えいちゃん(さかい きよたか)
えいちゃんのぶろぐ

ユリア・ジャコブさんの著した『日本が知らないウクライナ 歴史からひもとくアイデンティティ』を読了しました。ロシアから侵略戦争をされているウクライナだけど、アメリカ(USA)、ヨーロッパ(EU)、ロシアからの大きな声にくらべ、直接の被害の当事者であるウクライナの声はそれほどに大きくはないと思い、『日本が知らないウクライナ』を読んでみました。ユリア・ジャコブは日本在住のウクライナ人で、大学で講師もしておられる方です。『日本が知らないウクライナ』には、市井の人たちの声を収められ、歴史、宗教、文化を概括する素晴らしい本であります。
この本を読みながら、ロシアの「ロシア世界」という妄想、アメリカの「Make America Great Again」という妄想について考え、その国家の拡大と膨張を志向する妄想は、世界に悪しきことしかもたらさないだろう、とぼくは確信するのだった。ロシアをさかのぼるソビエト連邦では、「私の住所は家でも通りでもない、ソビエト連邦だ!」という歌詞の歌が、1970年代に流行っていたというけれど、それはおぞましい。戦中の大日本帝国の「八紘一宇」のような醜さである。付け足すに、批評家の佐藤優氏のような人は、数少ないロシア語の理解者として、理解できるがゆえに、ロシアの大量の宣伝にからめとられ、初めからあり、今もある事実を見誤っているのかもしれない。
三島由紀夫のことも思い出しました。ぼくが映画で見た三島の東大全共闘と討論した時、全共闘から、それでは日本人の限界を越えられないのでないか、と問われ、三島由紀夫は、それでいいんだよ、私は日本人として生き、日本人として死んでいくんだ、私はあなたを否定しない、尊敬すべき高邁な国際人として、人生を追求していってください、と応えていた。大国の横暴の中でウクライナ人はどう生きて行くのだろう? ウクライナ人として生き、ウクライナ人として死んでいく。せめても、ぼくは小さいものの方、ウクライナの人びとの方に立ちたいとも思いつつ、この本を閉じました。
日本が知らないウクライナ


山梨県都留郡忍野村に、毛鉤釣りをしに旅をしました。西洋毛鉤、またの名をフライフィッシングと称します。彼岸の入りの寒戻りで、前日の雪の雪溶け水で大濁りは、解禁日から二日目です。解禁日に釣りに行ったことはありません。ふと金子みすゞの「大漁」という詩を思い出してしまいます。
朝焼小焼だ
大漁だ
大羽鰮の
大漁だ。
浜はまつりの
ようだけど
海のなかでは
何万の
鰮のとむらい
するだろう。
魚をリリースとかってしちゃって、どこまでもへなちょこ、中途半端な偽善者のわたくしでございます。
泊まったのはいつもの定宿で、昭和の1970年代の雰囲気がぷんぷんでございます。今夜の泊り客はぼく一人。何度も泊まっていて、気安い友人関係みたいにもなっている一人で切り盛りをしている女将さんと世間話をします。今、やっている朝ドラはつまらない、にぼくは首肯する。ニュースがテレビでやっていて、石破首相の10万円問題はどうか、と聞くと、10万円ぐらいどうでもいいんじゃない、との応え。石破首相はアメリカから国防費をGDPの3パーセントにしろ、とアメリカからの要求があるが、どう考えるか、と野党から国会で質問され、むっと怒りをこらえるかのように、国防費のような安全保障に関わることは、外国からいわれて、どうのこうのというのではなく、日本が主体性を持って決めるべきことだ、と応えた。その発言を聞いて、石破首相の改憲への姿勢は好きではないが、この人をもう少し長く首相としてやってもらってもいい、とぼくは思ったのだった。今、アメリカのさしがねでの石破降ろしがされているのかもしれないぞ、とぼくは思ってしまう。
閑話休題、雪の跡の残る、忍野の桂川の川辺をさまよい、ボーズではなく、数匹釣れたし、楽しい旅でした。


