えいちゃん(さかい きよたか)
えいちゃんのぶろぐ

この前、テレビで横浜の街のぶらぶら歩きをするみたいな番組の中で、バンクシーの展覧会を紹介していた。有名な花束を投げようとする男の作品を見て、そのタレントさんは、石ではなく花を投げろというメッセージかなと言っていたのに、ぼくは驚いた。この花束を投げる絵のメッセージは、命すらも脅かされる抑圧の中にいるパレスチナの人々にとって、せめてもの石つぶてを投げることは、花を投げているに等しいことなのだというようなことだと了解していたのだが、タレントさんとぼくとの感じ方はまったく逆で、だからこそアートは素晴らしい。
ぼくも「バンクシー展 天才か反逆者か」に行ってみた。若い人たちがいっぱいで、びっくりした。バンクシーのような左よりの作家の展覧会などは、今時はがらがらだろうと思っていたのだが、新型コロナウィルス禍の中、事前予約の入場制限はあるものの、若い人たちでごったがえしてした。ちなみに「左より」とういうのは、バンクシーが自身の作品を指して言った言葉でもあります。
展覧会を見ながら、このようなアーティストを生み出したイギリスという国はなんて自由な国なんだなと思う。もしかして、アメリカよりも自由であるのかもしれない。昔、ユーチューブで、BBCにどうしてBBCは公共放送にもかかわらず、番組の放映終了の時、国歌を放送しないのかという抗議に、BBCのアナウンサーは、では私たちの「God Save The Queen」を放送しましょうと言って、セックスピストルズの「God Save The Queen」をかけたのには、びっくりした。
イギリスの半世紀前の小説家、ジョージ・オーウェルの名作「1984」や「動物農場」、「カタロニア賛歌」を思い出し、それらと同じく、バンクシーの鋭い批評眼が作品を芸術にまで高めているとも思える。
壁に塗りたくっているジョー・ストラマーみたいなバンクシー。自由じゃなければ、生きていられない。
Stay Free!
バンクシー展 天才か反逆者か


東京藝術大学大学美術館に「あるがままのアート −人知れず表現し続ける者たち−」展を見に行った。何を見てもおもしろい。何か、やさしいような、鈍器のようなものが心に深く刺さってきて、見ていると鳥肌が立ってきた。
特別展「あるがままのアート -人知れず表現し続ける者たち-」


ドライブがてら横須賀美術館に行きました。
「第2期所蔵品展 特集:川端実」が開かれておりました。川端実というと、抽象絵画の世界的巨匠といことですが、カンディンスキーからジャクソン・ポロックに至る抽象絵画の魅力がが今一つ、よくわからず、川端実の作品はその抽象性の極北ともいうべきもので、頭の中にはてなマークが浮かびますが、そこが作者の狙いなのかしら? ぼくは、草間彌生の永遠の水玉のつづく絵とかは、魂の劇を感じて好きなのだけど。
今、現代の絵画はどこへ向かおうとしているのかしら? もっとも今、有名な現代の作家はバンクシーで、最近、発表された星条旗が蠟燭の炎で焼け始めている絵はいいなと思う。そのバンクシーの前の先行していた作家としては、フリーダ・カーロの夫のディエゴ・リベラの主導した革命下のメキシコで起こった壁画運動だったのようにも思う。バンクシーの少し前には、ニューヨークの壁に描きなぐり27歳で没したジャン=ミシェル・バスキアがいた。芸術を貴族たちのサロンではなく、人々のところへ、というのは、なかなかいいと思う。
さて、横須賀美術館に話は戻り、川端実以外にもたくさんの絵が展示されていた。中村光哉が友禅染で作り上げた船と海の作品とかよかったです。
ところで、今ごろになって、ぼくはぼくなりの絵の見方を発見した。それは、展覧会で絵の下脇にに小さく題名や作者、作られた年とかが書かれたカードが貼られているでしょう。それを見ないで、まずは絵を見て、その後、カードを見るのです。カードの言葉で解釈される前に、絵そのものを見ると、これは何だろうかから始まり、いろんな感慨が心にやってきて、絵に浸れます。
おっと、また脱線。再び、横須賀美術館に戻り、谷内六郎館では、「谷内六郎〈週刊新潮 表紙絵〉展 新潮社とのお仕事 あれこれ」が催されていて、とても癒されました。谷内六郎の週刊新潮の表紙絵って、子どもの心に想像として映る世界に、シンクロニシティが起こっていて、それが、なんとも淡いやさしさを感じさせ、とても美しくて癒されます。
この美術館から見える海の景色も、とても素敵です。
横須賀美術館




