えいちゃん(さかい きよたか)
えいちゃんのぶろぐ
このまえ見た映画「ライフ・オブ・パイ」の原作であるヤン・マーテル著「パイの物語」を読了した。メルヴィルの「白鯨」という小説を思い出した。「パイの物語」も「白鯨」も海洋の物語で百科全書的だと思ったのです。「白鯨」は鯨捕りについてのありとあらゆることが書いてあるとするならば、「パイの物語」は漂流ということについてのありとあらゆることが書かれているような気がした。しかも、一頭のリチャード・パーカーと名づけられたベンガル虎と漂流するのです。そして、謎を残す読後感に、記憶ということは、あったことも、本当はなかったことも、等しく人の人生にとっての真実なのかもしれない、と思い、目眩のようなものも、ぼくは感じたのです。いつか、パイはあのリチャード・パーカーに再びまみえる時が来るような小さな予感を残して本をとじた。
経済小説の大家の小説家、城山三郎の異色作「辛酸 田中正造と足尾鉱毒事件」を読む。あたかも、明治時代の終りのころに起こった足尾鉱山の鉱毒事件の栃木の谷中村の被害民の霊が城山さんの筆のりうつったかのようなな鬼気迫る小説であった。今は無き谷中村の人たちのために尽くした田中正造の最期の数年間と田中亡きその後の数年間を描いているのだけど、物語は何の光明も解決も見いだせずに、唐突に終焉し、ぼくは戦慄した。不正をはたらく天下国家に挑み戦うことのみが、その悲惨さを射止める光の矢であるかのようだ。
このような事件は時を越え、忘れたころに蘇ったかのように昭和にもあったし、さらに、今でも、と思う。水俣病の被害民を聞き書きした「苦海浄土」を著した石牟礼道子さんは尊敬する人として田中正造をあげていたことを思い出した。今を生きるぼくは、怖がってばかりもいられない。彼らの千分の一、もしくは万分の一としてでも、ぽつねんと声をあげます。
田中翁の短歌を一つ、
「少しだも 人のいのちに 害ありて 少しくらいは よいと云ふなよ」
このような事件は時を越え、忘れたころに蘇ったかのように昭和にもあったし、さらに、今でも、と思う。水俣病の被害民を聞き書きした「苦海浄土」を著した石牟礼道子さんは尊敬する人として田中正造をあげていたことを思い出した。今を生きるぼくは、怖がってばかりもいられない。彼らの千分の一、もしくは万分の一としてでも、ぽつねんと声をあげます。
田中翁の短歌を一つ、
「少しだも 人のいのちに 害ありて 少しくらいは よいと云ふなよ」
「紅の巻」につづき、読んだ秋山真志さんの著した「職業外伝 白の巻」です。「白の巻」で紹介される職業は、イタコ、映画看板絵師、宮内庁式部職鵜匠、荻江流二代目家元、琵琶盲僧、蝋人形師、チンドン屋、流しの職業に就かれた八人の方々。目次を見るだけでわくわくしてしまいます。おもしろかった。チンドン屋、いまでも、健在なんですね。イタコはめっきり数が少なくなったそうだけど、沖縄のユタはどうなんだろう。
昔、ぼくもこの本が紹介するような職業に興味を惹かれたことがあって、一つはNHKのテレビで見た宮内庁での古文書やら古美術を修復する仕事、もう1つは宮大工。そんな仕事をする自分もあったろうに、その選択はしなかったのでした。好きなことを仕事をするのも、仕事にしてしまたことが好きで好きでたまらなくなるのも、最高なことだ。
あー、今日は成人式、みんな、これから素敵なことが待っているよ、いいじゃないですか。
飴細工師、俗曲師、銭湯絵師、へび屋、街頭紙芝居師、野州麻紙紙漉人、幇間、彫師、能装束師、席亭、見世物師、真剣師、日本にはいろんな職業があるものだ。秋山真志さん著した「職業外伝 紅の巻」を読んだのです。とてもおもしろかった。あぁ、あさっては成人の日ではないか。これから何かの職業に就こうという人も、リストラなどという変なカタカナで最近では呼ばれている解雇にあった人たちにも、この本はお薦めです。仕事観、職業観が広がり、さらには、生活、生活から紡がれる人生っていろいろあっていいんだなぁ、楽しいなぁ、と思いました。この本に出てきた彫刻家の平櫛田中の言葉をはたちになるみなさんの門出のはなむけに送りたい、とも思います。
「今日もお仕事、おまんまうまいよ、びんぼうごくらく、ながいきするよ」
レヴィ=ストロースの「悲しき熱帯」を読了したけれど、なんだかとっても難しかった。終章あたりでイスラム教への苛烈な批判と仏教の繰り返して尽きない称揚はこの文化人類学者らしからぬ、と思ってしまった。ぼくは仏教的な何かは好きなのだけど、何か違和を感じてしまった。
