えいちゃん(さかい きよたか)
えいちゃんのぶろぐ

矢部宏冶さんの著した「日本はなぜ、「原発」と「基地」を止められないのか」を読む。この二つに関しては、なんか、どうしてだろうと、近頃いつも思っていたのだけど、この本からはその答えとなるだろうものを少なからずもらったような気がした。
最近、日本の社会のこととか考えると明日が漠然と暗く不安なのだよ。それに足して、ものごころついたころから、世の中、少しづつ悪くなっていって、そのあげくの果てが戦争前夜かもしれない今の日本だという気も大いにする。
これはある人の詠んだ琉歌だという。
「花ゆうしゅぎゆん
人知らぬ魂
戦ねいらぬ世ゆ
肝に願てぃ」
なんて、美しいのだろう。けれども、それよりも大切に思えることもあって、それは残されていく言葉すらも持ちえずに過ぎてしまったあなたたちの空に消えようとする言葉にもならない言葉なのです。
最近、日本の社会のこととか考えると明日が漠然と暗く不安なのだよ。それに足して、ものごころついたころから、世の中、少しづつ悪くなっていって、そのあげくの果てが戦争前夜かもしれない今の日本だという気も大いにする。
これはある人の詠んだ琉歌だという。
「花ゆうしゅぎゆん
人知らぬ魂
戦ねいらぬ世ゆ
肝に願てぃ」
なんて、美しいのだろう。けれども、それよりも大切に思えることもあって、それは残されていく言葉すらも持ちえずに過ぎてしまったあなたたちの空に消えようとする言葉にもならない言葉なのです。


小浜司さんの著した「島唄レコード百花繚乱 - 嘉手苅林昌とその時代」を読む。
大和が言の葉咲きあふ国ならば、沖縄って、唄咲きあふ国で、床の間に刀ではなく三線が飾られるところなんだなぁ。日本の南の島の唄の聖地は、アメリカでいえば、ニュー―オーリンズのようで、きっとアメリカ人が心とか魂をなくしそうになったなら、ニューオーリンズに行くのではないかしらと思い、そのようなところが日本にとって沖縄でもあるのかもしれないとも思う。
この本の二部構成は一部は「A面 島唄レコード名盤・珍版」で二部が「B面 スケッチ・嘉手苅林昌」と題し、特に興味をそそられて聴く、ならぬ読んだのは「B面」の方。沖縄民謡、俗謡を歌う嘉手苅林昌という偉大なブルーズ・マンの破格の人柄が小さなエピソードの積み重なりで描かれ、誠に興味深かったです。
さて、古酒をちびりちびりやりながら、林昌さんのブルーズの中にある自由に憧れて、「白雲節」、「海のちんぼらー」、「廃藩の侍」とか聴こうかな。
大和が言の葉咲きあふ国ならば、沖縄って、唄咲きあふ国で、床の間に刀ではなく三線が飾られるところなんだなぁ。日本の南の島の唄の聖地は、アメリカでいえば、ニュー―オーリンズのようで、きっとアメリカ人が心とか魂をなくしそうになったなら、ニューオーリンズに行くのではないかしらと思い、そのようなところが日本にとって沖縄でもあるのかもしれないとも思う。
この本の二部構成は一部は「A面 島唄レコード名盤・珍版」で二部が「B面 スケッチ・嘉手苅林昌」と題し、特に興味をそそられて聴く、ならぬ読んだのは「B面」の方。沖縄民謡、俗謡を歌う嘉手苅林昌という偉大なブルーズ・マンの破格の人柄が小さなエピソードの積み重なりで描かれ、誠に興味深かったです。
さて、古酒をちびりちびりやりながら、林昌さんのブルーズの中にある自由に憧れて、「白雲節」、「海のちんぼらー」、「廃藩の侍」とか聴こうかな。


