えいちゃん(さかい きよたか)

えいちゃんのぶろぐ

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月川翔監督の『ディア・ファミリー』を見ました。大泉洋さんが主演の町工場の社長の役をし、菅野美穂さんがその妻を演じております。見ているうちに映画の中の夫と妻と福本莉子さん、河栄李奈さん、新井美羽さんの三人の娘が本当の家族に見えてきます。心臓のカテーテルにこんな開発の話があるのなんて知りませんでした。実話をもとにしたフィクションということです。町工場で開発され、製造されたカテーテルによって、その後、世界で17万人の人の命を救うこととなる。もの作りの国、日本の小さな町工場と家庭を舞台にした物語で、家族への愛が普遍への愛にまでなっていきます。感動しました。

映画『ディア・ファミリー』公式サイト
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I watched “Edward Said OUT OF PLACE” directed by Makoto Sato. Edward Said was a comparative cultural scholar, a postcolonial commentator who always spoke out for the Palestinian people's right to life, and a professor at Columbia University in the United States. Following in the footsteps of Edward Said, who died in 2003, director Makoto Sato traveled with his camera to New York, Lebanon, Israel, and Palestine in 2005 to film the recent scenes of people living there.

The lands of the Middle East that they have traveled seem to be filled with the tears of suffering and sorrow of the Palestinian people whose land was taken from them, and the suffering and sorrow of the Israeli people who live on the land that was taken from them. The narration is interrupted by a quote from Edward Said's book. The Arabs of Egypt who have a land called Egypt are called Egyptians, the Arabs of Jordan who have a land called Jordan are called Jordanians, the Arabs of Morocco who have a land called Morocco are called Moroccans, but the Arabs of Palestine who do not have a land called Palestine are not called Palestinians. I ask why they are not called Palestinians but Arabs. It is also a sharp question about nation and colony, and ethnicity as identity.

I suddenly recalled that when Yukio Mishima had a discussion with the Zenkyoto, a student-like member of the Zenkyoto asked him if he could not transcend the limits of being Japanese by doing so, to which he replied that he was fine being Japanese. Mishima further stated that there is history and there is Japan. Mishima's words seem to echo what I heard Aida, a Palestinian living in Japan, say at the demonstration in Shinjuku: “Palestinians are Palestinians.

The year 1948, the year of the founding of Israel from Aleppo, Syria, in this film “Edward Said,” was also the year when the Palestinians lost their land and their country, and the Jews who fled to Israel in that year came to Israel because the Jewish quarter in the old city of Aleppo was burned to the ground. He said. He said that until then, Jewish Jews, Muslim Arabs, and Christian Arabs had lived together as neighbors, and he wants to return to Aleppo before 1948.

I believe that the establishment of the State of Israel was a sinful mistake, and I must state clearly and repeatedly that we must of course protest the bombing and killing of civilians, including children and babies in Gaza that is now being carried out by the Israeli government, the Israelis who direct it, and their army. We must protest. We must protest the cruelty with which civilians are being burned alive in Rafah.

I only pray that one day the time of reconciliation will come, the real flowers will bloom, the violence will cease, and peace will come to this land that is soaked with the tears of the Israeli people and the Palestinian people.
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佐藤真監督の『エドワード・サイード OUT OF PLACE』を見ました。エドワード・サイードは比較文化学者、ポストコロニアルの論客にして常にパレスチナ人の生きる権利のために発言しつづけた人で、アメリカのコロンビア大学の教授であった。佐藤真監督は、2003年に亡くなったエドワード・サイードの痕跡を追って、アメリカのニューヨーク、レバノン、イスラエル、パレスチナをカメラを携えて2005年に旅をして、人々の暮らす近景を撮る。

