦後の歩みの中で反故されてきてしまっているのを知りました。今、日本の社会の中でこの日本国憲法を廃棄し新しい憲法を制定した方がよいという政治勢力が多数を占めていて、もしも、ぼくがその人たちと議論しても、21世紀になってもますます暴力のはびこる国際社会に日本もあり、その議論には勝てはしないでしょう。しかしながら、この日本国憲法をなくす時、日本人はすべてを失ってしまうだろうという予感はあります。史実がそうであったとしても、この日本国憲法はアメリカや日本の誰それが作ったものでもなく、むしろ、なにか大切な贈りもののようにしてやってきたのではないかしら?
「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。
日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。
日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ」
小学館から出された「日本国憲法」を読んで、議論多き戦争の放棄を謳った九条のみならず、いくつかの条項が、日本の社会の戦後の歩みの中で反故されてきてしまっているのを知りました。今、日本の社会の中でこの日本国憲法を廃棄し新しい憲法を制定した方がよいという政治勢力が多数を占めていて、もしも、ぼくがその人たちと議論しても、21世紀になってもますます暴力のはびこる国際社会に日本もあり、その議論には勝てはしないでしょう。しかしながら、この日本国憲法をなくす時、日本人はすべてを失ってしまうだろうという予感はあります。史実がそうであったとしても、この日本国憲法はアメリカや日本の誰それが作ったものでもなく、むしろ、なにか大切な贈りもののようにしてやってきたのではないかしら?
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HN:
えいちゃん
性別:
男性
職業:
S.E.
趣味:
音楽
自己紹介:
音楽を演奏したり聴いたりするのが好きです。
歌ってしまいます。そしてギターも少々。
Sam CookeやOtis Reddingなど古いR&Bが好きです。
歌ってしまいます。そしてギターも少々。
Sam CookeやOtis Reddingなど古いR&Bが好きです。
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