えいちゃん(さかい きよたか)
えいちゃんのぶろぐ

ブレイディみかこさんの著した「女たちのテロル」を読む。三人の女性、日本の金子文子、イングランドのエミリー・デイヴィソン、アイルランドのマーガレット・スキニダーの生涯が並走して語られるこの本を読みながら、良い方にも悪い方にも時代が変わる時、怒れる若い女たちが立ち現れるのだろうかと、思う。この三人を表すだろう言葉を、サフラジェットが19世紀の終わりから20世紀の始まりにかけてイギリスで女性参政権を求めて戦った女たちのことであるということわりをいれて、そのエミリー・デイヴィソンの最期の文章をこの本から引用します。
真のサフラジェットとは、自分自身の魂を持たんとする女性の決意を体現するものだ。
神の言葉は永遠の真実である。「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の魂を失ったら、何の得があるだろう?」
そして、この理念を実現するために、もっとも進歩的なフェミニストたちは、今日、すべての犠牲を払っても徹底的に抵抗するに至ったのだ。
(Tom Robinson Bandの"Right On Sister"に出てくる"Suffragette city"とはこのことだったのか。)
Right on sister!


澤地久枝さんの著した「14歳〈フォーティーン〉 満州開拓村からの帰還」を読みました。
澤地さんは、ちょうどぼくの父や母と同じ世代ですが、父や母は面と向かってぼくに戦争について話してくれたことはないですし、ぼくから、無理に戦争について話を聞こうとしたことはありません。それほど、戦争は重たい経験で、おいそれと話せるものではないのかもしれません。澤地さんにとっても自らの戦争体験について書くことは初めてのことだそうです。
「少女」を主人公とする三人称の美しい小説のような文体のこの「14歳〈フォーティーン〉 満州開拓村からの帰還」は、すべて澤地さんの記憶から丁寧に紡がれたもうのだそうです。「おわりに」と題されたあとがきから一説を引用します。
「戦争がどんな残酷なものか、戦争下の情報隔絶状態によってどこへ連れてゆかれたかを語るいとぐちとして、少女の物語を書いた。だが、なんという時代になってしまったのだろう」
もう少しで夏休みもおしまいですね。中学生や高校生には、ぜひ「14歳〈フォーティーン〉 満州開拓村からの帰還」を読んで、宿題の読書感想文を書いてみてはどうでしょう?
澤地さんは、ちょうどぼくの父や母と同じ世代ですが、父や母は面と向かってぼくに戦争について話してくれたことはないですし、ぼくから、無理に戦争について話を聞こうとしたことはありません。それほど、戦争は重たい経験で、おいそれと話せるものではないのかもしれません。澤地さんにとっても自らの戦争体験について書くことは初めてのことだそうです。
「少女」を主人公とする三人称の美しい小説のような文体のこの「14歳〈フォーティーン〉 満州開拓村からの帰還」は、すべて澤地さんの記憶から丁寧に紡がれたもうのだそうです。「おわりに」と題されたあとがきから一説を引用します。
「戦争がどんな残酷なものか、戦争下の情報隔絶状態によってどこへ連れてゆかれたかを語るいとぐちとして、少女の物語を書いた。だが、なんという時代になってしまったのだろう」
もう少しで夏休みもおしまいですね。中学生や高校生には、ぜひ「14歳〈フォーティーン〉 満州開拓村からの帰還」を読んで、宿題の読書感想文を書いてみてはどうでしょう?


