えいちゃん(さかい きよたか)
えいちゃんのぶろぐ



平山周吉さんの著した『小津安二郎』を読了しました。小津安二郎監督の映画の好きな人には恰好の本で、興味深く、そして、面白く、読み始めたら止まらなくなってしまうような全部で二十一章の小津安二郎についての論考の本でした。
「第六章 人の如く鶏頭立てり「東京物語」」や「第七章 「晩春」の壺は、値百万両」では何か怖いような推論が展開されるのだけれども、小津安二郎という映画監督は、生涯、ファミリードラマを撮り続けながら、前の戦争で逝った人たちの無念を決して忘れなかった人でもあったのだと思う。今年で没後六十年、生誕百二十年の巨匠の亡くなった年、1963年は、ラジオの放送から、戦争の尋ね人のコーナーが無くなった年なのだそうだ。1963年のその後を生きていたら、小津安二郎はどんな映画を撮っていたかというようなことを考えるのは詮方ないことで、ただ時おり、小津安二郎の映画を見て、まさしく戦後を生きた人たちと時間をともにし、意識せずとも戦死者を追悼したくなるのです。






吉祥寺のスターパインズカフェでPascalsを見ました。
Pascalsの演奏を見ながら、聴きながら、その音楽性がロバート・フィリップのKing Crimsonとか、フランク・ザッパのMothersを思い出してしまいます。へっぽこオーケストラと自ら謳っているけれど、やっぱ全然へっぽこじゃない。King Crimsonは「絶望」や「否定」が底通していて、Mothersには「諧謔」と「ユーモア」で、ロケット・マツさんのPascalsは「幸せ」なんだとふと思いました。
曲と曲の間で知久寿焼さんが石川浩司さんを大林宣彦監督の映画『この空の花-長岡花火物語』の中でそのまんまの山下清を演じていましたと紹介していたのだけれど、山下清が絵の天才ならば、石川浩司さんはパーカッションの天才だとぼくは初めて生でその演奏を見ながら思ってしまいます。
あー、過ぎてみれば、三時間近くの演奏だったけれど、とても短く感じ、あっという間でした。Pascalsよ、幸せな時をありがとう。




代官山の「晴れたら空に豆まいて」で濱口祐自さんのソロライブを見ました。
紀の国の南の町、勝浦からやって来た奇跡のギタリスト。楽しいMCのおしゃべりも含めて最高でした。この紀州なまりを聞いていると父の故郷である福岡の田川の言葉とどこか似ているようなのが、なんだか不思議です。
そして、そのギターの響きには、ラグタイムをやっても、ミシシッピーのブルースを弾いても、オリジナルを演奏しても、そこには、熊野速玉大社や那智の滝の風が吹き抜けているようで、もし、中上健二が生きていたら、大絶賛していたのではないか?
エリック・サティの曲を弾いてくれないかなと、ぼくが心の中で思っていたら、「グノシエンヌ」を聞かせてくれたことの偶然にも嬉しい感激ものの最高の夜となりました。
紀の国の南の町、勝浦からやって来た奇跡のギタリスト。楽しいMCのおしゃべりも含めて最高でした。この紀州なまりを聞いていると父の故郷である福岡の田川の言葉とどこか似ているようなのが、なんだか不思議です。
そして、そのギターの響きには、ラグタイムをやっても、ミシシッピーのブルースを弾いても、オリジナルを演奏しても、そこには、熊野速玉大社や那智の滝の風が吹き抜けているようで、もし、中上健二が生きていたら、大絶賛していたのではないか?
エリック・サティの曲を弾いてくれないかなと、ぼくが心の中で思っていたら、「グノシエンヌ」を聞かせてくれたことの偶然にも嬉しい感激ものの最高の夜となりました。
