えいちゃん(さかい きよたか)
えいちゃんのぶろぐ

名も知らぬ遠き島より
流れ寄る椰子の實一つ
故郷(ふるさと)の岸を離れて
汝(なれ)はそも波に幾月
舊(もと)の樹は生ひや茂れる
枝はなほ影をやなせる
われもまた渚を枕
孤身(ひとりみ)の浮寢の旅ぞ
實をとりて胸にあつれば
新(あらた)なり流離の憂(うれひ)
海の日の沈むを見れば
激(たぎ)り落つ異郷の涙
思ひやる八重の汐々(しほじほ)
いづれの日にか國に歸らむ
これは島崎藤村の詩「椰子の實」ですが、もともとは柳田國男が島崎藤村に明治三十三年に語った話である三河(愛知県)の伊良湖岬に椰子の実が流れ着いたことをから藤村が着想を得て、詩としたそう。柳田國男はこの話を長い年月をかけてあたため、昭和二十七年に発表したのが「海上の道」で、稲作の伝来を、黒潮の海流の流れと古い言葉から解き明かそうとした壮大でロマンチックな一説なのです。ぼくは読みおおせた角川ソフィア文庫版の「海上の道」には他にも「海神宮考」、「みろくの舟」、「根の国の話」、「鼠の浄土」、「宝貝のこと」、「人とスズダマ」、「稲の産屋」、「知りたいと思う事二、三」など柳田の晩年の論考が収められ、すべてどこかで沖縄、琉球の諸島について言及していてるのだった。時は昭和二十七年、1952年は日本とアメリカ合衆国の間でサンフランシスコ条約を結び、日本はアメリカの統治下ではなくなったらしいのだが、沖縄はもどってこなかった。柳田国男はこれらの文章を日本の文部と政治の内側からの抗議と声明としての意味も込めて書いたのではないかしらと、ぼくは想像してしまう。「海上の道」の有名な美しい一節からです。
「今でも明らかに記憶するのは、この小山の裾を東へまはつて、東おもての小松原の外に、舟の出入りにはあまり使はれない四五町ほどの砂浜が、東やゝ南に面して開けて居たが、そこには風のやゝ強かつた次の朝などに、椰子の実の流れ寄つて居たのを、三度まで見たことがある。一度は割れて真白な果肉の露はれ居るもの、他の二つは皮に包まれたもので、どの辺の沖の小島から海に泛んだものかは今でも判らぬが、ともかくも遙かな波路を越えて、また新らしい姿で斯んな浜辺まで、渡つて来て居ることが私には大きな驚きであつた。
この話を東京に還つて来て、島崎藤村君にしたことが私にはよい記念である。今でも多くの若い人たちに愛誦せられて居る椰子の実の歌といふのは、多分は同じ年のうちの製作であり、あれを貰ひましたよと、自分でも言はれたことがある。
そを取りて胸に当つれば
新たなり流離の愁ひ
といふ章句などは、固より私の挙動でも感懐でも無かつた上に、海の日の沈むを見れば云々の句を見ても、或は詩人は今すこし西の方の、寂しい磯ばたに持つて行きたいと思はれたのかもしれないが、ともかくもこの偶然の遭遇によつて、些々たる私の見聞も亦不朽のものになつた。伊勢が常世の波の重波(しきなみ)寄する国であつたことは、すでに最古の記録にも掲げられて居るが、それを実証し得た幾つかの事実の中に、椰子の実も亦一つとして算へられたことを、説き得る者はまだ無かつたのである。土地にはもちろん是を知つて居る人が、昔も今も多かつたにちがひないが、それを一国文化の問題とするには綜合を要し、又は或一人のすぐれた詩人を要したのである。
椰子の実の流れ着くといふ浜辺は多かつた筈であるが、是が島崎氏のいふやうな遊子によつて、取上げられる場合が少なかつたかと思はれる。昔はこの物を酒杯に造つて、珍重する風習があり、それも大陸から伝はつて来た様に、多くの物知りには考へられて居た。倭名鈔の海髑子の条などは、明らかに書巻の知識であつて、もし酒中に毒あるときは、自ら割れ砕けて人を警戒するとあり、まだどういふ樹の果実なりとも知らず、何か海中の産物の如くにも想像せられて居たやうであるが、なほ夜之(やし)といふ単語だけは、すでに和名として帰化して居る。京人の知識は昔も今の
如く、寧ろ文字を媒として外国の文化に親しみ、久しく眼前の事実を看過して、たゞ徒らに遠来の記録の、必ずしも正確豊富で無いものを捜索して居たことは、独り椰子の実だけの経験では無かつた」
ぼくは、日本には海の向こうの二つの大きな原郷のようなものがあって、その一つは韓国、朝鮮で、もう一つは沖縄、琉球であるような気がするのです。前の大戦でもそうだったように、この二つ原郷をないがしろにする時、日本は再び何もかもを失うのではないだろうか?
