えいちゃん(さかい きよたか)
えいちゃんのぶろぐ

この前、見た坂本長利さんの芝居の「土佐源氏」がすごく良くて、原作の「土佐源氏」が所収されている民俗学者、宮本常一の「忘れられた日本人」を読みました。何度目かの再読です。
この本に載せられた「土佐源氏」は自伝的要素の濃い創作だなどともいわれてきたのだけれども、いつか、この「土佐源氏」について記した発表されなかった日記も見つかり、本当の聞き書きであったことも証明されたことは、カーテンコールの答えて、拍手の中を登場した坂本長利さんも言っておりました。
「忘れられた日本人」に書かれた戦前の日本人の男女の性の奔放さに、はにかみ屋のぼくは驚いてしまうのだった。民俗学という学問を起こした柳田国男はそのようなことは、ほとんど書いていないのになと思う。柳田国男は性については、何か抑圧していたのかもしれないな。
そして、宮本常一の「忘れられた日本人」に登場する人たち、男も女もなんと生き生きとしていることだろう。これは日本の風土に根ざしたブルーズだ。旅する民俗学者、宮本常一の歌うように唱えた聞き書きは常民学とも呼ばれたのだけれども、あるブルーズ・マンはぼくにブルーズはordinary(普通の、平凡な、ありきたりな)だから素晴らしいと教えてくれたことも思い出した。宮本常一は日本の古い村でたくさんのロバート・ジョンソンやライトニン・ホプキンスとも出会ったことだろう。
この本に載せられた「土佐源氏」は自伝的要素の濃い創作だなどともいわれてきたのだけれども、いつか、この「土佐源氏」について記した発表されなかった日記も見つかり、本当の聞き書きであったことも証明されたことは、カーテンコールの答えて、拍手の中を登場した坂本長利さんも言っておりました。
「忘れられた日本人」に書かれた戦前の日本人の男女の性の奔放さに、はにかみ屋のぼくは驚いてしまうのだった。民俗学という学問を起こした柳田国男はそのようなことは、ほとんど書いていないのになと思う。柳田国男は性については、何か抑圧していたのかもしれないな。
そして、宮本常一の「忘れられた日本人」に登場する人たち、男も女もなんと生き生きとしていることだろう。これは日本の風土に根ざしたブルーズだ。旅する民俗学者、宮本常一の歌うように唱えた聞き書きは常民学とも呼ばれたのだけれども、あるブルーズ・マンはぼくにブルーズはordinary(普通の、平凡な、ありきたりな)だから素晴らしいと教えてくれたことも思い出した。宮本常一は日本の古い村でたくさんのロバート・ジョンソンやライトニン・ホプキンスとも出会ったことだろう。


野坂昭如の「戦争童話集」を読了した。野坂さん、やさしすぎるよ。喫茶店や通勤電車の中で読んでるさいちゅう、うぇーんって泣き出しそうになってしまった。
そういえば、「おもちゃのチャチャチャ」って野坂さんの作詞なんだね。この歌もやさしいなぁ。
そういえば、「おもちゃのチャチャチャ」って野坂さんの作詞なんだね。この歌もやさしいなぁ。


風邪でうなされつつ、内田樹さんの著した「街場の天皇論」を読んだ。今は休刊となった「Sight」という雑誌があったころ、高橋源一郎さんと内田樹さんお対談がおもしろく、楽しみに読んでいたのを思い出す。ある号では二人は皇室こそもっとも強力な平和と民主主義を守護する勢力ではあるまいかと、論じていたのだけど、その論の様々なヴァリ―エーションが一冊の本になり、平成の終焉も近しくなり、上梓された。
多分、内田さんが、今、最も書きたかったのはこの本の終章「「日本的状況を見くびらない」ということ―あとがきにかえて」ではなかろう? ここにはとても怖いような彗眼があるように思われる。ぼくたちは死者たちの立ち上がる姿を何度も見てきたけれど、再びその姿に畏怖するのではなかろうか?
多分、内田さんが、今、最も書きたかったのはこの本の終章「「日本的状況を見くびらない」ということ―あとがきにかえて」ではなかろう? ここにはとても怖いような彗眼があるように思われる。ぼくたちは死者たちの立ち上がる姿を何度も見てきたけれど、再びその姿に畏怖するのではなかろうか?


「滝田ゆう展」を開催していた弥生美術館で売られていた松本品子さんの著した「滝田ゆう 昭和×東京下町セレナーデ」を読んだ。松本品子さんは弥生美術館のキュレーターで図録のようなこの本には美しい滝田ゆうの絵が多数、掲載されている。
年譜によれば滝田ゆうは一九九〇年、平成二年に御年五八歳で急折していたのであった。細かく描かれた絵を見ると、これでもか、これでもかと細かく描き足されたありし日の下町の風情に、命を削ってペンと筆を走らせていたのではないと思わせる。ジャンルは少し違うけれど、フランスの印象派から点描画を極限ま押し進めたジョルジュ・スーラの生涯がダブるな。
滝田ゆう、家庭では癇癪もちの良きお父さんであったそうです。唯一の気晴らしが街歩きとお酒。飲み仲間の嵐山孝三郎に飲み屋のカウンターに置かれたグラスを指し、滝田ゆうはこう言ってのぞきこんでいたという。
「ほら、コップ一杯の焼酎に虹が出ているよ」




野坂昭如の「アメリカひじき・火垂るの墓」を読了した。この新潮文庫、何度目かの「火垂るの墓」の再読なのだった。高畑勲監督のアニメーション映画「火垂るの墓」も何度か見ています。小説を読むことは、映画とはまた違った何かがあると思う。
この短い小説「火垂るの墓」は何か鎮魂のお経を読んでいるかのよう。ぼくにとって、同じような感慨を覚えた作品がもう一つあって、それは深沢七郎の「楢山節考」。この二つの小説は戦後文学の双璧の名作だと思う。二つの小説に共通するアナーキーは仏教に通じ、その自由には寂しさや悲しみがあるのではなかろうか?
野坂昭如の実体験からの小説なのだけど、しかし、戦争とそれがもたらすものって本当に嫌だなー。そして、この短編集に収められている他の小説もとてもおもしろかった。特に「死児を育てる」の戦争にまつわる悲しさは衝撃的。
野坂昭如ってかっこいい不良だなって思う。