旅をした中東の土地には、土地を奪われたパレスチナの人たちの苦しみと悲しみ、奪った土地で暮らすイスラエルの人たちの苦しみと悲しみの涙が染みこんでいるかのようだ。そこにエドワード・サイードの著書からの引用がナレーションでさしはさまれる。エジプトという土地をもつエジプトのアラブ人はエジプト人と呼ばれ、ヨルダンという土地をもつヨルダンのアラブ人はヨルダン人と呼ばれ、モロッコという土地を持つモロッコのアラブ人はモロッコ人と呼ばれているのに、パレスチナという土地を持たないパレスチナのアラブ人はパレスチナ人と呼ばれず、アラブ人と呼ばれるのは何故なんだと問いかける。それは国家と植民地、アイデンティティーとしての民族についての鋭い問いかけでもある。

ぼくはふと三島由紀夫が、全共闘と議論したときに、全共闘の学生らしき人から、そのようなことでは、日本人という限界を越えられないではないかと問われ、私は日本人でいいんだと答えたのを思いだした。さらに三島は歴史もあるし日本もあるといった。この三島の言葉は、ぼくが新宿のデモで聞いた在日パレスチナ人のアイーダさんのパレスチナ人はパレスチナ人だの言葉に呼応するかのようだ。

この映画『エドワード・サイード』の中のシリアのアレッポからイスラエル建国の1948年、それはパレスチナ人が土地を奪われた年、国をなくした年でもあるのだが、その年にイスラエルに逃れてきたユダヤ人は、アレッポの旧市街のユダヤ人街は焼き討ちにあってイスラエルに来たという。それまではユダヤ教徒のユダヤ人もイスラム教徒のアラブ人もキリスト教徒のアラブ人も隣人として仲良く暮らしていたといい、1948年より前のアレッポに帰りたいという。

これからしても、当たり前にイスラエル建国は罪深い間違いだったとぼくは思い、はっきりと何度でも述べなくてはならないけれど、イスラエル政府とそれを支持するイスラエル人、その軍隊が今、行っているガザの子どもや赤ちゃんも含む民間人の爆撃による殺戮にもちろん抗議しなくてはならない。ラファで民間人が生きたまま焼き殺されている残酷さに抗議しなくてはならない。

いつか、イスラエルの人たちとパレスチナの人たちの涙の染みこんだこの土地に、和解の時が来て、本当の花が咲き、暴力がやみ、平和がくるのを祈るばかり。
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代島治彦監督の『ゲバルトの杜 彼は早稲田で死んだ』を見た。早稲田大学構内で過激派の革マル派により川口大三郎さんをリンチのすえ殺害した事件を当時を知る人物のインタビューと再現ドラマによってとらまえようとした映画であった。陰惨な再現ドラマを演出したのは早稲田大生でもあった鴻上尚史さんで、革マル派やそれに異議をとなえる学生を演じたのはオーディションで選ばれた若い俳優たち。琴和さん演ずる一般男子学生とこんなやり取りをする女子学生が無残で痛々しい。

男子学生「関係ないことはないだろう、友達なんだ、返してくれよ。」
女子学生「いい加減にしろ。私たちは革命をやっているんだ。お前たちはその邪魔をするのか。」
男子学生「そんな話じゃないだろう。」
男子学生「友達を返してくれって、ただそれだけなんだよ。」
男子学生「川口を返せよ。」
女子学生「私たちは階級闘争を戦っているんだ。革命に命をかけているんだ。お前たちはそれに刃向かうのか。帰れ。」

川口さんはどこのセクトにも属してはいなかったのだが、凄惨なリンチのすえ、殺された。ウィキペディアで「内ゲバ」と調べると、そのように殺されたものたちは100人以上にも上る。その死者たちは誰かに一人一人記憶されるべきだし、ただ、ぼくは冥福を祈るばかり。