流れ寄る椰子の實一つ
故郷(ふるさと)の岸を離れて
汝(なれ)はそも波に幾月
舊(もと)の樹は生ひや茂れる
枝はなほ影をやなせる
われもまた渚を枕
孤身(ひとりみ)の浮寢の旅ぞ
實をとりて胸にあつれば
新(あらた)なり流離の憂(うれひ)
海の日の沈むを見れば
激(たぎ)り落つ異郷の涙
思ひやる八重の汐々(しほじほ)
いづれの日にか國に歸らむ
これは島崎藤村の詩「椰子の實」ですが、もともとは柳田國男が島崎藤村に明治三十三年に語った話である三河(愛知県)の伊良湖岬に椰子の実が流れ着いたことをから藤村が着想を得て、詩としたそう。柳田國男はこの話を長い年月をかけてあたため、昭和二十七年に発表したのが「海上の道」で、稲作の伝来を、黒潮の海流の流れと古い言葉から解き明かそうとした壮大でロマンチックな一説なのです。ぼくは読みおおせた角川ソフィア文庫版の「海上の道」には他にも「海神宮考」、「みろくの舟」、「根の国の話」、「鼠の浄土」、「宝貝のこと」、「人とスズダマ」、「稲の産屋」、「知りたいと思う事二、三」など柳田の晩年の論考が収められ、すべてどこかで沖縄、琉球の諸島について言及していてるのだった。時は昭和二十七年、1952年は日本とアメリカ合衆国の間でサンフランシスコ条約を結び、日本はアメリカの統治下ではなくなったらしいのだが、沖縄はもどってこなかった。柳田国男はこれらの文章を日本の文部と政治の内側からの抗議と声明としての意味も込めて書いたのではないかしらと、ぼくは想像してしまう。「海上の道」の有名な美しい一節からです。
「今でも明らかに記憶するのは、この小山の裾を東へまはつて、東おもての小松原の外に、舟の出入りにはあまり使はれない四五町ほどの砂浜が、東やゝ南に面して開けて居たが、そこには風のやゝ強かつた次の朝などに、椰子の実の流れ寄つて居たのを、三度まで見たことがある。一度は割れて真白な果肉の露はれ居るもの、他の二つは皮に包まれたもので、どの辺の沖の小島から海に泛んだものかは今でも判らぬが、ともかくも遙かな波路を越えて、また新らしい姿で斯んな浜辺まで、渡つて来て居ることが私には大きな驚きであつた。
この話を東京に還つて来て、島崎藤村君にしたことが私にはよい記念である。今でも多くの若い人たちに愛誦せられて居る椰子の実の歌といふのは、多分は同じ年のうちの製作であり、あれを貰ひましたよと、自分でも言はれたことがある。
そを取りて胸に当つれば
新たなり流離の愁ひ
といふ章句などは、固より私の挙動でも感懐でも無かつた上に、海の日の沈むを見れば云々の句を見ても、或は詩人は今すこし西の方の、寂しい磯ばたに持つて行きたいと思はれたのかもしれないが、ともかくもこの偶然の遭遇によつて、些々たる私の見聞も亦不朽のものになつた。伊勢が常世の波の重波(しきなみ)寄する国であつたことは、すでに最古の記録にも掲げられて居るが、それを実証し得た幾つかの事実の中に、椰子の実も亦一つとして算へられたことを、説き得る者はまだ無かつたのである。土地にはもちろん是を知つて居る人が、昔も今も多かつたにちがひないが、それを一国文化の問題とするには綜合を要し、又は或一人のすぐれた詩人を要したのである。
椰子の実の流れ着くといふ浜辺は多かつた筈であるが、是が島崎氏のいふやうな遊子によつて、取上げられる場合が少なかつたかと思はれる。昔はこの物を酒杯に造つて、珍重する風習があり、それも大陸から伝はつて来た様に、多くの物知りには考へられて居た。倭名鈔の海髑子の条などは、明らかに書巻の知識であつて、もし酒中に毒あるときは、自ら割れ砕けて人を警戒するとあり、まだどういふ樹の果実なりとも知らず、何か海中の産物の如くにも想像せられて居たやうであるが、なほ夜之(やし)といふ単語だけは、すでに和名として帰化して居る。京人の知識は昔も今の