仏教といえば、ぼくは禅の十牛図が好きです。論理や修辞を越えた何がかあるような気がするのです。ぼくにとって大きな哲学は過ぎ去ろうとしているのかもしれない。
レヴィ=ストロースのこの「悲しき熱帯」でのイスラム教批判は彼のユダヤ人という出自と関係しているのだろうか、と不謹慎なことを考えてしまった。すみません。出自に安住せずに絶えず問い続けることこそ、彼の思想の初めの立ち位置なのだ、とも思い、なくなっていく言葉と人たちを祈りのように見つめるときもある。そこが好きです。いつか、この難しい本を再読してみたい。
仏教といえば、ぼくは禅の十牛図が好きです。論理や修辞を越えた何がかあるような気がするのです。ぼくにとって大きな哲学は過ぎ去ろうとしているのかもしれない。
レヴィ=ストロースのこの「悲しき熱帯」でのイスラム教批判は彼のユダヤ人という出自と関係しているのだろうか、と不謹慎なことを考えてしまった。すみません。出自に安住せずに絶えず問い続けることこそ、彼の思想の初めの立ち位置なのだ、とも思い、なくなっていく言葉と人たちを祈りのように見つめるときもある。そこが好きです。いつか、この難しい本を再読してみたい。
内田樹さんの著した「寝ながら学べる構造主義」という本を読みました。レヴィ=ストロースの「悲しき熱帯」が難しくて、なかなか読み進められなかったもので、その解説本のような本に手を出してしまったのだけど、さすが内田樹さんの著作、一気におもしろく読めてしまった。
構造主義という哲学には3人の源流があるらしい。その源流とは経済学者マルクスと精神分析医のフロイトともとは文献学者であったニーチェ。それを受け継いだのが言語学者のソシュール。それらの思潮がフーコー、バルト、レヴィ=ストロース、ラカンに続いていく。
どういう考え方なのかというと、ぼくたちは当たり前の前提としてあるものも疑わなくてはならないけれど、それに気づくことも難しい、というようなことだろうか。例えばの端初として、虹が七色に見えるという人たちもいて、虹が二十色に見えるという人もいて、言葉と思考は牢獄のようなものかもしれない、などと思う。それに気づくとはどういうことなのだろうか、ということのヒントが、例えば、レヴィ=ストロースのこの言葉を何度も、ゆっくりと読むと、少しはわかる気がするのです。
「彼らのうちであれ、私たちのうちであれ、人間性のすべては、人間の取りうるさまざまな歴史的あるいは地理的な存在様態のうちのただ一つのもののうちに集約されていると信じ込むためには、かなりの自己中心性と愚鈍さが必要であるだろう。私は曇りない目でものを見ているという手前勝手な前提から出発するものは、もはやそこから踏み出すことはできない。」
この言葉は、サルトルの実存主義を終焉させ、教化する宣教師たちの役割を終わらせたのかもしれないけれど、レヴィ=ストロース自身にも鋭い刃を向けているのに違いない。そして、ぼくたちだれもが、未開と呼ばれようがそう呼ばれなくても、西洋であれ東洋であれ、「悲しき熱帯」を生きているのかもしれない、と想起させてくれもする。
構造主義という哲学には3人の源流があるらしい。その源流とは経済学者マルクスと精神分析医のフロイトともとは文献学者であったニーチェ。それを受け継いだのが言語学者のソシュール。それらの思潮がフーコー、バルト、レヴィ=ストロース、ラカンに続いていく。
どういう考え方なのかというと、ぼくたちは当たり前の前提としてあるものも疑わなくてはならないけれど、それに気づくことも難しい、というようなことだろうか。例えばの端初として、虹が七色に見えるという人たちもいて、虹が二十色に見えるという人もいて、言葉と思考は牢獄のようなものかもしれない、などと思う。それに気づくとはどういうことなのだろうか、ということのヒントが、例えば、レヴィ=ストロースのこの言葉を何度も、ゆっくりと読むと、少しはわかる気がするのです。
「彼らのうちであれ、私たちのうちであれ、人間性のすべては、人間の取りうるさまざまな歴史的あるいは地理的な存在様態のうちのただ一つのもののうちに集約されていると信じ込むためには、かなりの自己中心性と愚鈍さが必要であるだろう。私は曇りない目でものを見ているという手前勝手な前提から出発するものは、もはやそこから踏み出すことはできない。」
この言葉は、サルトルの実存主義を終焉させ、教化する宣教師たちの役割を終わらせたのかもしれないけれど、レヴィ=ストロース自身にも鋭い刃を向けているのに違いない。そして、ぼくたちだれもが、未開と呼ばれようがそう呼ばれなくても、西洋であれ東洋であれ、「悲しき熱帯」を生きているのかもしれない、と想起させてくれもする。