かけこみ亭にて「マッキー企画 かわうそ亭 三杯目」とタイトルされたライブを見ました。出演した順に、オートハープとギターの弾き語りの野村昌毅さん、ギターの弾き語りの館野公一さん、コンサーティーナとギターの弾き語りのよねやまたかこさんでした。ラストは三人と店主のぼけまるさんを含めた共演の感動の大団円となりました。
今日はプロテスト・ソングがたくさん聞けたような気がします。音楽はそればかりではなくてもよいですが、戦争の世の今こそプロテスト・ソング、とぼくは思ってしまいます。ぼくは、プロテスト・ソングが好きで、例えば、変転するボブ・ディランというシンガーのアルバムの中で、特に「The Times They Are a-Changin」が好きであったりするのは、そういうことのようなのです。今夜は、野村昌毅さんがガザのことを歌ってくれた、館野公一さんは第五福竜丸のことを歌ってくれた、よねやまたかこさんは名曲「戦争をしない国」を歌ってくれた、そんな、胸が痛いような、心が素敵でもあるような、そんな夜となりました。


三月十一日の上野鈴本演芸場での令和七年三月中席昼の部にはせ参じました。例のごとく、見た演目を書き出してみます。前座の柳家小じかくんの「道灌」、二つ目の柳家小はぜくんの「平林」、小梅さんの奇術 、五明樓玉の輔師匠の「紙入れ」、柳家福治師匠の「居酒屋」、ニックスのお二人の漫才、柳家さん喬師匠の「長短」、隅田川馬石師匠の「たらちね」、小春師匠の三味線弾きの、唄いの浮世節、古今亭菊丸師匠の「ふぐ鍋」で仲入りとなりました。柳家小ゑん師匠の新作落語「ほっとけない娘」、古今亭文菊師匠の「出来心」、ストレート松浦さんのジャグリング、主任は柳家はん治師匠で、新作落語の「鯛」でありました。
小梅さんの奇術ですが、何でこんな綺麗な人が寄席でマジックとかをしているのだろう、とマジックの方を見ずに、小梅さん自身のことを、ぼくは見とれてしまいます。我ながらこまったものですな。柳家さん喬師匠「長短」と隅田川馬石師匠の「たらちね」は定番の噺でおおいに笑ってしまいました。主任の柳家はん治師匠の新作落語「鯛」は上方落語界の重鎮、桂三枝師匠、今の桂文枝師匠の創作落語で、料理屋のいけすの中の鯛どうしが会話をしているという、不思議でシュールな噺。柳家はん治師匠のいけすの古株の鯛の語り口が、とても合っていて素晴らしい。ついには、いけすの鯛の人生、鯛生の悲哀にぼくは胸いっぱいになるようでした。落語は自由だ。寄席はパラダイス。


塚本連平監督の『35年目のラブレター』を見ました。文字の読み書きのできなかったお父さんが、夜間学校に通い、文字の読み書きを習い、覚え、妻にラブレターを書くというお話。
主人公を演ずる笑福亭鶴瓶さんもよかったし、妻を演ずる原田知世さんがよすぎます。夫と妻の若かりしころを演じた、重岡大毅さんと上白石萌音さんもなかなかのものでした。NHKの大河ドラマ『べらぼう』で平賀源内の安田顕さんが夜間学校の先生を演じています。
映画を見ながら、日本語って漢字とかひらがな、カタカナまであって、漢字には訓読みとか音読みとかあって、ややこしいな、と思う。けれど、それが日本の言葉だとも思う。何度もの変転はあるだろうけれども、これを失うことは、日本人のもっとも大切な何かを失うことだろう。
ラストのエンドロールとなり、その後、劇場が明るくなり、ふと後ろを見ると、若い女子が、号泣しておりました。ぼくにもこみ上げるものあり。実話を元にした善意あふれる優しいいい映画。日本映画の昔からあるような、奈良の普通の町並みを舞台にしたストレートでまっとうな家族劇が嬉しかった。
『35年目のラブレター』映画公式サイト