如く、寧ろ文字を媒として外国の文化に親しみ、久しく眼前の事実を看過して、たゞ徒らに遠来の記録の、必ずしも正確豊富で無いものを捜索して居たことは、独り椰子の実だけの経験では無かつた」
ぼくは、日本には海の向こうの二つの大きな原郷のようなものがあって、その一つは韓国、朝鮮で、もう一つは沖縄、琉球であるような気がするのです。前の大戦でもそうだったように、この二つ原郷をないがしろにする時、日本は再び何もかもを失うのではないだろうか?


あっ、このお三方、映画「新聞記者」の中のテレビの画面の中で対談をしていた人たちだと思い、書店で見かけた望月衣塑子さん、前川喜平さん、マーティン・ファクラーさんの著した「同調圧力」を買って、読みました。
日本の地方紙、文部科学省、アメリカのクオリティー・ペイパー、それぞれの現場からの声が生々しい。
今、この三人につづくいろんな現場からのバックラッシュ(Backlash)、反動への押し返しが日本には必要なんだといろんな人が気づき始めたのかもしれない。あの暗く重い映画「新聞記者」がヒットしているらしいのは、ぼくには嬉しくもある驚きです。
マーティン・ファクラーさんによると、鋭くトランプ政権を批判し、対峙しているニューヨーク・タイムズは今、電子版も含めて、もっともたくさんの部数が発行されている最盛期だそうで、これにも驚いてしまう。それなのに日本の大新聞やテレビはは中国共産党の人民日報やソビエト連邦のプラウダみたくなってしまっている。
巻末の座談会で前川喜平さんが言っている孔子の言葉を、KY(空気読まない)力を発揮しつつ、ぼくも銘とします。
「義を見てせざるは勇なきなり」
日本の地方紙、文部科学省、アメリカのクオリティー・ペイパー、それぞれの現場からの声が生々しい。
今、この三人につづくいろんな現場からのバックラッシュ(Backlash)、反動への押し返しが日本には必要なんだといろんな人が気づき始めたのかもしれない。あの暗く重い映画「新聞記者」がヒットしているらしいのは、ぼくには嬉しくもある驚きです。
マーティン・ファクラーさんによると、鋭くトランプ政権を批判し、対峙しているニューヨーク・タイムズは今、電子版も含めて、もっともたくさんの部数が発行されている最盛期だそうで、これにも驚いてしまう。それなのに日本の大新聞やテレビはは中国共産党の人民日報やソビエト連邦のプラウダみたくなってしまっている。
巻末の座談会で前川喜平さんが言っている孔子の言葉を、KY(空気読まない)力を発揮しつつ、ぼくも銘とします。
「義を見てせざるは勇なきなり」


中川五郎さんの著した「七〇年目の風に吹かれて 中川五郎グレイテスト・ヒッツ」を読んだ。
なにせ、中川五郎さんは、ぼくがもっとも注目する今を歌うシンガーで、今年御年、70才になるという。そんな五郎さんが生涯で書き残した珠玉の文章とこの本での書き下ろしで、一番なるほどとおもしろかったのは、「第2章 ぼくのグランド・ティーチャーズ」の中の「夢が叶った。ピート・シーガー訪問記」での歌の言葉をめぐるやりとりだろうか。
「第4章 ぼくは犯罪者になった!」では高裁に行けば行くほどひどくなり、最高裁での所謂「わいせつ裁判」でのやりとりに、知らなかったものといえ、日本の裁判というものにいやな失望を感じてしまう。そういえば、参院選では最高裁の裁判官の国民審査がありますな。どうしよう。
