えいちゃん(さかい きよたか)
えいちゃんのぶろぐ
日本民藝館に「アイヌの美しき手仕事」展を見に行く。衣装にほどこされた海の波にような、もしくは野の花のようなアイヌの文様を見ていると、それは分けへだてのない命ということを感じさせ、南アメリカやアフリカの文様に地下茎によって繫がっているようにぼくは想像してしまう。二十一世紀は始まったばかりで、まだ混迷しているけれど、この展覧会のような新しい見つめなおしによってアイヌの時代になっていき、光がさしてくるのではないかしら?
日本民藝館
町田市立国際版画美術館で「西洋の木版画 500年の物語」展を見ました。
聖書やキリスト教の本の挿絵として、初めは発展して来た、ヨーロッパやアメリカの木版画はその本の挿絵としての役割を銅版画にゆずり、木版画そのものの美術として発展してゆく。挿絵が木版画が銅版画が変わっていく狭間でのリチャード・ドイルの妖精の絵本の挿絵がとても素敵でした。
その頃、日本からたくさんの浮世絵が輸入され、美術界を揺るがしもする。黒色を大胆に使ったフェリックス・ヴァロットンの作品の形は浮世絵というより花札の図柄を思い起こさせるもの。
ポール・ゴーギャンの版画も見ることができた。けれど、ぼくは、ある時、ゴーギャンがタヒチを描いた絵にはどうして女たちばかりで男たちは出てこないのかという論考を読んで以来、これらの南の国の楽園などはなかった、その南の国の楽園はゴーギャンが彼の心の中に作ったもので、それを描いたものだあったと思ってしまう。ゴーギャンの罪深さは植民地主義の問題も内包しているのではないかしら。絵は心で感じるものではあるけれども。
などと思いながら、来た順路をさかのぼり、ぼくは再び、リチャード・ドイルのかわしらしい妖精の版画を見に戻っていました。
西洋の木版画 500年の物語 | 展覧会 | 町田市立国際版画美術館
この前、テレビで横浜の街のぶらぶら歩きをするみたいな番組の中で、バンクシーの展覧会を紹介していた。有名な花束を投げようとする男の作品を見て、そのタレントさんは、石ではなく花を投げろというメッセージかなと言っていたのに、ぼくは驚いた。この花束を投げる絵のメッセージは、命すらも脅かされる抑圧の中にいるパレスチナの人々にとって、せめてもの石つぶてを投げることは、花を投げているに等しいことなのだというようなことだと了解していたのだが、タレントさんとぼくとの感じ方はまったく逆で、だからこそアートは素晴らしい。
ぼくも「バンクシー展 天才か反逆者か」に行ってみた。若い人たちがいっぱいで、びっくりした。バンクシーのような左よりの作家の展覧会などは、今時はがらがらだろうと思っていたのだが、新型コロナウィルス禍の中、事前予約の入場制限はあるものの、若い人たちでごったがえしてした。ちなみに「左より」とういうのは、バンクシーが自身の作品を指して言った言葉でもあります。
展覧会を見ながら、このようなアーティストを生み出したイギリスという国はなんて自由な国なんだなと思う。もしかして、アメリカよりも自由であるのかもしれない。昔、ユーチューブで、BBCにどうしてBBCは公共放送にもかかわらず、番組の放映終了の時、国歌を放送しないのかという抗議に、BBCのアナウンサーは、では私たちの「God Save The Queen」を放送しましょうと言って、セックスピストルズの「God Save The Queen」をかけたのには、びっくりした。
イギリスの半世紀前の小説家、ジョージ・オーウェルの名作「1984」や「動物農場」、「カタロニア賛歌」を思い出し、それらと同じく、バンクシーの鋭い批評眼が作品を芸術にまで高めているとも思える。
壁に塗りたくっているジョー・ストラマーみたいなバンクシー。自由じゃなければ、生きていられない。
Stay Free!