町田のディスク・ユニオンで見かけ、買ってしまった、今は亡き中村とうようさん著したの「アイウエ音楽館」を読んだ。もうこんな唯一無二の視点で世界中のポップ・ミュージックを論じれる人はいないだろう。
この本は「アイウエオ」順に「ン」まであって、子ども向けに、それぞれポップ・ミュージックを独自の視点で3頁ほど紹介しているそれが51章ある。例えば、「イ」は「イギリスの音楽」となっており、その欄外に白眉で独自なビートルズとジョン・レノンの論が述べられていて、素晴らしい。それをご紹介し、中村とうようさんにぼくはいつまでもレスペクトを表したいのです。
「イギリスのリバプールなんて町を、日本の若い人たちが知っているのは、ビートルズのおかげだろう。
むかしイギリスが世界一の大国であったころ、リバプールの港は奴隷貿易で栄えた。この港を出た船がアフリカからアメリカに奴隷を運んでタンマリもうけたのだ。奴隷の子孫の黒人たちの音楽がアメリカでロックになった。リバプールの町がすっかりさびれてしまったころ、そこで生まれたビートルズが新しいロックでリバプールの町を有名にした。ビートルズがなくなってしまって、ビートルズは失業者だらけのさびしい町となっている。
ジョン・レノンやポール・マッカートニーがロックに夢中になったのは自分たちの町の暗い過去がいやでたまらなかったからじゃないだろうか。とくにレノンが、いつも人びとに愛と平和の大切さをうったえつづけたのは、イギリスが世界でたくさん悪いことをしてきたのを知っていたからだろう。それで、かれはインド音楽のラビ・シャンカールの教えをうけ、日本人の小野洋子さんと結婚し、アジアの心に近づこうと努力した。
レノンはマイケル・ジャクソンとはまったくべつの意味で、これまでのポピュラー音楽にはいなかった、新しい生き方をした大スターだった。そして四十歳のときに、ピストルでうたれて死んでしまった。」


竹村淳さんの著した「反戦歌 戦争に立ち向かった歌たち」を読む。
竹村淳さんというと、昔、NHK-FMの確か日曜か土曜の午前中の番組で、中南米の音楽を穏やかな口調で紹介していた人で、ぼくもよく聴いていたことを思い出すのだが、この本「反戦歌」では、その穏やかさからかけ離れた激しい言葉での現政権への怒りが「まえがき」に表されてに驚かされ、続く本編のいろんな国での二十三もの反戦歌が紹介されている。詞を含めた歌の紹介だけではなく、歌手は作詞者、作曲者のこと、その背景にある社会や政治、現代の今の社会への鋭く怒りに満ちた批評、竹村淳さん自身の個人史も綴られて、とてもおもしろい。十七番目に登場するピート・シーガー「腰まで泥まみれ」は近ごろ、ぼくの大好きな中川五郎さんも自身の日本語詞を歌われていて、この章の冒頭は、こんな言葉で始められている。
「反戦歌をテーマに本を書き、性懲りもなくまた日本を戦争のできる国にしようとする心ない輩たちと音楽の力を武器に戦おう」
日倉士歳朗さんの素晴らしい歌とギターで知った、ぼくの大好きな、ぼくの思う反戦歌「ダニー・ボーイ」はこの本では出てこないのだけれども、竹村さん自身が「あとがき」でほのめかしているように、この本に続編があることをぼくは疑わない。そして、戦争がある限り、そんな反戦歌が歌われることのない世界を願いつつ、歌は歌い継がれ、新しい反戦歌は作られて、歌われていくのでしょう。


ジム・ロジャーズさんの著した「日本への警告」を読む。ジム・ロジャーズとは、株式のお取引で世界で一番富を得た人だそうな。
こういう本を読むと、日本から立ち去り、永遠にもどらない旅に出ようかとも思う。移住先はどこがいいのだろう? ニュージーランド、カナダ、マレーシア、そこは日本だけど、沖縄とかを思い浮かべる。だけど、日本がいいのだけれど、なんか近ごろの日本は日本ではなくなってきているみたいだというと、ジムからは変化に対応できないバカ者と叱責されそうだ。
この本を読むと、特に、東京オリンピックの後の日本がおそろしくなる。この本の内容のすべてに首肯しるわけではないけれど、オリンピック後の日本についてはあたっていそうな。なにより、ぼくはただ、寂しく楽しい老後をすごしたいだけなのに。