町田市民文学館ことばらんどで「三島由紀夫展」を見た。原稿や特別な装丁本、三島由紀夫のパネルとなった写真を見ながらぼくは、こんな書き出しで始まる心理学者の岸田秀の「三島由紀夫論」を思い出していた。
「三島由紀夫の精神ははじめから死んでいた。この現実の世界に生きているという実在感の欠如に、彼の文学その他の活動を解く鍵がある。
彼は徹底的に人生を演技し通したという人もいるが、彼には、偽りの外面を演技することによって隠さねばならないような真実の内面があったとは思えない。彼は、死の瞬間まで、自分が何を本当に欲しているかつかんでいなかっただろう。理知的であった彼は、演技しているかのごとく演技することによって、あえてわざわざ自己韜晦しているかのごとく見せかけることによって、その背後に本当の自分が隠されていることほのめかしていたかもしれないが、そのようなものは存在していなかった」
興味のある人はぜひ図書館でこの「三島由紀夫論」の掲載されている「続 ものぐさ精神分析」を借りるかして読んでみてください。文学の世界からは無視されつづけている優れた三島論だと思う。文武両道や美と行動などという言葉で三島由紀夫は論や説を語られるけれど、今でいうLGBTからのところはほとんど語られないのはどうしてだろう? 三島由紀夫は「仮面の告白」で書きたいことはすべて書き、あとの膨大な著作は三島自身が生きながらえるために、書かざるえなかったことを書きつづけただけなのではなかろうか? 「仮面の告白」を除くすべての小説が、ある種の作られた工芸品みたいで、そこに描かれる人物はとうていリアルさからほど遠く、けれど、三島由紀夫の小説はどこか、真実のようなものが隠されているみたいなのだ。三島由紀夫の人、人生、昔、読んだ小説のことを思うと、ぼくは無性に寂しく、そして、悲しくなるのです。


この前、竹橋にある国立近代美術館と国立近代美術館工芸館に行きました。国立近代美術館では「窓展 窓をめぐるアートと建築の旅」と「MOMATコレクション」を見ました。
「窓展」の戦後の近代のアンリ・マティスの窓を描いたものから現代美術のポーランドの劇作家、タデウシュ・カントルの窓から覗きこむインスタレーション作品まで、おもしろかったです。第二次世界大戦以降の現代の歴史は、テレビとかコンピューターのモニターとかスマートフォンまで、いろんな窓が増えていって、人々がそれを家の中でも外でも覗き見ている、そんな時代でもあるらしいことを思ってしまう。その窓に入って、窓に映り込み、それを見られ、そして、見ていたりすると同時に、人は分裂的にその窓の枠外に飛び出したいのではないかしら。
「MOMATコレクション」はいわゆる、膨大な所蔵作品の代表作の常設展で、日本の近代以降から現代の絵画を戦争画も含めて、見通せるような内容でした。戦争協力の戦争画なんて嫌だな、と思いながら、何か懐かしい感じがするのが不思議です。熊谷守一などは戦争協力の絵を描かせられるのが嫌で、戦中は身を潜めて、目立たないように目立たないように生きのびた、そんな人もいるのだけど、藤田嗣治とか、自身の名を汚しているとも思うのですが、後悔とかなかったのだろうか?
さて、国立近代美術館工芸館はいつも素通りしていた所で、こんないい美術館であることを知りませんでした。「パッション2020」という展覧会をしていました。展示場が小さくて、所蔵作品のほんの一部の展示だと思う。近々、金沢に立派な美術館でできて、国立近代美術館工芸館も移転するという。金沢というと九谷焼ですな。ぼくは九谷焼の黄色い招き猫を持っているのだよ。なんでもかんでも東京に集中すればいいってもんじゃない。ぼくは、金沢に国立近代美術館工芸館、国立工芸館というらしいそれができたなら、旅して訪れたいと思う。


生涯、絵を探求して、いろいろなことを試みたゴッホの絵のほかに、彼に影響を与えた同時代のオランダのハーグに集まっていたハーグ派、フランスのパリに集まっていた印象派の絵も、ゴッホ自身の手紙とともに展示されていて、それもとても良かった。ゴッホというその絵が一枚もその生前には売れなかった素晴らしい画家がいて、そんな彼にたくさんの出会いと別れがあって、友だちというより、たくさんの仲間がいたんだ、とぼくは絵を見ながら、思い浮かべる。そう、ぼくは絵を見ながらも、ふとゴッホのパリの仲間たちのこんな噂話を聞いたような気もしたのです。
「フィンセントのやつ、ゴーギャンとアルルに行き、ついにもの凄い傑作を描き始めたらしいぜ」
その時、ゴッホに残された人生は、後たった3年だったのです。
【公式サイト】ゴッホ展 2019-2020 東京展と兵庫展を開催