『ゲバルトの杜 ~彼は早稲田で死んだ~』公式ホームページ
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ジョナサン・グレイザー監督の『関心領域』を見ました。アウシュビッツ収容所の隣の瀟洒な邸宅に住むナチスの高官の家族の淡々とした日常を描きつつも、恐ろしい映画になっています。家族は隣の収容所の巨大な煙突から炎や煙が上がって、薄々きづいているらしくも、知らないふりをしている。壁の向こうの収容所から人々の苦悩や苦痛の声、銃声が聞こえつつも、家族は何も反応しない。そのうえ、今の世界から、ぼくには家族の長の身につけている軍服の鉤十字、ハーケンクロイツ、逆卍が、今のイスラエルの六芒星に見えてしまう。今という時代の最悪の壁はガザを取り囲む壁ではなかろうか? ニュースによれば、ジョナサン・グレイザー監督は米アカデミー賞の受賞スピーチで、パレスチナ自治区ガザで続く戦争に焦点を当て、ユダヤ人としての自分たちの存在やホロコーストが、ガザでの(イスラエルの)占領行為(の正当化)に「乗っ取られていることに異議を唱える」と述べたという。戦争と分断の時代であるような今こそ『関心領域』は観るべき映画だと思いました。

映画『関心領域 The Zone of Interest』オフィシャルサイト
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レイナルド・マーカス・グリーン監督の『ボブ・マーリー ONE LOVE』を見ました。ボブ・マーリーが聖人のようには描かれていないところがよかった。ボブ・マーリーの伝記映画にして、名曲が次から次へと流れる音楽映画です。デヴューの「Simmer Down」からラストの「Redeption Song」まで、ボブはいつも同じことを歌っているようにも思えてしまう。ぼくは映画のエンドロールを見ながら、天国にいるボブ・マーリーにふと心の中でこう語りかけてしまうでです。

今、ガザでは病院や学校に爆弾が落とされて、毎日、子どもたちが殺されていく。ボブ、何か歌ってはくれまいか。

ついに「One Love」が響き始め、そのリズムと歌が世界に響きわたり、すべての圧制が無に帰し、すべての人たちが平和に生きられるように、願い、祈ります。

映画『ボブ・マーリー:ONE LOVE』公式サイト
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白石和彌監督の『碁盤斬り』を見ました。元になった話は落語の『柳田格之進』で遊廓、吉原もからむ人情噺。

すべてのシーンが過度の明るさを廃し、美しい光と構図を持っていて、上品の浮世絵のよう。

一人娘と長屋に暮らす篆刻造りを生業とする浪人の武士、柳田格之進を演ずる主演の草彅剛さんの抑えた演技が素晴らしく、しかも、後半、怒りの感情を爆発させ、ダイナミックな大立ち回りもあり、そこも見せる。そして、柳田格之進の娘、吉原に身請けとなるお絹を演ずる清原果耶さんの可憐さ。けれども、映画のラストは落語の筋から離れて、映画的エンターテイメントとして、潤色されていて、そこも、とても良い。

吉原の大店の女将、お庚を演ずる小泉今日子さんも光っている。このお庚という役は、五歳で吉原に売られ、ついに女将に上りつめる冷っとしていながらも、どこか人情のある女性なのだ。この映画の中の吉原を見ながら、遊女による放火で何度も消失したという、苦海とも呼ばれた吉原という町を思い、江戸の俳諧師、宝井其角の二つの意味のあるこんな句を思い出していたのだった。

 闇の夜は吉原ばかり月夜かな

とまれ、ぼくは、柳田格之進のような人にどこか憧れてしまう。柳田格之進よ、もっと歩いてゆけよ。素晴らしい時代劇『碁盤斬り』が日本の映画史に加わったようなのです。

映画『碁盤斬り』公式サイト
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プロフィール
HN:
えいちゃん
性別:
男性
職業:
S.E.
趣味:
音楽
自己紹介:
音楽を演奏したり聴いたりするのが好きです。
歌ってしまいます。そしてギターも少々。
Sam CookeやOtis Reddingなど古いR&Bが好きです。
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