えいちゃん(さかい きよたか)

えいちゃんのぶろぐ

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恵比寿駅から歩いて15分ぐらいのところにある山種美術館で『HAPPYな日本美術
―伊藤若冲から横山大観、川端龍子へ―』を見ました。日本の吉祥の絵を見て、寿ぎましたよ。

横山大観って、何か、オリエンタリズムの画家というようような気がして、どこか軽蔑していたのだけれど、実物の絵を見ると、全然、違うのですね。富士山を描いた「心神」の飾りのない美しさよ。やはり、絵は本物を見なくてはなりませんな。反省いたします。岡倉天心らとともに西洋化の波に抗い、日本美術の再興を志した大観の心はいかに? 小松均の見事な「赤富士図」を見ながら、ぼくには伝統は変わりながら受け継がれるもののような気がするのです。

『HAPPYな日本美術』には、かわいい絵もいっぱい。川端龍子の象を描いた「百子図」と鯉を描いた「鯉」が、とうてい同じ画家の描いたものとは思われないのです。幅広い作風だのう。

余談ながら、山種美術館の中にあるカフェで抹茶をたのんでみました。抹茶がこんなに甘くて、美味しいものだとは知りませんでした。

あー、七福神、松竹梅、富士、鷹、茄子、鶴、雉、鶏、象、蛇、蛙、鯉、鯛、蛸、牛、獅子、鹿、たくさんの幸せの絵をありがとう、おめでとう。
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駒場公園内にある日本近代文学館で『協力企画展 三島由紀夫生誕100年祭』を見ました。『協力企画展』となっているのは山中湖文学の森三島由紀夫文学館との協力というこであろう。来年の1月14日が三島由紀夫の誕生日で生誕から100年だそうです。それは昭和100年ということでもあります。小さな展覧会でした。

1970年11月25日に自衛隊の駐屯地で撒かれた檄文が大きなパネルとなって展示されていました。ぼくはそれを全文、読んでみましたが、その文が最後の小説である『豊饒の海』や後期の最も重要な短篇である『英霊の聲』とどう繋がっているのか分からず、むしろ、大きな矛盾のようでもあるようで、困惑してしまいます。

三島由紀夫は自決の直前に自身の展覧会を開いていて、それは「書物の河」「舞台の河」「肉体の河」「行動の河」の四つの河に分かれ、すべてが、「豊饒の海」へ流れ入るように構成となっていたそうです。小説『豊饒の海』の帰結を知っているぼくは、それが空恐ろしいようにも感じるのです。

ぼくの父は三島由紀夫の数歳、年下ですが、戦争というものを知っている世代です。その父が話していたことですが、数歳、年上の父の同僚が会社を定年で退職した時、その退社式の終わりに、いきなり、皇居の方に向かい「天皇陛下万歳」を三唱をしたそうです。三島由紀夫のような多くの市井の人もいたのでしょうか?

三島由紀夫の書いた手紙も展示されていました。その中で、ニューヨークからの手紙で、同じくニューヨークに来ていた大江健三郎と落ち合い、楽しく過ごしたことなども書かれていて、ぼくは何だか、ほっとしてしまいました。

三島由紀夫を読んだことのない人は、是非、『潮騒』か『近代能楽集』、『午後の曳航』のどれかを読んでみてください。どれも長い小説ではありません。それが面白いとなれば、最後の小説となった四冊の長篇の『豊饒の海』をお勧めします。
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東京都美術館での『田中一村展 奄美の光 魂の絵画』の二度目の鑑賞にはせ参じました。会期末が近いためか、激混みです。会場内の歩みも遅く、全部、見るのに三時間以上かかりました。これほどの大回顧展は二度とないのではないかしら? 生前は一度の展覧会も開かれずにいたのだけれど、このごった返した展示場のどこかを古い大島紬を羽織った田中一村さんの霊が笑みを浮かべ、歩いているのではないかしら、という気もしてきていました。

晩年の「南の琳派」とも称されている奄美大島での絵は、あらためてすごい。多くは落款もなく、一村さんは、その絵を描くことに精も根も吸いとられ、疲れ果てて死んでいったのか? フィンセント・ファン・ゴッホやポール・ゴーギャンにたとえられるその生涯は、ぼくには、ジョルジュ・スーラのようだとも思えるのです。
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横須賀美術館で同時開催されている『響きあう20世紀美術 アートでつなぐ山と海』展と『運慶展 運慶と三浦一族の信仰』展を見ました。

