えいちゃん(さかい きよたか)
えいちゃんのぶろぐ
東京都美術館で『田中一村展 奄美の光 魂の絵画』を見ました。展覧会の展示の始めの方で田中一村が小学生のころ描いた南画、文人画があり、なるほど、早熟な天才のありようを感じさせるものでありました。そこから、一村の、絵とは何か、芸術とは何かの69歳、1977年で没する生涯をかけた探求が始まったようなのです。
その人生は、中世から現代までの日本の絵画の歴史を一気に駆け抜けつつ、中央画壇に認められての個展を開くこともなく終の棲家とした奄美では大島紬工場での手仕事で生計を立てつつ、貧困にあえぎ、画業にいそしむという日々であったというのです。その生涯を通して一村は常に努力をし続ける天才であったのですが、晩年の様式を手に入れた奄美時代の絵は、一村そのものであるかのような強烈な美しさを放っております。
そこで、ぼくは、この前、京都で展覧会を見た村上隆さんと新進の哲学者である斎藤幸平さんの対談などを思い出してしまいます。斎藤さんの、石油を売り地球環境を破壊して富を得た数億でアラブ人に購入される芸術作品とか、やっぱ嫌ですとの発言に、村上さんは懐深く爆笑し、資本主義の世界に生きていて、どうしてそんなに資本主義が嫌なんですか、そんなんででいいんですか、返しておりましたが、ついに村上さんは、何億で売れるとか本当はどうでもいいんですよ、もうぼくにはそれほど時間がない、本物の芸術作品を残したいんです、とおっしゃられ、それを聞いてぼくは溜飲を下げたのです。貧困にあえぎつつ、田中一村も本物の芸術作品を残そうとしたことは同じだと思いつつ、自作の歌を歌うぼくは何かをやり遂げただろうか、などと思ってしまいます。
奄美時代の一村の絵を見ながら、隣の女の人は、どうして奄美に移住したのかしら、と囁いておりましたが、それは、奄美に満ちみちている生命の美しさとその目くるめく光に惹かれたからではないかしら? 鳥が好きな一村の鳥たちはどれもかわいい。描かれた蜥蜴もかわいい。そんな生命を愛した一村。一度も個展を生きているうちは開くことのなかった一村は死後にその生涯と芸術を発見され、日本人にもっとも愛される画家の一人となりました。一村は偉大なことをやり遂げました。その絵にも、生涯にも畏敬しつつ、ぼくは感動するものであります。
町田市国際版画美術館に『両大戦間のモダニズム 1918-1939』を見に行きました。この展覧会を見ながら、戦争というものは市民ももちろんそうだけれども、芸術家も著しく翻弄するものだと思いました。そして、版画という工芸によって制作される芸術だからこそ、作家の芯の部分がはっきりと表されるような気がするのは、どうしてでしょう? ウクライナでイランの爆弾によって市民、子どもが殺され、パレスチナのガザではアメリカの爆弾によって市民、子どもが殺されていき、自然環境の悪化による熱波によって生物が死滅しつつあるかもしれない今、2つの戦争を経験し、第二次世界大戦の戦後に『サーカス』という連作の版画作品をものにしたフェルナン・レジェのあまりの痛切な言葉を引用し、戦争のつづくこの世界に石礫を投げたいとも思うのです。
20秒で破壊できる樫の木が、再び芽を出すのには1世紀かかる。鳥たちはいつも素晴らしく着飾っている。進化という言葉は無意味だ。そして、世界に食物を供給する牡牛はこらからもずっと時速3キロで進むだろう。
横須賀美術館へ『エドワード・ゴーリーを巡る旅』展を見に行きました。この絵本作家の原画を見ながら、今夜は怪しげでほの暗い悪夢を見そうな予感にとらわれてしまいます。ぼくはふと十九世紀末のイラストレーター、オーブリー・ビアズリーのモノクロの絵を思い出したりしていると、展覧会の中で、シカゴ出身のエドワード・ゴーリーの書庫にはイギリスのゴシック小説のコレクションか一万冊以上あったということを知り、さもありなんと思ったりしつつ、この人の頭の中、心の中はどうなっているのだろうかと考えたりしています。
1925年生まれのエドワード・ゴーリーは生涯、不気味な本を作りつづけ、ブロードウェイのミュージカル『ドラキュラ』の舞台美術でさらに財をなし、1985年、マサチューセッツ州ヤーマスポートで一軒家を買い、生涯、独身で、大好きな猫と暮らし、2000年に75年の人生の幕を閉じる。その海浜に面した、文化人の集う町での、毎日、同じ時間にカフェでコーヒーを飲むような、その晩年の平和と穏やかさに惹かれてもしまいます。
併設する谷内六郎館では『奏でる―楽器の調べ―』展。谷内六郎もエドワード・ゴーリーと同じく、幻想と幻夢の画家であったと思う。大江健三郎が谷内六郎についての批評にぼくはなるほどと首肯したことがあった。