そして、「第3章 ぼくのヰタ・セクスアリス」や「第5章 街には女がいて、男がいて」では親鸞聖人の悪人正機などということばを思い出しもするのでした。
さて、70才になる五郎さん、ますますとんがっていって、これから、どんな歌を聴かせてくれるのか、期待してますぞ。
なにせ、中川五郎さんは、ぼくがもっとも注目する今を歌うシンガーで、今年御年、70才になるという。そんな五郎さんが生涯で書き残した珠玉の文章とこの本での書き下ろしで、一番なるほどとおもしろかったのは、「第2章 ぼくのグランド・ティーチャーズ」の中の「夢が叶った。ピート・シーガー訪問記」での歌の言葉をめぐるやりとりだろうか。
「第4章 ぼくは犯罪者になった!」では高裁に行けば行くほどひどくなり、最高裁での所謂「わいせつ裁判」でのやりとりに、知らなかったものといえ、日本の裁判というものにいやな失望を感じてしまう。そういえば、参院選では最高裁の裁判官の国民審査がありますな。どうしよう。
そして、「第3章 ぼくのヰタ・セクスアリス」や「第5章 街には女がいて、男がいて」では親鸞聖人の悪人正機などということばを思い出しもするのでした。
さて、70才になる五郎さん、ますますとんがっていって、これから、どんな歌を聴かせてくれるのか、期待してますぞ。


柳田国男の「先祖の話」を読む。この「先祖の話」は日本の敗戦間近の昭和二十年四月から五月にかけて書かれ、敗戦後の昭和二十一年に出版されたもの。柳田国男というと民俗学という衣を着つつ、文部官僚として日本の権力の中枢に居ながら、はじまりの「山の人生」から「海上の道」まで、その権力に異を唱え続けた人だというぼくの印象は、この「先祖の話」でも確かなものとなった。日本に柳田国男という知の巨人がいて良かったと思う。柳田は本当に日本を愛してしたのだとも思う。この「先祖の話」は日本の古くからの信仰を綴りながら、時の政治や軍部への怒りをどこかにじませてもいるのだ。寂しくは、「先祖の話」に書かれてありことをぼくはほとんど知らずにいたことということだけど、ぼくの内の深くで眠っている良きエートスの中にそれは確かに生きているとも思う。このぼくの読んだ角川ソフィア文庫には大塚英志さんの秀逸な解説付き。


藤平信一さんの著した「心を静める」を読む。
藤平信一さんは心身統一合氣道会長であらせられ、合氣道の先生でもあるのだから、むしろ、藤平信一さんではなく藤平信一先生とお呼びしたほうがよいのかしら? 藤平信一先生の書かれた合氣道を通したビジネスマンへの啓発本のような内容でした。
この本によるいくつかの合氣道の心をご紹介すれば、合氣道には「心身一如」という言葉があるらしい。心が初めでも、身体が初めでもなく、心が体に働きかけ、体が心に働きかけ、それは一つということらしい。そして、「武道」とは、「合氣道」も「武道」なのだけれど、それは、「戈を止める道(ほこをとどめるみち)」といこと。戈とは武器のことで、「武道」は「争わない道」、「平和の道」なのだそう。「争わない道」、「平和の道」はとても長い道だけど、きっと、いい道ではないかしらなどと思いました。
藤平信一さんは心身統一合氣道会長であらせられ、合氣道の先生でもあるのだから、むしろ、藤平信一さんではなく藤平信一先生とお呼びしたほうがよいのかしら? 藤平信一先生の書かれた合氣道を通したビジネスマンへの啓発本のような内容でした。