物語には二つの型があると聞いたことがあるのでけど、一つはとても有名な「起承転結」で、もう一つは「序破急」。ハンガリーの現代作家、アゴタ・クリストフの「ふたりの証拠」は「悪童日記」に続いての二作目で序破急の破にあたるもの。
「悪童日記」の簡潔で乾いた独特の装飾のない文体はそのままに、語りは一人称から三人称になり、「悪童日記」が掌ほどの短い日記のような数ページを無数に集めたような小説だったのから変わり、「ふたりの証拠」では八つの短編の集りかのようで、三人称のその文体から、ぼくは、ヘミングウェイを超え、初期の丸山健二の研ぎ澄まされた文体を思い出したもした。
書かれている内容は、あの中上健次の最も豊饒であった「岬」から「地の果て至上の時」のあたりの小説をぼくに思い出させ、それは重く深く、昔、十代のころ、中上健次の小説を読んで、今の日本にこんなところ、まさしく土地、中上曰く「路地」があるのかしら、などと思ったことを思い出した。アゴタ・クリストフの小説からもヨーロッパにこんなところがかつてあったのだろうかと訝しく思ってしまうのだけれど、そこはヨーロッパの真ん中の平原に出没したすべてを飲み込んだこともある穴のようなハンガリーという土地のようなのだった。
この「ふたりの証拠」では所謂東側、ソビエト連邦の衛星国のようになってしっまいながら、ハンガリーのコミュニティーが少しづつ朽ちていく、そんな状況も描いているのだけど、ハンガリーの人々はそれでもすべてを手放しはしなかったのだとも、思う。抑圧されたソビエト社会主義、その昔、スターリンが作ったそれの内側からのレポートとしても読めもし、それはあくまでも内側からの日常のレポートに徹し、その崩壊の糸口となったハンガリー動乱には触れていないのだけれど。
ひさびさに文学に触れたという気がした「悪童日記」と「ふたりの証拠」に続き、完結となる三作目「第三の嘘」も読むぞ。


この前、映画を見たその原作本、アゴタ・クリストフの著した「悪童日記」を読んだ。映画では表されていないエピソードもいくちかはあるが、話の筋は映画と同じ。
ぼくはこの本の中の双子の兄弟を、とうてい怪物だとか、恐ろしいとかとは思えなかった。この双子の心の奥に、何か穢れていない何かを感じてしまい、アゴタ・クリストが表したかったものは、東ヨーロッパのある近い昔日の現実とともに、その穢れていない何かではなかったのか。その二人の少年の何かに較べて見れば、僧侶や大人たちの祈りすら、汚濁の中にあるように感じられた。そんなことを考えられる読了後は、この本の題が「悪童日記」ではなく原題である「大きなノート」の方がしっくりくるように思われた。
稀代の読書家でもあったらしいアゴタ・クリストフは三島由紀夫の「午後の曳航」を読んだことがあったのかしら。東と西や時代やらの差異を超えて、「悪童日記」と「午後の曳航」は隠されて内包されているテーマに同じような何かがあるように思われた。その同じような何かとは、ぼくが感じたこの小説の題が「悪童日記」よりも「大きなノート」こそふさわしかろうという、その理由とするところと同じこと。
これは三部作の一部目であるという。さて、二部の「ふたりの証拠」も続けて読んでみることにしよう。
ぼくはこの本の中の双子の兄弟を、とうてい怪物だとか、恐ろしいとかとは思えなかった。この双子の心の奥に、何か穢れていない何かを感じてしまい、アゴタ・クリストが表したかったものは、東ヨーロッパのある近い昔日の現実とともに、その穢れていない何かではなかったのか。その二人の少年の何かに較べて見れば、僧侶や大人たちの祈りすら、汚濁の中にあるように感じられた。そんなことを考えられる読了後は、この本の題が「悪童日記」ではなく原題である「大きなノート」の方がしっくりくるように思われた。
稀代の読書家でもあったらしいアゴタ・クリストフは三島由紀夫の「午後の曳航」を読んだことがあったのかしら。東と西や時代やらの差異を超えて、「悪童日記」と「午後の曳航」は隠されて内包されているテーマに同じような何かがあるように思われた。その同じような何かとは、ぼくが感じたこの小説の題が「悪童日記」よりも「大きなノート」こそふさわしかろうという、その理由とするところと同じこと。
これは三部作の一部目であるという。さて、二部の「ふたりの証拠」も続けて読んでみることにしよう。