「子供を画面に描きこむことにより、その媒介者としての役割によってイメージをジャンプさせる。つまりは子供の想像力の働きと並行したものを表現する。
・・・
そしてそれをつきつめて考えれば、眼に見え、頭の中で納得できる種類の、ここに「もの」がある、存在するという域を超えて、動かしがたい現実感を見出すことがあるのに気がつくと思います。ここに集められた谷内さんの絵をよく見るうち、本を閉じてから、身のまわりの事物、風景について《存在を越えたところにある現実感》を見つけていると感じる、そのような体験をされる方は多いはずです。」
エドワード・ゴーリーの絵と谷内六郎の絵はどこか通じていて、近しいとぼくは思うのでした。
アグニエシュカ・ホランド監督の『人間の境界』を見ました。原題は「緑の国境(Green Border)」。ポーランドとベラルーシの国境線を行きかう難民の過酷な行程を追った物語でした。ベラルーシからポーランドに国境を越えれば、ベラルーシに鉄条網を越えて、おし返され、ベラルーシでは、またポーランドに返され、ただ人として生きようとしていた人たちが、ぼろぼろになるまで傷つけられ、亡くなっていく子どもすらいるという、過酷な世界の現実を突きつけられたような気がしました。難民にもいろんな人がいます。アフガニスタンの人、トルコのクルド人、シリアの内戦を逃れた人、アフリカの人、などなど。難民以外に、人権のために身をていする活動家、国境を警備する兵士、警備兵のカウンセリングをする精神科の医師、それらの複眼の視点で物語は進んでいき、モノクロの画面から目が離せません。ぼくの大好きなポーランドの巨匠であるアンジェイ・ワイダ監督のいくつかの映画(『地下水道』や『鉄の男』など)をぼくはいつしか思い出していました。後日談として、ヨロッパに横たわる人種差別、肌の色による差別、民族差別が暗示されます。国家が暴力でもって人をなぶりものにし、隔てるこの世界の現実にいつ変化は訪れるのだろう?
映画『人間の境界』公式
横須賀美術館に『驚異の細密表現展―江戸・明治の工芸から現代アートまで―』と『鈴木敏夫とジブリ展』を見に行きました。
『驚異の細密表現展』は洋画や工芸品ではなく、竹内栖鳳の「狐」や小茂田青樹の「虫魚画巻」などの明治以降の日本画がよかったように思う。ついに、ぼくにも審美眼が身に付いてきたのだろうか? いいや、ただ生きものの可愛らしさに惹かれたというだけのような気もします。滝藤萬次郎の陶磁器の「色絵花鳥文大花瓶」などは柳宗悦の解く民芸とはまったく違った美なのです。分かりやすく、面白い。
『鈴木敏夫とジブリ展』は戦後の昭和、平成、令和の日本がそのままというような展覧会でした。平日の昼だというのにたくさんの人で、友だち同士で来ている人らは、嬉々として、昔ばなしか何かのおしゃべりをしている。子どもづればかりと予想していたのだが、大人が多く、女の人も多い。ジブリの映画って女子が主人公の名作も多いように思い出す。鈴木敏夫さんは、宮崎駿さんが年の離れた兄で、高畑勲さんがさらに年の離れた大兄のような歳の戦後生まれであった。1970年の学生運動の高揚にもろにかぶっている。慶應義塾大学の無党派の全共闘のリーダー的存在だったのだけれど、正式に組織に入らないかといわれ、この運動は、こんなおじさんから指図されて動いているのかと思い、運動から身を引いていったそうだ。その後、何年間もバイト生活をし、ある時、友だちから、バイトに逃避して人生を生きなくていいのかといわれ、たまたま徳間書店に受かり、入社して、宮崎駿さんや高畑勲さんに出会う。その後の活躍は御存じの通り、名映画に後ろにそれを支える名プロデューサーありで、それが鈴木敏夫さんであった。鈴木敏夫さんの膨大な蔵書も展示されてあって、それにも驚く。これから何かクリエイティブなことをしたいと思っている若い人にもお勧めのこの展覧会は予約が必要で、6月18日(火)まで開催中です。
その後、谷内六郎館にも入り、『足もとに目をむけると』展に癒されました。
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プロフィール
HN:
えいちゃん
性別:
男性
職業:
S.E.
趣味:
音楽
自己紹介:
音楽を演奏したり聴いたりするのが好きです。
歌ってしまいます。そしてギターも少々。
Sam CookeやOtis Reddingなど古いR&Bが好きです。
歌ってしまいます。そしてギターも少々。
Sam CookeやOtis Reddingなど古いR&Bが好きです。
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