四谷の紀尾井ホールでパソナ「夢」オーケストラのコンサートを見ました。なんと、パソナ「夢」オーケストラはアマチュア楽団でありながら、まったくそのように感じさせない、素晴らしきオーケストラです。このオーケストラで指揮をしているプロの指揮者の曽我大介さんの力と人間性の大きさにもよるとの話も聞こえてきます。
二部構成の一部のゲストがスウィング・ジャズの伝説、クラリネット奏者の北村英治さんで、オーケストラでの編曲によるガーシュイン兄弟などのオールド・ジャズを披露していただきました。北村英治さん、御年、九十六歳にして、まったく衰えておりません。つややかな音と絶妙なフレージング、フル・オーケストラにも負けないパワー、クラリネットの音がホールの後ろの壁にぶつかっているようで、ぼくは驚愕しました。
二部はリムスキー=コルサコフの「シェヘラザード」。アラビアを舞台にした甘い憧れの恋から本当の愛へと変容する交響組曲が美しい。
ガーシュイン:パリのアメリカ人
ユービー・ブレイク:メモリーズ・オブ・ユー
ガーシュイン:アイ・ガット・リズム
ルイ・プリマ:シング・シング・シング
リムスキー=コルサコフ:交響組曲「シェヘラザード」


いとうせいこうさんとジェイ・ルービンさんの共著による『能十番 新しい能の読み方』を読了しました。どういう本かというと、十の能の詞章が掲載されており、それをいとうせいこうさんが現代日本語訳にし、さらにそれをジェイ・ルービンさんが英語に訳しています。いとうせいこうさんは、いわずもかなの小説家であり、日本語ナラティブのラッパーであり、ジェイ・ルービンさんはアメリカ人の夏目漱石、村上春樹、二人の小説家の研究者であり、翻訳もし、能の研究者でもあり、小説も書き、ハーバード大学の名誉教授でもあられる。この本には「高砂」、「忠度」、「経政(経正)」、「井筒」、「羽衣」、「邯鄲」、「善知鳥」、「藤戸」、「海人(海士)」、「山姥」の能がとりあげられていて、どれも名作のはまれのものばかり。
それぞれにいとうせいこうさんとジェイ・ルービンさんの解説があるのもありがたい。例えば、ジェイ・ルービンさんは「高砂」の解説で以下のように記しておられ、日本人のぼくはアメリカ人のこの指摘になるほどと感心するところもあるのです。
「この世の現実性を疑うのが仏教だとすれば、五つの感覚で経験できるこの世の有難さを祝うのが、神道である。神能はいずれも、歌舞劇の歌と舞を駆使して人生の善さを祝っているが、『高砂』は五つの感覚の中でも聴覚を特に賛美する、神道的なポエムである。」
仏教に関していえば、ぼくは、現実性を疑うという哲学的思弁とともに、そこには信ずるという切実な何かでもある、と思う。例えば、日本の寺院には本尊というものがあり、そこには普段には公開されない秘仏というものがあり、さらには最高位の僧侶でさえ見ることのかなわない絶対秘仏というものがあって、ありていにいえば、その絶対秘仏がどのようなもおなのかは明かされない。信といことを顧りみれば、秘仏は朽ち果てていても、木の欠片でも、存在しないものであってもかまわない。あるのかないのか分からぬもの、それが切実な願いと祈りによって信じられてきたことこそ、冥利の神髄ではなかろうか?
閑話休題、『能十番』に戻れば、日本の古語で書かれた詞章、その現代語訳、さらにそれを英語に訳したものを並べると、日本の古語に、ぼくは「言霊」というものをことさら感じてしまう。そこにあるのは、セリフやト書きではなく、掛け言葉なども駆使した、韻律に富んだ、韻文であり、文字通り、詞であり、歌であり、唄であり、神と仏への捧げものであることをありありと感じてしまう。この本は何度も読み返してしまいそうです。
『能十番 新しい能の読み方』刊行記念 いとうせいこう氏インタビュー


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プロフィール
HN:
えいちゃん
性別:
男性
職業:
S.E.
趣味:
音楽
自己紹介:
音楽を演奏したり聴いたりするのが好きです。
歌ってしまいます。そしてギターも少々。
Sam CookeやOtis Reddingなど古いR&Bが好きです。
歌ってしまいます。そしてギターも少々。
Sam CookeやOtis Reddingなど古いR&Bが好きです。


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