えいちゃん(さかい きよたか)
えいちゃんのぶろぐ
吉本隆明の著した「今に生きる親鸞」を読む。「共同幻想論」のような難しくて理解できないような内容なのかと思って読み始めたら、そうでもなかった。
鎌倉時代の僧、親鸞と一遍には近ごろ、並々ならぬ興味をかきたてられています。親鸞は、自分で自分を救うことはできないからこそ、救われようという言葉を何べんも唱えることも空しく、一度でいいから阿弥陀仏の御加護にすがりなさいと説き、一遍は、阿弥陀仏は世界ののすべての人が救われまい限り私は仏にならないと唱え、阿弥陀仏は仏になったのだから、どんな人も救われている、さぁ、生に歓喜し踊れと唱えた人、というのは未熟なぼくの浅はかな考え。
著者の吉本隆明は吉本ばななさんのお父さんで、とても難解な文章を書く、聡明な知識のかたまりのような思想家、詩人だったのけれど、とても罪深い人だったと思う。というのも、この前、YouTubeで「三島由紀夫vs東大全共闘」というムービーを発見し、見ていたら、登壇した学生のほとんどが「擬制の終焉」で書かれた吉本隆明のような用語で発言していて、何を言っているのか分からなく、彼らの少なからぬ人が自殺したり、その後すぐに死んでしまっていることを知った。けれども、もう、そのような吉本隆明は「今に生きる親鸞」にはいない。
吉本隆明は親鸞を信仰や宗教の人ではなく、思想の人だというのだけど、それには違和感をぼくは持ち、親鸞はすべての人を救いたいと志した人だとも思うのです。キリスト教を普遍にまで高めたパウロのような存在かもしれません。聖書からパウロの言葉。
「人は、正しい行いを積むことによって、神の義と認められて救いに導かれるのではない。人が神の前に義と認められるのは、ひとえに神の子イエス・キリストを信じることによる。律法を守り行う者は、かえっておごり高ぶることになりかねない。しかし、イエス・キリストに現された神の義は、律法を守れない者にも、律法を知らない者にも、救いの可能性を開いたのである。神の子であるイエス・キリストが十字架につけられた意味は、ここにある。これを信じ、これを受け入れるとき、人は無条件で義とされる。神の前には、ユダヤ人と異邦人の区別も、奴隷と主人の区別も、男と女の区別もない」
吉本隆明ではなく五木寛之の「親鸞」から。
「これまで世間に信じられている善行とは、たとえば、大きな塔を建てることや、立派な仏像を造らせることや、そして金銀錦などで美しく装飾された経典などを寄進することや、豪華な法会を催すことなどが善行とされてきたのだよ。身分の高い人びと、ありあまる財産をもつ人びとや富める者たちは、きそってそんな善行にはげんできた。しかし、そんな余裕のあるのは、選ばれた小数の人たちだ。いまさらわたしがいうまでもない。天災や、凶作や、疫病がくるたびに、どれほど多くの人びとが道や河原にうちすてられ死んでいくことか。かつて養和の大飢饉のときには、赤子を食うた母親さえいたときいている。世にいう善行をつとめられる者など、ほんのひとにぎりしかいない。その日をすごすことで精一杯の人びとがほとんどなのだ。そんな人たちを見捨てて、なんの仏の道だろう。法然上人は、仏の願いはそんな多くの人びとに向けられるのだ、と説かれた。たぶん、世間でいう善行などいらぬ、一向に信じて念仏するだけでよい、とおっしゃっているのだ」
愛です。
吉本隆明の「最後の親鸞」も読んでみようかな。
鎌倉時代の僧、親鸞と一遍には近ごろ、並々ならぬ興味をかきたてられています。親鸞は、自分で自分を救うことはできないからこそ、救われようという言葉を何べんも唱えることも空しく、一度でいいから阿弥陀仏の御加護にすがりなさいと説き、一遍は、阿弥陀仏は世界ののすべての人が救われまい限り私は仏にならないと唱え、阿弥陀仏は仏になったのだから、どんな人も救われている、さぁ、生に歓喜し踊れと唱えた人、というのは未熟なぼくの浅はかな考え。
著者の吉本隆明は吉本ばななさんのお父さんで、とても難解な文章を書く、聡明な知識のかたまりのような思想家、詩人だったのけれど、とても罪深い人だったと思う。というのも、この前、YouTubeで「三島由紀夫vs東大全共闘」というムービーを発見し、見ていたら、登壇した学生のほとんどが「擬制の終焉」で書かれた吉本隆明のような用語で発言していて、何を言っているのか分からなく、彼らの少なからぬ人が自殺したり、その後すぐに死んでしまっていることを知った。けれども、もう、そのような吉本隆明は「今に生きる親鸞」にはいない。
吉本隆明は親鸞を信仰や宗教の人ではなく、思想の人だというのだけど、それには違和感をぼくは持ち、親鸞はすべての人を救いたいと志した人だとも思うのです。キリスト教を普遍にまで高めたパウロのような存在かもしれません。聖書からパウロの言葉。
「人は、正しい行いを積むことによって、神の義と認められて救いに導かれるのではない。人が神の前に義と認められるのは、ひとえに神の子イエス・キリストを信じることによる。律法を守り行う者は、かえっておごり高ぶることになりかねない。しかし、イエス・キリストに現された神の義は、律法を守れない者にも、律法を知らない者にも、救いの可能性を開いたのである。神の子であるイエス・キリストが十字架につけられた意味は、ここにある。これを信じ、これを受け入れるとき、人は無条件で義とされる。神の前には、ユダヤ人と異邦人の区別も、奴隷と主人の区別も、男と女の区別もない」
吉本隆明ではなく五木寛之の「親鸞」から。
「これまで世間に信じられている善行とは、たとえば、大きな塔を建てることや、立派な仏像を造らせることや、そして金銀錦などで美しく装飾された経典などを寄進することや、豪華な法会を催すことなどが善行とされてきたのだよ。身分の高い人びと、ありあまる財産をもつ人びとや富める者たちは、きそってそんな善行にはげんできた。しかし、そんな余裕のあるのは、選ばれた小数の人たちだ。いまさらわたしがいうまでもない。天災や、凶作や、疫病がくるたびに、どれほど多くの人びとが道や河原にうちすてられ死んでいくことか。かつて養和の大飢饉のときには、赤子を食うた母親さえいたときいている。世にいう善行をつとめられる者など、ほんのひとにぎりしかいない。その日をすごすことで精一杯の人びとがほとんどなのだ。そんな人たちを見捨てて、なんの仏の道だろう。法然上人は、仏の願いはそんな多くの人びとに向けられるのだ、と説かれた。たぶん、世間でいう善行などいらぬ、一向に信じて念仏するだけでよい、とおっしゃっているのだ」
愛です。
吉本隆明の「最後の親鸞」も読んでみようかな。
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プロフィール
HN:
えいちゃん
性別:
男性
職業:
S.E.
趣味:
音楽
自己紹介:
音楽を演奏したり聴いたりするのが好きです。
歌ってしまいます。そしてギターも少々。
Sam CookeやOtis Reddingなど古いR&Bが好きです。
歌ってしまいます。そしてギターも少々。
Sam CookeやOtis Reddingなど古いR&Bが好きです。
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