えいちゃん(さかい きよたか)
えいちゃんのぶろぐ
高森顕徹さんの著した『嘆異抄をひらく』を読みました。新聞の下段広告に大きく掲載されていて、いつか読みたいと思っていた本です。「嘆異抄」は親鸞の高弟である唯円が親鸞の没したあと、さまざまな親鸞のいったことの説、間違った異説に嘆き、親鸞のいったことはこんなことであった、と書き記した昔の本です。
昔、吉本隆明の『最後の親鸞』を読み、まったく何が書いておるのかわからなかったぼくですが、この『嘆異抄をひらく』を読み、すこしは解った気になれましたが、それでものみこめない、実感としてわかないすべての生きとし生けるものを救いたもうという「弥陀の本願」の顕現であるらしい「南無阿弥陀仏」の念仏であります。そりゃ、そうだ、ぼくのような人間は自分で自分を救うことなど、あたわず、仏の願いのあらわれでしか救えないのです。
ところで、「嘆異抄」の第三章、原文での「善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」にふれるたびに考えてしまうことがあります。アドルフ・ヒットラーも往生を遂ぐのだろうか? やはり悪いことを行ってはなりませぬ。その一つの答えとして、『嘆異抄をひらく』に倣いつつ原文の第一章を引用し、この項を了とします。
「「弥陀の誓願不思議に助けられまいらせて往生をば遂ぐるなり」と信じて「念仏申さん」と思いたつ心のおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり。
弥陀の本願には老少善悪の人をえらばず、ただ信心を要とすと知るべし。
そのゆえは、罪悪深重・煩悩熾盛の衆生を助けんがための願にてまします。
しかれば本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきがゆえに、悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきがゆえに、と云々。」
中川五郎さんの著した『ぼくが歌う場所 フォーク・ソングを追い求めて50年』を読了しました。
ディスクユニオンでビニールに包装されたこの本を見て買ってしまったのだけれど、その値段が3,080円で中川五郎さんのエッセイにしては随分高い本だなと思ってしまいました。家でビニール袋を開けてみて、本の中を見て、その値段に納得しました。『ぼくが歌う場所』は2段組み285ページの大著で、中川五郎さんの50以上に及ぶ歌手人生でのありとあらゆるよしなしごとが書かれており、読みごたえがあります。
若かりし日のダメ人間の五郎さんのことも赤裸々に述懐されております。これはダメだわ、五郎ちゃん、とぼくは読みながら、思わずつぶやいてしまう。ぼくもダメ人間でもあるのですが…。
五郎さんの50年間の歌手人生でぽっかりと1980年代の10年間の空白があって、その間のことについては、この本にはほとんど書かれておりません。五郎さんはその頃は本の著述や編集でまったく歌わなくなってしまったのだけれど、その10年間の大きな成果がチャールズ・ブコウスキーの翻訳とこの異端のアメリカの作家の日本での紹介です。その後、1990年代、少しづつシンガーとして復活して、今が一番、ミュージシャンとして充実していると、ぼくは思う。これから何度でも五郎さんのライブには足を運び、アルバムが出されたなら、聴きたいと思い、そして、その真摯な中川五郎さんの歌をしっかりと受け止め、ぼくは五郎さんに声援を送りつづけたいと思っております。
クリストファー・カーの著した『最期に見る夢―終末期体験の奇跡』を読みました。友人の島田啓介さんが訳しています。アメリカのホスピスの医師の書いた本です。
延命治療を絶って、日々を過ごし人たちの見た夢や会話から人生とは何だろう、と考える。読み進めるのが時に辛くなる。特に「死を語る子どもの言葉」など。それは誰にでもやってくることなのだけれども。
ぼくはフロイト、ユングの説く夢に関心があって、ユング派の医師である河合隼雄さんの本は本当にたくさん読んできたけれど、この『最期に見る夢』を読みながら、夢とは解釈したり、分析、解析したり、ましてや、それで占ったりするものではなく、そのまま感じ、生きるものではないだろうか、と思いました。
