えいちゃん(さかい きよたか)
えいちゃんのぶろぐ

渋谷東急のBunkamuraザ・ミュージアムに「デュフィ展」に行ってきた。暗いもののないデュフィの絵を見て、その楽しい、いきいきした線と色に気分がよくなりました。夜の海を航行する黒い舟ですら、デュフィの絵の中では、軽みをもって、きらきら輝いている。その楽しさと明るさに感動する。
その昔、ルノワールの絵を見て思った。もちろん、ピカソやゴーギャンも好きなのだけど、ぼくは、こういうルノワールやデュフィのような思想を感じさせない、ただ美しくて楽しい絵が実は好きなのだな。見ているうちに、言葉による思考ではない、普段は開いていない感受性が開き始めるのだろうか。心に翼が生えたように感じてしまい、そのダンスする自由の感覚が気持ちいいのです。
http://www.bunkamura.co.jp/museum/exhibition/14_dufy/


上野の東京都美術館へバルテュス展を見に行ってきた。
ピカソをして「二十世紀最後の巨匠」といわしめたというキャッチコピーに惹かれてではなく、この前、秦野のひまわり道場で久しぶりに再開したまーちゃんがバルテュス展がよかったと言っていたことによる。まーちゃんはエロスをロゴスに昇華していると言っていた。エロスは少しは分かるのだけど、ロゴスって何だろうか。
実物の絵を見ていくと、確かに思春期の少女をを描いた絵はエロティックなのだけど、混沌としてはいず、凛としていて、何か高貴なもの、猥雑さを寄せつけもしないものすらも感じてしまう。
バルテュスは自分が芸術家と呼ばれるのを嫌い、むしろ、画家とか、職人と呼んで欲しいと、言っていたそうだ。その芸術家の芸術とは何だろうかと思いめぐらすと、それは、美を超えて、情動や感情、未知なる感性のごときを喚起するものだとしたら、バルデュスの絵はやはり美術を超えた芸術であるのではないかしら。そのようなバルテュスは、膨大な画集を買いあさり、古典美術を常に研究していた、そういう努力家肌の研究者の面もあって、けれど、作品として完成された絵画はバルテュスそのものであるようなものなのだった。
懇意にしていた同時代の芸術家として、アントナン・アルトーやジョルジュ・バタイユがいたそうだ。なるほど。来日時は三島由紀夫を訪問していたりする。狂気と正気をあわせもち、超えていき、戻ってくる。
後半の人生でバルデュスは日本人の妻、出田節子さんを娶り、たいそうな親日家であったそうだ。
バルテュスの絵に登場する猫がなんとも印象的。これらの猫はバルテュスの魂のようなものかもしれないぞ。
http://balthus2014.jp


町田国際版画美術館に「パブロ・ ピカソ ―版画の線とフォルム―」展を見に行く。版画作品によってピカソの人生を振り返るというもの。ゆっくり歩いて見ていると不思議な「ミノタウロキア」の前で足が止まり、しばし見とれる。それより印象的だったのが「鳩」。この無垢さは何だろう? ピカソで有名なのはスペイン内線での空爆を描いた「ゲルニカ」が有名すぎるのだけど、この「鳩」はもう一つの「ゲルニカ」ではあるまいか。国際連合本部に飾られてれている「ゲルニカ」のレプリカは重要な議決の際には、展示から取り外されるという。どういうことなのだろう? 取り外されたなら、ぼくは、このピカソの魂そのもののような「鳩」を思い浮かべればいい。このピカソの「鳩」はぜひ実物の版画をご覧ください。


東京ステーションギャラリーの「生誕100年! 植田正治のつくりかた」展を見に行った。
植田正治の写真は演出写真などとも呼ばれ、忠実にある世界や生活の一瞬を切り取るべきだという写真手法、リアリズムを徹底的に追求すべきだという写真論に押され、一時期、過去の写真家ともなったらしいのだけれど、植田調と呼ばれたその独特の写真はむしろ常に海外での評価の方が高かった。
鳥取県の境港で生涯カメラ店を営む、アマチュア写真家のモノクロ写真を見ると、そのスタイリッシュなかっこよさの向こうに、写真を取る人と取られる人の笑い声が聞こえてきそうなのであった。
「お父さん、このポーズ、いつまですれば、いいの?」
「もうちょっと我慢しなさい」
「もう、疲れた」
「あっ、そこそこ、そこで止まって」
「もう、このへんでシャッター切ったら」
いつも日曜日になると植田正治は家族をつれて、鳥取の砂丘に撮影しに行った、という。その家族の楽しい声のこだまを聞いたような気もした。
http://www.ejrcf.or.jp/gallery/exhibition/now.html


町田市立国際版画美術館に「縁起もの -版画と絵画で楽しむ吉祥図像-」展に行ってきた。次から次にと目に飛び込んでくるおめでたい絵に気分が晴れ晴れとし、いい気持ちになりました。
http://hanga-museum.jp/exhibition/schedule/2013-201


相模原市立博物館に「舘野鴻(たての ひろし)絵本原画展「ぎふちょう」」を見に行く。
舘野さんに初めて会ったのは、秦野のヨガの先生、きららさんの家の桜畑のお花見会でアルバート・アイラーを日本の土着の地に根付かせたようなフリーなテナー・サックスを吹いていた。
その後、何回か、お会いする機会に恵まれて、そのきららさん主催のパーティーで小さな虫や森の植物を精緻に描いた絵を見せていただき、驚いた。この博物館での展覧会でも、やはり感じたのだけど、小さい生きものたちへの愛のこもった畏怖のようなものすら感じてしまう。今日も舘野さんはどこかの森や山の中を歩きまわっていて、小さな生きものたちの大きな命に目を輝かせて驚いているのだろう。
最新刊の二作目の絵本「ぎふちょう」は一作目の傑作「しでむし」を更にしのぐほどの大傑作だとも思った。
さて、またどこかでお会いするのが楽しみです。


世田谷美術館の「アンリ・ルソーから始まる素朴派とアウトサイダーズの世界」展を見に行く。専門の美術教育を受けないまま、ただ「描きたい」という強い衝動を持って描かれた市井の人たちの作品を素朴派とかアウトサイダー・アートと呼ばれるらしく、実は、世田谷美術館はその収集に努め、膨大なコレクションを持っており、今回の展覧会はその集大成のようなものらしい。絵画のブルーズ・マンのブルーズのようなものなのかな、と思い、見に行った。
意外に楽しい絵が多い。そうか、ブルーズも悲惨を歌って、最後は、どうにかなるよ、大丈夫、大丈夫、と歌って、楽しいものだ、というのを思い出した。けれど、あまりの悲惨さで救いのないような久本強の「シベリア・シリーズ」に圧倒されてしまう。グランマ・モーゼスやグランマ・フランの絵は楽しくて好きです。マックス・ラフラーの心優しきキリスト教の神様や聖人の絵に笑みをもらしてしまう。
いろんな人たちの絵が飾られ、絵が描いた人の普通であったり波瀾万丈であったりする生活や人生を語りかけてくれるようだ。
ぼくの歌は素朴派です。
世田谷美術館