この本によるいくつかの合氣道の心をご紹介すれば、合氣道には「心身一如」という言葉があるらしい。心が初めでも、身体が初めでもなく、心が体に働きかけ、体が心に働きかけ、それは一つということらしい。そして、「武道」とは、「合氣道」も「武道」なのだけれど、それは、「戈を止める道(ほこをとどめるみち)」といこと。戈とは武器のことで、「武道」は「争わない道」、「平和の道」なのだそう。「争わない道」、「平和の道」はとても長い道だけど、きっと、いい道ではないかしらなどと思いました。


柄谷行人さんの著した『世界史の実験』を読む。柄谷行人さんの柳田國男論。柄谷は評論を始めた初期から柳田を論じていたと思うけれど、マルクスやフロイト、夏目漱石、坂口安吾を論じていた柄谷行人が、柳田國男の祖霊論について書いており、本居宣長の古道についても、必ずしも批判的ではなく言及していることに驚く。ただし、国家神道と対峙した柳田國男は見たこともない新しい社会の実験を見ていたとする。柳田は九段の坂に鎮座する神社には決して収斂されることのない霊を見ていた。柄谷さんの引用した柳田國男の文をいくつか引用します。
「我々の親たちの信仰に従えば、神輿の中には神様が乗っておられる。これは事実っであって、詩でもなく空想でもない」
「空と海とはただ一続きの広い通路であり、霊はその間を自由に去来したのでもあろうが、それでもなおこの国土を離れ去って、遠く渡って行こうという蓬莱の島を、まだ我々はよそにもってはいなかった。一言葉でいうならば、それはどこまでもこの国を愛していたからであろうと思う」
「現在もほぼ古い形のままで、霊はこの国土の中に相隣して止住し、徐々としてこの国の神となろうとしていることを信ずる者が、たしかに民間にはあるのである。そうして今やこの事実を、単なる風説としてではなく、もっと明瞭に意識しなければならぬ時代が来ているのである。信じる信じないとは人々の自由であるが、この事実を知るというまでは我々の役目である」
柳田によれば、人は死んで御霊になるという。死んでまもなくは御霊は「荒みたま」と呼ばれ、子孫の供養は祀りをうけ浄化され、御霊は、一つ御霊に溶け込み、神となり、その神は村の山の高いところに昇り、子孫の繁栄を見守るという。
このようなことが書かれ、「第二部 山人から見る世界史」に続き、さらなる続きのある予感。続く柄谷行人の柳田國男論を楽しみに待ちます。
『世界史の実験』(岩波新書) - 週刊読書人
「我々の親たちの信仰に従えば、神輿の中には神様が乗っておられる。これは事実っであって、詩でもなく空想でもない」
「空と海とはただ一続きの広い通路であり、霊はその間を自由に去来したのでもあろうが、それでもなおこの国土を離れ去って、遠く渡って行こうという蓬莱の島を、まだ我々はよそにもってはいなかった。一言葉でいうならば、それはどこまでもこの国を愛していたからであろうと思う」
「現在もほぼ古い形のままで、霊はこの国土の中に相隣して止住し、徐々としてこの国の神となろうとしていることを信ずる者が、たしかに民間にはあるのである。そうして今やこの事実を、単なる風説としてではなく、もっと明瞭に意識しなければならぬ時代が来ているのである。信じる信じないとは人々の自由であるが、この事実を知るというまでは我々の役目である」
柳田によれば、人は死んで御霊になるという。死んでまもなくは御霊は「荒みたま」と呼ばれ、子孫の供養は祀りをうけ浄化され、御霊は、一つ御霊に溶け込み、神となり、その神は村の山の高いところに昇り、子孫の繁栄を見守るという。
このようなことが書かれ、「第二部 山人から見る世界史」に続き、さらなる続きのある予感。続く柄谷行人の柳田國男論を楽しみに待ちます。
『世界史の実験』(岩波新書) - 週刊読書人