『響きあう20世紀美術』展は横須賀美術館と箱根にある彫刻の森美術館の二つの美術館のコレクションにより、日本と世界の20世紀の美術を紹介するというもの。パブロ・ピカソの大きな陶器に彩色した美術品やら2016年に逝去された石川ヨシ子さんの油彩で描かれた屏風の作品「花の命」がよかった。李禹煥さんの「線より」を見ながら、坂本龍一さんがインタビューでもの派の芸術が好きだと言っていたのを思い出す。李禹煥さんの「線より」が現代音楽の芸術家、スティーブ・ライヒの音楽のやうに見えてくるのはどうしてだろう?

『運慶展』は奈良時代の仏師、運慶の国の重要文化財の作品、五体が勢揃いしている。仏像の結ぶ印がなぜか、ぼくは気になってしまう。仏像は口がきまっておちょぼ口なのはどうしてだろう?

朝井閑右衛門の日本占領下の中国の蘇州を描いた日本画の小さな企画展もあって、それを見ながら、なんとも複雑な気持ちになる。近代史に残る加害者としての日本は、今でもどこかタブーであり、朝井の描いた中国の風景もどこか痛々しくぼくには感じられ、それは生前に李香蘭の別名を持つ山口淑子さんもおっしゃっておられたように、今のガザの市民が虐殺される悲惨にもつながっているように思われるからなのだ。ぼくたちは描かれた美しい景色に隠された何かも見なくてはいけないような気もする。戦後、朝井閑右衛門は日本画を描かなくなり、洋画で占領下の横須賀での占領軍の兵士の闊歩する風景を描き始める。戦中と戦後の朝井閑右衛門の作品を見て、胸がざわざわして、苦しいようなものをぼくは感じるのだった。

展示変えをした谷内六郎館を見ていると、近くで見ていた二人の御婦人の会話が聞こえた。

「昭和のいい感じね」

そのいい感じの視点をたどっていくと、常に子どもの見る幻想がある。三島由紀夫は谷内六郎の絵にでてくる子どもを見ると、戦時中に死んだ妹を思い出すと言ったということだが、三島由紀夫と同じく谷内六郎の戦後も終わることはなかったのだと思う。
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MOA美術館に『光琳 国宝「紅白梅図屏風」× 重文「風神雷神図屏風」』展を見に行きました。尾形光琳の「紅白梅図屏風」と「風神雷神図屏風」が同時に見られる展覧会は39年ぶりということらしい。再びこのような展覧会が開かれるのが39年後というと、ぼくはこの世には多分、生息してはおらず、霞か雲か土になっているのかと思えば、今、見なくてはいけないような気がして、熱海まで車を走らせたのです。

無知なぼくは、国の定める有形文化財には国宝と重要有形文化財、登録有形文化財の三種類があるのを知りました。「紅白梅図屏風」が国宝で、「風神雷神図屏風」が重要有形文化財で、この前に訪れた法師温泉の長寿館の「法師の湯」の明治の建物が登録有形文化財だそうです。国宝は現在、総数 、1,132件あり、それが多いのか、少ないのかぼくには分からない。国宝や重要有形文化財のこのような国家による指定は、国家による文化の序列化、選別という否定的な意見も一部にあろうかと思うが、こういうものを大事にしないと国は滅ぶとも思えるのだけれど、どうだろう? そういう意味では、長州と薩摩による神仏分離と廃仏毀釈は悪しき伝統文化の破壊だと思え、夏目漱石のいうように、この国は一度、瓦礫の中に沈み、滅んだのだった。

閑話休題、『光琳』展は琳派の絵が豊穣に揃い、展開され、東の果ての島の国で独自に発展した特異な美しさが横溢しているのだった。このような展覧会の見学者は老人ばかりかと予想もしていたけれど、若い女子も多く、本阿弥光悦、俵屋宗達の絵に驚き、尾形光琳の絵に圧倒され、酒井抱一の絵の美しさに見とれているようでもあった。そこに現れ、存在しているのは確かに画家ではなく絵師なのだとぼくは得心する。

