えいちゃん(さかい きよたか)

えいちゃんのぶろぐ

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山崎泰廣さんの著した『真言密教阿字観瞑想入門』を読みました。この真言宗の大僧侶の著した本を読めば、阿字観と月相観の瞑想の哲学としての拝啓から、個人や社会に与えたもう深い意義と意味、実践までよく理解できるというもの。

実はぼくは阿字観のための小さな掛け軸と月輪観のための小さな掛け軸を二幅、買ってしまっておりますが、この前、お寺に阿字観を僧侶の指導のもと経験してから、このようなことはお寺ですべきものではないかというような気がして、家で行なわずにいる。しかし、いつか、小さな清浄な茶室、六角堂のようなところを見つけ、もしくはこさえて、この『真言密教阿字観瞑想入門』や僧侶の指導を思い出し思い出ししつつ、瞑想をしてみたいなどと妄想してもいるのです。

古い書物『菩提心論』にはこうあるという。

「我れ、自信を見るに形、月輪の如し。何か故にか月輪を以って喩とするならば、満月円妙の体は、則ち菩提心と相類せり」

そして、『阿字観用心口決』にはこうあるという。

「阿字は月輪の種子・月輪は阿字の光なり。月輪と阿字は全く一なり。胸中にこれを観ずれば、自身即ち阿字と成る。阿字は即ち自心なり」

ゆめゆめうたがふことなかれ






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旅先の宿で藤原新也さんの著した『日々の一滴』を読みました。なんか、旅先でテレビを見ることってなんくなりましたね。昔は、旅先で見たテレビ番組は、それぞれの地方のローカル色が何かしらあって面白くも感じこともあったのですが、今はどこも同じ。それと同時に、地方から人はいなくなり、町や村はくたびれていった。この『日々の一滴』はそんな時代の写真付きの日記といった佇まい。

今は戦争準備を進めているような最悪へ向かう時でもあるようにぼくには思えてしまい、この本は、記録と記憶として今を残すべく、藤原さんは上梓したのではあるまいか? この『日々の一滴』は現代にあらわれた永井荷風の『断腸亭日乗』のようでもあるのです。






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大江健三郎の『新しい人よ眼ざめよ』を何度目かの再読。クリスマスの近くには、このエポックメイキングな名作を読みたくなってしまう。前に読んだ時とは違うところで感動している自分に気づき、以前は速く読みとばしていたところを丹念に読んでいたりする。

生涯で再び読みたい本がたくさんある。この『新しい人よ眼ざめよ』は、今の時代にこそ、さらに光輝いている、という発見もあった。

絶筆宣言をしてしまった大江先生、沈黙を破り、ぜひとも何かを書いてください、ぼくは心貧しくも願っています。






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若竹千佐子さんの著した『おらおらでひとりいぐも』を読んだ。

この小説を読みながら、これはすぐれて現代小説なのではないかと思いはじめていた。この『おらおらひとりいぐも』には、「ポリフォニー(多声・和声)」があり、ジェームズ・ジョイスの「意識の流れ」があり、ガブリエル・ガルシア・マルケスの「魔術的リアリズム」があり、確固たる「ナラティブ(語り口)」を持っている。

若竹千佐子さんは、岩手県の遠野出身で、東京に若くして出てきて、夫の死別の後、小説を書く教室に通いつづけながら、63歳でデビューした『おらおらひとりいぐも』で芥川賞を取ったという。その標準語と東北弁のいりまじった文体は圧倒的で素晴らしく面白い。東北の出身でこの小説に感涙したという、ぼくに紹介してくれた友だちに感謝します。ありがとう。

読後、ぼくはなぜか、映画『フェリーニのアマルコルド』や深沢七郎の小説を思い出すようであったのはどうしてだろう?






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石牟礼道子さんと藤原新也さんの対談集である『なみだふるはな』を読む。石牟礼道子さんの水俣を語る故郷を愛おしむ言葉は美しい。そして、藤原新也さんのこんな言葉にぼくは強くゆさぶられる思いがした。引用します。

「そのメカニズムは不明ですが、こうしてみると原発三十基分の放射能はすでに世界を覆っているのではないかとも考えられる。そんな中で申しわけないと思うのは、福島の場合もそうですが、ほかの罪のない動植物も巻き添えにしていることです。実は現地で一番ショックを受けたのは飯館村の線量の高い地区の地面で番のアリが狂ったようにエンドレス状態で輪を描いてグルグル回転していたあの光景です。ああやって回りながら死ぬのでしょう。あの狂ったアリは、水俣病にかかって鼻の先でくるくる踊って海に飛び込む「踊り猫」そのものなんです。その光景を見て自分に罪を感じました。
 そのような大罪を犯した僕たちは滅びてもいい。というよりも滅びるべきだと僕は思っております。つまりこの地球上の0.01パーセントに過ぎない人間が99.99パーセントの生物の命を奪おうとしている。そういう生物は滅びるべきです」

ぼくにとってこの言葉は、なんとも重い問いのように思えに考え込んでしまう。そして、やはりぼくは命への捧げもののような石牟礼道子さんの美しい詩や詞でもある言葉に戻ってゆく。いや、戻ってゆこう。






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『年報・死刑廃止2022 加藤智大さんの死刑執行』を読む。

この『年報・死刑廃止2022』を読むと、死刑制度がいかに問題が多くあり、しかも、日本の刑事事件で度々の免罪事件が発生もしていて、さらには再審請求中の死刑執行も繰り返し行われ、この前、読んだ『死刑について』で平野啓一郎さんが書かれているこのようなことも十分、理解できるような気がした。欧米の文学には加害者側の視点ばかりで、むしろ、それへのアンチテーゼとして被害者側に共感しながら『決壊』という小説を書いた平野さんの文の引用。

「ところが、この小説を書き終わってみると、自分でも意外な心境の変化がありました。これはまったく意図していなかったのですが、とうとう、心の底から死刑制度に対して嫌気がさしていました。」

ぼく自身は、人を殺したいと思ったことはなく、だれにであれ、自分の命を奪われたくはなく、当たり前に、それは国家であってもだ。と同時に「殺した人を殺す」という倫理のパラドックスについても考え込んでしまう。けれど、「殺すな」は絶対の至上命令であるはずだ。

去年、死刑が執行された加藤智大さんが「死刑囚表現展」に応募した最期のイラストが、手縄を縛られた執行場に連行される女子の絵に「ありがとう」の言葉が添えられていて、胸がふたがる思いです。








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平野啓一郎さんの著した『死刑について』を読む。死刑という制度があっていいものなのかどうかの論考で、平野さんはもともと死刑について存置派であったのが、今は廃止論者であるという。自身の小説『決壊』の取材やヨーロッパの友人たちとのコミュニケーションによって、廃止の側に立つようになった。ぼくは、この前、『死刑囚 表現展2022』という展覧会を見てから、死刑という制度に以前よりもますます懐疑の思いを強くし、この本を読んで、その懐疑はさらに強く、強くなった。死刑という制度が、殺されたものも含む死者への、その死への冒涜でもあるのではなかろうか、という思いすら、強くするのであった。ややこしいこととは知りながら、人権に制限などなく、この問題が新たに国民の議論として立ちのぼってくることを待ち望んでもいます。







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プロフィール
HN:
えいちゃん
性別:
男性
職業:
S.E.
趣味:
音楽
自己紹介:
音楽を演奏したり聴いたりするのが好きです。
歌ってしまいます。そしてギターも少々。
Sam CookeやOtis Reddingなど古いR&Bが好きです。
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