「夢の解釈を越えて」の章の献辞、アメリカのカトリック教会、厳律シトー会(トラピスト)の修道司祭、作家のトマス・マートンの言葉をあげて、この拙文をしめくくりたいと思います。
「人生とは問題を解くことではなく、神秘を生きることだ。」
ぼくの通う心身統一合氣道会雄心館町田道場、その心身統一合氣道会の会長であられる藤平信一さんの著された本『心と体が自在に使える「気の呼吸」』を読みました。
普段、雄心館の館長であられる吉田雄二館長のいわれておられることと同じことが、書かれております。
そこに仏教の禅にも通じる世界観、哲学がちらほらと結び合わされ書かれてもおります。気を臍下の一点に合わせ、そして、忘れてしまいなさい、と説く。その心は一点にもとらわれてしまってはならない。養生に何も無理をすることなかれ。
この『気の呼吸』に書かれておりました「菜根譚」の一説を引用しつつ、この本の紹介いたします。
「風、疎竹に来る 風過ぎて、竹に声を留めず」
技だけではない合氣道、この言葉は合氣道の心のひとつでもあるようなのです。
谷内六郎館のある横須賀美術館で購入した二冊の本『谷内六郎 いつか見た夢』と『谷内六郎のえのぐ箱 想像のひきだし』を読みました。
今年で谷内六郎、生誕、100年だそう。絵を見れば、谷内六郎は今でも生きていて、はにかみ、微笑んでいて、子どもたちと遊んでいる。そう、谷内六郎のたくさんの絵が載せられたこの二冊の本は読むと同時に見るものかもしれません。しかも、何度もそのつかの間の昼間の夢のような絵を見て、いつまでも眺めていたくなります。
この前、横須賀美術館で見た谷内六郎の大規模な展覧会では、なぜか、若い人たちもたくさん見にきていたのだけれど、その理由は『谷内六郎 いつか見た夢』の本の帯にあるように「懐かしいのに、新しい」からなのかもしれません。ぼくは何度も、この二冊のページをめくってしまう。
石井妙子さんの著した『魂を撮ろう ユージン・スミスとアイリーンの水俣』を読了しました。
この本は、今、話題のジョニー・デップの主演した映画『MINAMTA -ミナマタ-』のユージン・スミスとアイリーン・スミスの3年間の水俣での活動をとらまえたノンフィクションなのです。映画『MINAMTA -ミナマタ-』のスミス夫妻に起こったできごとと実際のできごとの違いを越えて、映画『MINAMTA -ミナマタ-』は二人をよく描き切った素晴らしい映画だとも思いました。
この本にもどり、それにしても、「第四章 不知火の海」を読みながら、国とか企業とかって、時に恐ろしいものだと思います。それでも、その巨悪と、今と未来のため、今いるものと、明日くるもののために戦わなくてはならない時がある。そう、そんな時、心の不安定な、癒されぬ傷をかかえた青春のとばちりの女子と、昔日の栄光の伝説も遠くなり、世界から忘れかけられていた、心の壊れた写真家がニューヨークで出会い、恋に落ち、遥か日本、水俣の旅に出る。3か月のはずの旅は3年間の長旅になった、その旅の地、水俣には海を糧にして生きる、命を奪われるほどの巨悪に苦しめられる人たちがいて、二人はカメラを武器に戦い始める。ユージンはこれが最後の旅となるのも知らず、カメラのシャッターをきりつづけ、それは晩年の偉大な仕事となる。
面白かった。『MINAMTA -ミナマタ-』以上に『魂を撮ろう ユージン・スミスとアイリーンの水俣』は素晴らしい。
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プロフィール
HN:
えいちゃん
性別:
男性
職業:
S.E.
趣味:
音楽
自己紹介:
音楽を演奏したり聴いたりするのが好きです。
歌ってしまいます。そしてギターも少々。
Sam CookeやOtis Reddingなど古いR&Bが好きです。
歌ってしまいます。そしてギターも少々。
Sam CookeやOtis Reddingなど古いR&Bが好きです。
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