いつものように近所のイーオンの中の本屋にぶらりと入ると「どんな問題でも「チーム」で解決するANAの口ぐせ」という本がいっぱい平積みされていて、手にして数ページ読んだら、とてもおもしろそうで、買ってしまった。それには、もう一つの理由もあって、それは、前に努めていた会社でよく帰りに居酒屋とか、行っていた友だちがANAに転職していたこともあるのです。よくあの横浜のとても大きな企業とは言えない印刷会社から入れたものだと思うと同じく、なんだか野武士のような自由な怪人物ならぬ快人物(?)がその印刷会社にはそろっていたのだけれど。
さて、そのANAという会社、この本を読んで、本当にいい会社だと思ってしまう。その秘密は、この会社に面々と流れている性善説、人はもともと善なるものだというような考え方だと気が付いた。この手の本は滅多に読まないのだけど、仕事やビジネスのノウハウ本の越えてそんなものも感じてしまうのだった。本の一番最後の章に出てくる、沖縄空港支店で始まったらしい「グッバイ・ウェーブ」の話など、うるっときてしまったよ。
ANAの青い血か、なるほど。ANAの社員には青い血が流れていると言われ、ANAの青い血が流れ始めたらしい、ぼくの友だちと、航空機のバッテリーか何かの事故が続いていたころ、居酒屋で会って話したことがある。ぼくは、あまえのところの会社の経営、なんか、最近、飛行機の故障とかが続いていて大丈夫なのかと聞くと、その友だちは、うちよりボーイングさんの方が心配ですよ、などとと言っていたのを思い出す。そのおごらない気遣いとおかげ様精神に感服し、すばらしいと密かに思ったものです。
さて、そのANAという会社、この本を読んで、本当にいい会社だと思ってしまう。その秘密は、この会社に面々と流れている性善説、人はもともと善なるものだというような考え方だと気が付いた。この手の本は滅多に読まないのだけど、仕事やビジネスのノウハウ本の越えてそんなものも感じてしまうのだった。本の一番最後の章に出てくる、沖縄空港支店で始まったらしい「グッバイ・ウェーブ」の話など、うるっときてしまったよ。
ANAの青い血か、なるほど。ANAの社員には青い血が流れていると言われ、ANAの青い血が流れ始めたらしい、ぼくの友だちと、航空機のバッテリーか何かの事故が続いていたころ、居酒屋で会って話したことがある。ぼくは、あまえのところの会社の経営、なんか、最近、飛行機の故障とかが続いていて大丈夫なのかと聞くと、その友だちは、うちよりボーイングさんの方が心配ですよ、などとと言っていたのを思い出す。そのおごらない気遣いとおかげ様精神に感服し、すばらしいと密かに思ったものです。


ジョージ・オーウェルの「一九八四年」に続いて、もう一冊のユートピアならぬディストピアもののSF小説としてレイ・ブラッドベリの「華氏451度」を読了した。どのような小説かは扉の言葉に詩的に表現されていもする。
「華氏四五一度―この温度で書物の紙は引火し、そして燃える」
これは近い未来にすべての書物が読むことを禁止され、それが見つかれば、消防士ならぬ昇火士によって本は燃やされ、もしも、それを拒めば、命すら奪われてしまう、そんな世界の物語なのです。
想像してみてください。三島由紀夫も大江健三郎も深沢七郎も谷崎潤一郎も中上健次もヘミングウェイもヘルマン・ヘッセもハーマイン・メルヴィルもエミリー・ブロンテもアルチュール・ランボーもルイ・フェルディナン・セリーヌもニーチェやフロイトやユング、レビ・ストローフ、アーサー・C・クラーク、スティーブン・キング、そして、もちろんレイ・ブラッドベリ、あぁ、あげていけば、きりがないのだけど、それらのない世界なのです。本好きのぼくとしては恐ろしいというか、何かを読んで感じることを禁じられる世界のおぞましさよ。
そいいえば、焚書といえば、ナチスのドイツ学生連合会が非ドイツ的と決めつけ、フロイト、ケストナー、ハイネ、マルクスなど二万冊を広場で焼いて灰にしたと、この「華氏451度」の解説にもあったが、それを忘れないための図書館「本のない図書館」がベルリンにあるというのだが、その図書館の小さな石碑にハイネのこんな言葉が刻まれているそうだ。
「これは序幕の出来事に過ぎなかった。書物が焼かれるところでは、最後には人間までもが焼かれるのだ」
加えて、18世紀のフランスの啓蒙思想家、ヴォルテールの言葉にこんなものもある。
「私はあなたの意見には反対だ、だがあなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」
さて、「華氏451度」に戻れば、訳者、伊藤典夫さんの力量よるところも大きいとは思うのだけど、この本の中の文は、韻を踏まない詩のように美しく、かっこいい。物語は支離滅裂の一歩手前のようなところもあるのだけど、かすかな希望を感じさせるファイナルもあって、「一九八四年」と同じく傑作だと思った。
そして、もちろん、自由に考えたり、自由に感じたり、自由に想像することって大切なことだと思います。