バンクシー展 天才か反逆者か
東京藝術大学大学美術館に「あるがままのアート −人知れず表現し続ける者たち−」展を見に行った。何を見てもおもしろい。何か、やさしいような、鈍器のようなものが心に深く刺さってきて、見ていると鳥肌が立ってきた。
特別展「あるがままのアート -人知れず表現し続ける者たち-」
ドライブがてら横須賀美術館に行きました。
「第2期所蔵品展 特集:川端実」が開かれておりました。川端実というと、抽象絵画の世界的巨匠といことですが、カンディンスキーからジャクソン・ポロックに至る抽象絵画の魅力がが今一つ、よくわからず、川端実の作品はその抽象性の極北ともいうべきもので、頭の中にはてなマークが浮かびますが、そこが作者の狙いなのかしら? ぼくは、草間彌生の永遠の水玉のつづく絵とかは、魂の劇を感じて好きなのだけど。
今、現代の絵画はどこへ向かおうとしているのかしら? もっとも今、有名な現代の作家はバンクシーで、最近、発表された星条旗が蠟燭の炎で焼け始めている絵はいいなと思う。そのバンクシーの前の先行していた作家としては、フリーダ・カーロの夫のディエゴ・リベラの主導した革命下のメキシコで起こった壁画運動だったのようにも思う。バンクシーの少し前には、ニューヨークの壁に描きなぐり27歳で没したジャン=ミシェル・バスキアがいた。芸術を貴族たちのサロンではなく、人々のところへ、というのは、なかなかいいと思う。
さて、横須賀美術館に話は戻り、川端実以外にもたくさんの絵が展示されていた。中村光哉が友禅染で作り上げた船と海の作品とかよかったです。
ところで、今ごろになって、ぼくはぼくなりの絵の見方を発見した。それは、展覧会で絵の下脇にに小さく題名や作者、作られた年とかが書かれたカードが貼られているでしょう。それを見ないで、まずは絵を見て、その後、カードを見るのです。カードの言葉で解釈される前に、絵そのものを見ると、これは何だろうかから始まり、いろんな感慨が心にやってきて、絵に浸れます。
おっと、また脱線。再び、横須賀美術館に戻り、谷内六郎館では、「谷内六郎〈週刊新潮 表紙絵〉展 新潮社とのお仕事 あれこれ」が催されていて、とても癒されました。谷内六郎の週刊新潮の表紙絵って、子どもの心に想像として映る世界に、シンクロニシティが起こっていて、それが、なんとも淡いやさしさを感じさせ、とても美しくて癒されます。
この美術館から見える海の景色も、とても素敵です。
横須賀美術館
町田市民文学館ことばらんどで「三島由紀夫展」を見た。原稿や特別な装丁本、三島由紀夫のパネルとなった写真を見ながらぼくは、こんな書き出しで始まる心理学者の岸田秀の「三島由紀夫論」を思い出していた。
「三島由紀夫の精神ははじめから死んでいた。この現実の世界に生きているという実在感の欠如に、彼の文学その他の活動を解く鍵がある。
彼は徹底的に人生を演技し通したという人もいるが、彼には、偽りの外面を演技することによって隠さねばならないような真実の内面があったとは思えない。彼は、死の瞬間まで、自分が何を本当に欲しているかつかんでいなかっただろう。理知的であった彼は、演技しているかのごとく演技することによって、あえてわざわざ自己韜晦しているかのごとく見せかけることによって、その背後に本当の自分が隠されていることほのめかしていたかもしれないが、そのようなものは存在していなかった」
興味のある人はぜひ図書館でこの「三島由紀夫論」の掲載されている「続 ものぐさ精神分析」を借りるかして読んでみてください。文学の世界からは無視されつづけている優れた三島論だと思う。文武両道や美と行動などという言葉で三島由紀夫は論や説を語られるけれど、今でいうLGBTからのところはほとんど語られないのはどうしてだろう? 三島由紀夫は「仮面の告白」で書きたいことはすべて書き、あとの膨大な著作は三島自身が生きながらえるために、書かざるえなかったことを書きつづけただけなのではなかろうか? 「仮面の告白」を除くすべての小説が、ある種の作られた工芸品みたいで、そこに描かれる人物はとうていリアルさからほど遠く、けれど、三島由紀夫の小説はどこか、真実のようなものが隠されているみたいなのだ。三島由紀夫の人、人生、昔、読んだ小説のことを思うと、ぼくは無性に寂しく、そして、悲しくなるのです。
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プロフィール
HN:
えいちゃん
性別:
男性
職業:
S.E.
趣味:
音楽
自己紹介:
音楽を演奏したり聴いたりするのが好きです。
歌ってしまいます。そしてギターも少々。
Sam CookeやOtis Reddingなど古いR&Bが好きです。
歌ってしまいます。そしてギターも少々。
Sam CookeやOtis Reddingなど古いR&Bが好きです。
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