現代美術家の村上隆さんは琳派の絵に傾倒しているのだということを思い出した。村上さんの尾形光琳へのオマージュの芸術作品は、古くからの日本の芸術の系譜の中におり、それを「スーパーフラット」と称し、「敗戦国日本の悲哀」を表しているというのに何か、共感すらもしてしまう。ふと、徳川家の時代のように世界史から姿を消しつつ、新しい何かの光を指し示す日本を、ぼんやりと夢想すらしてしまいそうです。
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サントリー美術館で『没後300年記念 英一蝶 ―風流才子、浮き世を写す―』を見ました。英一蝶は江戸元禄の絵師で、

 闇の世は吉原ばかり月夜かな

を詠んだ同じく江戸元禄の俳諧師にして松尾芭蕉の高弟、宝井其角とマブダチだったことを知る。落語にもよく登場する吉原の幇間、太鼓持ちであった英一蝶は、理由も分からぬ罪に問われ、生涯の中途で三宅島に流刑となり、徳川綱吉の逝去にともなう恩赦により江戸にもどれども、その時には無二の親友の宝井其角は亡くなっていた。その後も絵師としての探求を極めていった。

浄土真宗をおこした親鸞も流罪であった。能を大成した世阿弥も流罪であった。そして、英一蝶もであって、加えるに日蓮、法然、西郷隆盛で、島流しこそ、日本の偉人のたどるべき運命だろうか?

ぼくは、スーパーフラットを標榜する、この前に展覧会を京都で見た現代美術の作家の村上隆さんに感謝しなくてはならない。あの展覧会以来、ぼくの日本画を見る目が変化し、昔の日本画を自然に楽しめるようにもなったようなのです。

閑話休題、俳諧もたしなむ一蝶は、反逆児か、時代の生んだ寵児か、はたまた絵の天才か? そのどれでもあろう。英一蝶の絵に顕れもする、複雑な人物に見え隠れする一縷のヒューマニティーにぼくは惹かれてしまうのです。

没後300年記念 英一蝶 ―風流才子、浮き世を写す
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世田谷美術館の『北川民次展 メキシコから日本へ』を見ました。北川民次は第二次世界大戦前にメキシコに渡った絵描きで、そのメキシコでは、フリーダ・カーロの夫、ディエゴ・リベラを中心とした民主主義、民衆主義の壁画運動の盛んであったころ、自由の空気を満々と吸い、民族と民俗の混交した生き生きとした世界を表現していたのだが、戦中の日本に戻り、その窒息するばかりの軍国主義に暗喩を織り込んでの気づかれないような抵抗の絵となる。メキシコでの民衆主義のようなものは北川民次を生涯にわたって突き動かすのだが、日本社会の壁にぶつかり、常に暗中模索に混迷しているかのようでもあるのです。そのような葛藤の鈍色の絵も美しく、メキシコ時代の伸びやかさはないけれど、そのような北川民次の絵を描くことによる戦いにぼくは共感してしまう。

同時開催での『ディレクターの仕事』での大判のポスターの大貫卓也の商業ポスターのたくさんの展示は、ぼくを「Japan as No.1」と呼ばれた1980年代と1990年代に引き戻すかのようで、眩暈のするような、むしろ思い出したくないとも思える狂乱の何かを感じてしまう。それに対比するかのような雑誌「暮らしの手帳」の編集長であった花森安治のレタリングはあまり1960年代、1970年代的なノスタルジーなのだ。この展覧会では、その花森安治が世界大戦中の軍部の広報部で国策宣伝の仕事をしていたのが明かされ、ぼくは驚き、当惑しててしまう。花森安治は戦中については何も語らず、「暮らしの手帳」の素晴らしさを支えた戦後の花森安治のとなえる「生活の中の美」とはどのようなもので、どのように生まれ、どのように企図されてあったのか?

小さな企画として『川田喜久治 シリーズ <地図> より』という写真展も開催されていた。川田喜久治の発見し捉えた原爆ドームの天井の染みは、多くの人が焼き尽くされ、一瞬にして天に昇った凄惨な痕だという。これは決して忘れてはならないことだし、核爆弾は決して使われてならないものだ。

世田谷美術館 SETAGAYA ART MUSEUM
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えいちゃん
性別:
男性
職業:
S.E.
趣味:
音楽
自己紹介:
音楽を演奏したり聴いたりするのが好きです。
歌ってしまいます。そしてギターも少々。
Sam CookeやOtis Reddingなど古いR&Bが好きです。
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