ハヤカワepi文庫の高橋和久さんが新たに訳したジョージ・オーウェルの「一九八四年」を読了した。新しい訳に読みやすい日本語になっているそうですが、巻末に付けられたトマス・ピンチョンの解説もおもしろい。オーウェルについてピンチョンは、オーウェルは自分が"反体制的左派"の一員であると考えていた、これは基本的に英国の労働党を意味するとし、この「一九八四年」の解説で端的に鋭いことを書いている。ぼくがなるほどと思った文章を引用してみます。
「労働党とスターリン政権下の共産党との間に類似性が見いだせることを多少とも意識していたのである。彼にとっては、どちらも労働者階級のために資本主義と闘う運動を装いながら、現実には、自己の権力の確立と永続化に腐心しているに過ぎなかった。大衆は、その理想主義、階級格差に対する怒り、そして低賃金を厭わない労働意欲につけこまれ、ただ利用されるためだけに存在し、繰り返し何度も裏切られるのだ」
自由の国、アメリカに存する謎めいたもっとも代表的な現代の小説家の言うことは正鵠を得ているような気もするのだった。しかも、これは左派の政治組織に限らず、あらゆる組織に今や瀰漫していはしないだろうか。
この小説の本国であるイギリスでは「一九八四年」はもっとも有名で読まれない小説であるとも言われているらしい。けれども、オーウェルの自由とヒューマニティを失わない何らかの左派精神のようなものはジャンルを超え、映画監督で言えばケン・ローチ、ロック・ミュージシャンで言えば、そのものずばり"1984"というアルバムもあるデヴィッド・ボウイ、そして、ション・レノンやジョー・ストラマー、モリッシーらに広範に受け継がれているのではなかろうか。
「一九八四年」は第二次世界大戦終結後の1948年の早きに書かれていて、その小説家の想像力の横溢がリアルを追いかけるさまに驚いてしまう。わけのわからない支離滅裂に崩壊した宇宙、偉大なる失敗作なのだと思った。
「労働党とスターリン政権下の共産党との間に類似性が見いだせることを多少とも意識していたのである。彼にとっては、どちらも労働者階級のために資本主義と闘う運動を装いながら、現実には、自己の権力の確立と永続化に腐心しているに過ぎなかった。大衆は、その理想主義、階級格差に対する怒り、そして低賃金を厭わない労働意欲につけこまれ、ただ利用されるためだけに存在し、繰り返し何度も裏切られるのだ」
自由の国、アメリカに存する謎めいたもっとも代表的な現代の小説家の言うことは正鵠を得ているような気もするのだった。しかも、これは左派の政治組織に限らず、あらゆる組織に今や瀰漫していはしないだろうか。
この小説の本国であるイギリスでは「一九八四年」はもっとも有名で読まれない小説であるとも言われているらしい。けれども、オーウェルの自由とヒューマニティを失わない何らかの左派精神のようなものはジャンルを超え、映画監督で言えばケン・ローチ、ロック・ミュージシャンで言えば、そのものずばり"1984"というアルバムもあるデヴィッド・ボウイ、そして、ション・レノンやジョー・ストラマー、モリッシーらに広範に受け継がれているのではなかろうか。
「一九八四年」は第二次世界大戦終結後の1948年の早きに書かれていて、その小説家の想像力の横溢がリアルを追いかけるさまに驚いてしまう。わけのわからない支離滅裂に崩壊した宇宙、偉大なる失敗作なのだと思った。


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プロフィール
HN:
えいちゃん
性別:
男性
職業:
S.E.
趣味:
音楽
自己紹介:
音楽を演奏したり聴いたりするのが好きです。
歌ってしまいます。そしてギターも少々。
Sam CookeやOtis Reddingなど古いR&Bが好きです。
歌ってしまいます。そしてギターも少々。
Sam CookeやOtis Reddingなど古いR&Bが好きです。


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