えいちゃん(さかい きよたか)
えいちゃんのぶろぐ
銀座の観世能楽堂で能楽を見ました。狂言は宝生流の「呂連(ろれん)」で能は観世流の「江口(えぐち)」でした。能楽の前に国文学研究資料館名誉教授の小林健二さんの解説もありました。
「呂連」は僧に感化され出家し、剃髪した男に、その女房があらわれ、どうして髪などを剃っているのか、と僧、男、妻の三者で滑稽な騒動が巻き起こります。人とは昔も今も変わらない愚かで滑稽な存在だとぼくは思ってしまいます。シテの僧をお茶の間の人気者のでもある野村萬斎さんが演じます。
「江口」は世阿弥の名曲であります。「世の中を厭ふまでこそ難からめ仮の宿りを惜しむ君かな(困難な出家よりも、はるかに容易な一夜の宿さえも惜しむとは、無情なお方だ)」の西行の歌に返歌した遊女の江口の君の「世を厭ふ人とし聞けば仮の宿に心留むなと思ふばかりぞ(世を厭って出家した人であるのに、この世の仮の宿という俗世の事柄に心をお留めなさるな)」に端を発した物語。江口の君は西行の宿泊させてくれという頼みを断ったという故事から、とある僧の前に江口の君の霊が現れ、この世界、この世もすべて、仮の住処であることを明かし、自らは普賢菩薩であることも明かし、白象に乗り、天に戻ってゆきます。見事な圧巻の舞いでありました。シテの江口の君を舞ったのは中村貫太さんでありました。
この日の公演は「能を知る会」ともタイトルをつけられていて、能楽の鑑賞の後、能のシテの中村貫太さん及び小林健二さんと観客での質疑応答もありました。初めて能を見たとある若い女子は、どうして、遊女が普賢菩薩と成り得るのか、そこがよくのみこめない、理解できない、どういうことでしょうか、と質問しておりました。小林健二さんは日本の仏教の特色として、賤なるものこそ聖なるものに近い、そのようなとらまえ方、感じ方があるのではないか、と答えられておりました。なるほど、とぼくは思いながら、ヒンドゥー教のカーリー神とパールヴァティー神の関係、キリスト教のマグダラのマリアのこと、仏教の汚泥の中の蓮の花のたとえのことなどを思い出し、賤なるものが聖なるものに近い、という感じ方は、人類共通の何かかもしれない、と思った次第であります。本当の救済は罪や賤、汚泥の中からかろうじて生まれるものかもしれません。
さて、能楽の後、地下鉄で上野に移動し、九月二十三日、鈴本演芸場での令和七年九月下席夜の部「寿 真打昇進襲名披露興行」であります。例のごとく、見た演目を書き出してみます。翁家社中のお二人の太神楽曲芸、二つ目の三遊亭伊織くんの「寄合酒」、金原亭馬生師匠の「不精床」、林家楽一師匠紙切り、林家彦いち師匠の「熱血!怪談部」、林家正蔵師匠の「鼓ヶ滝」、立花家橘之助師匠の三味線弾きの唄いの浮世節、春風亭一朝師匠の「湯屋番」で仲入りのです。林家正蔵師匠、柳家喬太郎師匠、金原亭馬生師匠、林家彦いち師匠も登場し、林家なな子 師匠のめでたい「真打昇進襲名披露口上」、すず風金魚さんとすず風にゃん子さんのお二人の漫才、柳家喬太郎師匠の「親子酒」、吉原馬雀師匠の「暴走族」、江戸家猫八師匠の動物ものまね、主任は本日の真打昇進の主役、林家なな子師匠の「徂徠豆腐」でした。
林家なな子師匠の「徂徠豆腐」はまっすぐな素晴らしいハッピーエンドの人情噺でした。感動しました。
暗いこの世のつらさ忘れ、寄席は心のオアシスです。
いい一日が過ぎていきました。
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