ジム・ロジャースによれば、中国こそが21世紀の覇権国家になるだろうという予測は当たってほしくないのは、かの国がチベットの人々やウイグルの人々にしていることによる。アメリカだってそうだった。中南米に人々になんと酷い辛苦をなめさせてきたアメリカ合衆国。覇権国家とかなくならないのかね? 覇権国家とか馬鹿らしい。
でもお金は欲しいな。使いみちとか知らないけれど。
こういう本を読むと、日本から立ち去り、永遠にもどらない旅に出ようかとも思う。移住先はどこがいいのだろう? ニュージーランド、カナダ、マレーシア、そこは日本だけど、沖縄とかを思い浮かべる。だけど、日本がいいのだけれど、なんか近ごろの日本は日本ではなくなってきているみたいだというと、ジムからは変化に対応できないバカ者と叱責されそうだ。
この本を読むと、特に、東京オリンピックの後の日本がおそろしくなる。この本の内容のすべてに首肯しるわけではないけれど、オリンピック後の日本についてはあたっていそうな。なにより、ぼくはただ、寂しく楽しい老後をすごしたいだけなのに。
ジム・ロジャースによれば、中国こそが21世紀の覇権国家になるだろうという予測は当たってほしくないのは、かの国がチベットの人々やウイグルの人々にしていることによる。アメリカだってそうだった。中南米に人々になんと酷い辛苦をなめさせてきたアメリカ合衆国。覇権国家とかなくならないのかね? 覇権国家とか馬鹿らしい。
でもお金は欲しいな。使いみちとか知らないけれど。


名も知らぬ遠き島より
流れ寄る椰子の實一つ
故郷(ふるさと)の岸を離れて
汝(なれ)はそも波に幾月
舊(もと)の樹は生ひや茂れる
枝はなほ影をやなせる
われもまた渚を枕
孤身(ひとりみ)の浮寢の旅ぞ
實をとりて胸にあつれば
新(あらた)なり流離の憂(うれひ)
海の日の沈むを見れば
激(たぎ)り落つ異郷の涙
思ひやる八重の汐々(しほじほ)
いづれの日にか國に歸らむ
これは島崎藤村の詩「椰子の實」ですが、もともとは柳田國男が島崎藤村に明治三十三年に語った話である三河(愛知県)の伊良湖岬に椰子の実が流れ着いたことをから藤村が着想を得て、詩としたそう。柳田國男はこの話を長い年月をかけてあたため、昭和二十七年に発表したのが「海上の道」で、稲作の伝来を、黒潮の海流の流れと古い言葉から解き明かそうとした壮大でロマンチックな一説なのです。ぼくは読みおおせた角川ソフィア文庫版の「海上の道」には他にも「海神宮考」、「みろくの舟」、「根の国の話」、「鼠の浄土」、「宝貝のこと」、「人とスズダマ」、「稲の産屋」、「知りたいと思う事二、三」など柳田の晩年の論考が収められ、すべてどこかで沖縄、琉球の諸島について言及していてるのだった。時は昭和二十七年、1952年は日本とアメリカ合衆国の間でサンフランシスコ条約を結び、日本はアメリカの統治下ではなくなったらしいのだが、沖縄はもどってこなかった。柳田国男はこれらの文章を日本の文部と政治の内側からの抗議と声明としての意味も込めて書いたのではないかしらと、ぼくは想像してしまう。「海上の道」の有名な美しい一節からです。
「今でも明らかに記憶するのは、この小山の裾を東へまはつて、東おもての小松原の外に、舟の出入りにはあまり使はれない四五町ほどの砂浜が、東やゝ南に面して開けて居たが、そこには風のやゝ強かつた次の朝などに、椰子の実の流れ寄つて居たのを、三度まで見たことがある。一度は割れて真白な果肉の露はれ居るもの、他の二つは皮に包まれたもので、どの辺の沖の小島から海に泛んだものかは今でも判らぬが、ともかくも遙かな波路を越えて、また新らしい姿で斯んな浜辺まで、渡つて来て居ることが私には大きな驚きであつた。
この話を東京に還つて来て、島崎藤村君にしたことが私にはよい記念である。今でも多くの若い人たちに愛誦せられて居る椰子の実の歌といふのは、多分は同じ年のうちの製作であり、あれを貰ひましたよと、自分でも言はれたことがある。
そを取りて胸に当つれば
新たなり流離の愁ひ
