えいちゃん(さかい きよたか)
えいちゃんのぶろぐ

片岡義男さんの著した「日本語の外へ」を読んだ。どういう内容かというと、片岡さんがあとがきで述べられている「アメリカとはなにか、英語つまりスタンダード・アメリカン・イングリッシュとはなにか、日本語とはなにか、そして日本とはなになのか」というようなことについての長大で重い論考なのだった。
湾岸戦争を経て、日本での経済的に下り坂が続き、出口も見えなくなった20世紀の終盤の書物なのだけれども、けっして内容は古くなっていない。真にアクチュアルな考察は、時代を超えた普遍性を持っているのだと思うし、ハワイに生まれ育った英語しか話さない日系二世の父と、日本語の島根県の方言しか話さなかったらしい母を持つ、真正のバイリンガルだと思われる片岡さんの論は鋭い。だからこそ、その言葉という問題は筆者の魂の底の方まで錨を下ろしているようでもある。
この本の中で何度も「考え抜く」という言葉が出てきて、それを片岡義男さんは実践し、その結果、この本を締めくくる「僕の国は畑に出来た穴だった」は痛みすら伴う冷徹な分析で、筆者の言うところの「僕の国」であるところの日本の明日をどのような方向に進ませたらいいのか、いくつものヒントを含んでいるような気がした。
湾岸戦争を経て、日本での経済的に下り坂が続き、出口も見えなくなった20世紀の終盤の書物なのだけれども、けっして内容は古くなっていない。真にアクチュアルな考察は、時代を超えた普遍性を持っているのだと思うし、ハワイに生まれ育った英語しか話さない日系二世の父と、日本語の島根県の方言しか話さなかったらしい母を持つ、真正のバイリンガルだと思われる片岡さんの論は鋭い。だからこそ、その言葉という問題は筆者の魂の底の方まで錨を下ろしているようでもある。
この本の中で何度も「考え抜く」という言葉が出てきて、それを片岡義男さんは実践し、その結果、この本を締めくくる「僕の国は畑に出来た穴だった」は痛みすら伴う冷徹な分析で、筆者の言うところの「僕の国」であるところの日本の明日をどのような方向に進ませたらいいのか、いくつものヒントを含んでいるような気がした。

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