といふ章句などは、固より私の挙動でも感懐でも無かつた上に、海の日の沈むを見れば云々の句を見ても、或は詩人は今すこし西の方の、寂しい磯ばたに持つて行きたいと思はれたのかもしれないが、ともかくもこの偶然の遭遇によつて、些々たる私の見聞も亦不朽のものになつた。伊勢が常世の波の重波(しきなみ)寄する国であつたことは、すでに最古の記録にも掲げられて居るが、それを実証し得た幾つかの事実の中に、椰子の実も亦一つとして算へられたことを、説き得る者はまだ無かつたのである。土地にはもちろん是を知つて居る人が、昔も今も多かつたにちがひないが、それを一国文化の問題とするには綜合を要し、又は或一人のすぐれた詩人を要したのである。
椰子の実の流れ着くといふ浜辺は多かつた筈であるが、是が島崎氏のいふやうな遊子によつて、取上げられる場合が少なかつたかと思はれる。昔はこの物を酒杯に造つて、珍重する風習があり、それも大陸から伝はつて来た様に、多くの物知りには考へられて居た。倭名鈔の海髑子の条などは、明らかに書巻の知識であつて、もし酒中に毒あるときは、自ら割れ砕けて人を警戒するとあり、まだどういふ樹の果実なりとも知らず、何か海中の産物の如くにも想像せられて居たやうであるが、なほ夜之(やし)といふ単語だけは、すでに和名として帰化して居る。京人の知識は昔も今の
如く、寧ろ文字を媒として外国の文化に親しみ、久しく眼前の事実を看過して、たゞ徒らに遠来の記録の、必ずしも正確豊富で無いものを捜索して居たことは、独り椰子の実だけの経験では無かつた」
ぼくは、日本には海の向こうの二つの大きな原郷のようなものがあって、その一つは韓国、朝鮮で、もう一つは沖縄、琉球であるような気がするのです。前の大戦でもそうだったように、この二つ原郷をないがしろにする時、日本は再び何もかもを失うのではないだろうか?
流れ寄る椰子の實一つ
故郷(ふるさと)の岸を離れて
汝(なれ)はそも波に幾月
舊(もと)の樹は生ひや茂れる
枝はなほ影をやなせる
われもまた渚を枕
孤身(ひとりみ)の浮寢の旅ぞ
實をとりて胸にあつれば
新(あらた)なり流離の憂(うれひ)
海の日の沈むを見れば
激(たぎ)り落つ異郷の涙
思ひやる八重の汐々(しほじほ)
いづれの日にか國に歸らむ
これは島崎藤村の詩「椰子の實」ですが、もともとは柳田國男が島崎藤村に明治三十三年に語った話である三河(愛知県)の伊良湖岬に椰子の実が流れ着いたことをから藤村が着想を得て、詩としたそう。柳田國男はこの話を長い年月をかけてあたため、昭和二十七年に発表したのが「海上の道」で、稲作の伝来を、黒潮の海流の流れと古い言葉から解き明かそうとした壮大でロマンチックな一説なのです。ぼくは読みおおせた角川ソフィア文庫版の「海上の道」には他にも「海神宮考」、「みろくの舟」、「根の国の話」、「鼠の浄土」、「宝貝のこと」、「人とスズダマ」、「稲の産屋」、「知りたいと思う事二、三」など柳田の晩年の論考が収められ、すべてどこかで沖縄、琉球の諸島について言及していてるのだった。時は昭和二十七年、1952年は日本とアメリカ合衆国の間でサンフランシスコ条約を結び、日本はアメリカの統治下ではなくなったらしいのだが、沖縄はもどってこなかった。柳田国男はこれらの文章を日本の文部と政治の内側からの抗議と声明としての意味も込めて書いたのではないかしらと、ぼくは想像してしまう。「海上の道」の有名な美しい一節からです。
「今でも明らかに記憶するのは、この小山の裾を東へまはつて、東おもての小松原の外に、舟の出入りにはあまり使はれない四五町ほどの砂浜が、東やゝ南に面して開けて居たが、そこには風のやゝ強かつた次の朝などに、椰子の実の流れ寄つて居たのを、三度まで見たことがある。一度は割れて真白な果肉の露はれ居るもの、他の二つは皮に包まれたもので、どの辺の沖の小島から海に泛んだものかは今でも判らぬが、ともかくも遙かな波路を越えて、また新らしい姿で斯んな浜辺まで、渡つて来て居ることが私には大きな驚きであつた。
この話を東京に還つて来て、島崎藤村君にしたことが私にはよい記念である。今でも多くの若い人たちに愛誦せられて居る椰子の実の歌といふのは、多分は同じ年のうちの製作であり、あれを貰ひましたよと、自分でも言はれたことがある。
そを取りて胸に当つれば
新たなり流離の愁ひ
といふ章句などは、固より私の挙動でも感懐でも無かつた上に、海の日の沈むを見れば云々の句を見ても、或は詩人は今すこし西の方の、寂しい磯ばたに持つて行きたいと思はれたのかもしれないが、ともかくもこの偶然の遭遇によつて、些々たる私の見聞も亦不朽のものになつた。伊勢が常世の波の重波(しきなみ)寄する国であつたことは、すでに最古の記録にも掲げられて居るが、それを実証し得た幾つかの事実の中に、椰子の実も亦一つとして算へられたことを、説き得る者はまだ無かつたのである。土地にはもちろん是を知つて居る人が、昔も今も多かつたにちがひないが、それを一国文化の問題とするには綜合を要し、又は或一人のすぐれた詩人を要したのである。
椰子の実の流れ着くといふ浜辺は多かつた筈であるが、是が島崎氏のいふやうな遊子によつて、取上げられる場合が少なかつたかと思はれる。昔はこの物を酒杯に造つて、珍重する風習があり、それも大陸から伝はつて来た様に、多くの物知りには考へられて居た。倭名鈔の海髑子の条などは、明らかに書巻の知識であつて、もし酒中に毒あるときは、自ら割れ砕けて人を警戒するとあり、まだどういふ樹の果実なりとも知らず、何か海中の産物の如くにも想像せられて居たやうであるが、なほ夜之(やし)といふ単語だけは、すでに和名として帰化して居る。京人の知識は昔も今の
如く、寧ろ文字を媒として外国の文化に親しみ、久しく眼前の事実を看過して、たゞ徒らに遠来の記録の、必ずしも正確豊富で無いものを捜索して居たことは、独り椰子の実だけの経験では無かつた」
ぼくは、日本には海の向こうの二つの大きな原郷のようなものがあって、その一つは韓国、朝鮮で、もう一つは沖縄、琉球であるような気がするのです。前の大戦でもそうだったように、この二つ原郷をないがしろにする時、日本は再び何もかもを失うのではないだろうか?


あっ、このお三方、映画「新聞記者」の中のテレビの画面の中で対談をしていた人たちだと思い、書店で見かけた望月衣塑子さん、前川喜平さん、マーティン・ファクラーさんの著した「同調圧力」を買って、読みました。
日本の地方紙、文部科学省、アメリカのクオリティー・ペイパー、それぞれの現場からの声が生々しい。
今、この三人につづくいろんな現場からのバックラッシュ(Backlash)、反動への押し返しが日本には必要なんだといろんな人が気づき始めたのかもしれない。あの暗く重い映画「新聞記者」がヒットしているらしいのは、ぼくには嬉しくもある驚きです。
マーティン・ファクラーさんによると、鋭くトランプ政権を批判し、対峙しているニューヨーク・タイムズは今、電子版も含めて、もっともたくさんの部数が発行されている最盛期だそうで、これにも驚いてしまう。それなのに日本の大新聞やテレビはは中国共産党の人民日報やソビエト連邦のプラウダみたくなってしまっている。
巻末の座談会で前川喜平さんが言っている孔子の言葉を、KY(空気読まない)力を発揮しつつ、ぼくも銘とします。
「義を見てせざるは勇なきなり」
日本の地方紙、文部科学省、アメリカのクオリティー・ペイパー、それぞれの現場からの声が生々しい。
今、この三人につづくいろんな現場からのバックラッシュ(Backlash)、反動への押し返しが日本には必要なんだといろんな人が気づき始めたのかもしれない。あの暗く重い映画「新聞記者」がヒットしているらしいのは、ぼくには嬉しくもある驚きです。
マーティン・ファクラーさんによると、鋭くトランプ政権を批判し、対峙しているニューヨーク・タイムズは今、電子版も含めて、もっともたくさんの部数が発行されている最盛期だそうで、これにも驚いてしまう。それなのに日本の大新聞やテレビはは中国共産党の人民日報やソビエト連邦のプラウダみたくなってしまっている。
巻末の座談会で前川喜平さんが言っている孔子の言葉を、KY(空気読まない)力を発揮しつつ、ぼくも銘とします。
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プロフィール
HN:
えいちゃん
性別:
男性
職業:
S.E.
趣味:
音楽
自己紹介:
音楽を演奏したり聴いたりするのが好きです。
歌ってしまいます。そしてギターも少々。
Sam CookeやOtis Reddingなど古いR&Bが好きです。
歌ってしまいます。そしてギターも少々。
Sam CookeやOtis Reddingなど古いR&Bが好きです。


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