えいちゃん(さかい きよたか)
えいちゃんのぶろぐ
横浜にぼくの勤め場所があって、以外に横浜に無関心であった。あることがあって、横浜ってどんなところだろうと思い、平岡正明さんの著した「横浜的」を読んだ。
横浜にはジャズとリズム・アンド・ブルーズがよく似合うが、それは開港100年の歴史と通低していて、消費のために新しい文化を蕩尽する東京とかとは違っていて、土地に染み付いた記憶でもあるのだという平岡氏の主張になるほどと思う。横浜のジャズは最後衛に位置し、そのノスタルジーは失われた全体性を必死に希求するという。中音量主義でいこうといい、ジャズが港の気配を消さない中音量で鳴っていて、そんな特別なものじゃないよ、という顔をしているのがいいと言う。横浜が、小さい地域でこれだけたくさんの店が集まっている世界一のジャズ・スポットであるのは本当らしい。この本では「ちぐさ」や「DIG」が出てくるよ。
横浜のジャズ、大道芸、おもちゃ館、氷川丸、喫茶店、中華街、娼婦、おかま、シャンソン、基地、ありとあらゆる横浜を彷徨い、地の記憶のが立ち上る。アドリブのような文章が綴られ、テーマのように繰り返し歌われるのは「横浜ホンキートンク・ブルース」。ゴールデンカップス解散以降、エディー藩の曲で横浜を愛する幾人にもカバーされた藤竜也の作詞。この詞もそうなんだが、物語の中の横浜の女はいつも謎をはらんでいて、自由なんだ。ぼくはだまされてもいいです。
「ひとり飲む酒 悲しくて 映るグラスはブルースの色
例えばブルースなんて聞きたい夜は横浜ホンキートンク・ブルース
ヘミングウェイなんかにかぶれちゃってさ
フローズンダイキリなんかで酔いしれてた
あんた知らない そんな女 横浜ホンキートンク・ブルース
飯を食うなら「オリジナルジョーズ」なんて聞いたふうな事をぬかしてた
アマ色の髪のサラって女さ あの子横浜ホンキートンク・WOMAN
あなたの影を捜し求めて ひとり彷徨ったこの街角
本牧あたりの昔の話さ 横浜ホンキートンク・ブルース
革ジャンはおってホロホロとバーボン片手に千鳥足
ニューグランドホテルの灯りが滲む
おいらセンチメンタル ホンキートンク・ブルース
ひとり飲む酒 わびしくて 映るグラスは過去の色
あんた知らない たそがれの横浜ホンキートンク・ブルース
あんた知らない たそがれの横浜ホンキートンク・ブルース」
高山文彦という人の著した「エレクトラ 中上健次の生涯」という本を読んで、憂鬱な気分になった。というのも、ぼくが中上健次の小説を熱中して読んでいた中学生の高学年から高校生までの思春期の鬱屈したやり場の無い反抗期の気分をまざまざと思い出したから。なんとも鬱陶しく気分が重くなりながら、読み進まずにはいられなかった。
ぼくにとっては、中上健次とDOORSは鬼門だ。いつでも気分は重く沈み、けれど引き込まれずにはいられない。そういうえば、思春期と言われるそのころ、勉強というのが嫌になった。というのも、中学のある時期、激しい腹痛に襲われ、医者に行くと、これは神経性胃炎だと言われ、無理して嫌いな勉強をしすぎだと自分で思い込み、ぱったりと勉強というのをやめた。それまでの蓄積で、そこそこ進学高に進めたが、成績は下がり続け、高校を卒業するころはクラス内でほぼビリだった。そのころ、表立って不良になるわけでなく、音楽を聴いて、たまにバンドで演奏して、本ばかり読んでいた。聴く音楽はSex Pistols、Clash、Suisie And Banshees、Buzzcocksなどのパンクロック、Bob Marley、Burning Spear、Aswadなどのレゲエ、Charlie MingusやJohn Coltran、Albert Ayler、Bilie Holidayのジャズ、古いロック、Roling StonesやThem、Janis Joplin、Jimi Hendrix、Mothers Of Invation、そして、DOORSは一日に一回は聞いた。。Rolling Stonesからたどっていった、古いブルーズやリズム・アンド・ブルーズ、Muddy WatersやRobert Johnson、Solomon Burk。そんなのを爆音で響かせて、親にうるさいろと叱られつつ、難しい本ばかり読んでいた。新潮文庫で出ていたドストエフスキーや三島由紀夫、川端康成、深沢七郎などはほぼ全冊読んでしまっていた。そして、中上健次らを読みまくっていた。なんて嫌なませたガキだったんだろうか。
「エレクトラ 中上健次の生涯」を読んで、暴力と性と地と血にまみれた中上健次の小説に、なぜ、あんなに惹きつけられたんどろうと思い、それが、その血なまぐさいなにかに隠された、限りないやさしさ、愛だったのかと気づいた。こんなに泣き虫で純情な人間であったことに、あらためて驚いた。また、彼が被差別部落出身であるのは今は周知のことだけど、彼の人生の立ち会った事件(兄の自殺は彼の小説の中に何度も取り上げられている)を知ると、あの誰にも描けないようなどろどろした愛憎の小説すら、その人生の上澄みのようにも思えた。
中上健次の小説だが、やはりとても難解だ。「紀州:木の国・根の国物語」あたりのエッセイから読み始めるのが良いのではなかろうか。
こんな、小説家、二度と出てこない。
この本には出てこないが、上機嫌に酔っ払って、中上健次がよく言っていた言葉。
「おれはここにいない。そして、路地はいたるところにある」
そして、死の二年前に中上健次の主催する熊野大学での「真の人間主義」と題された言葉。
「世界は危機に遭遇している。私たちの総てが破滅に向かっている。地球が壊滅しかかっている。この危機や破滅や壊滅の中に私たち、人間、共に生きてきた愛する動物、植物、この風、この空、土、水、光が永久に閉ざされ続けるのか。何かが大きく間違っていたのだ。近代と共に蔓延した科学盲信、貨幣盲信、いや近代そのものの盲信がこの大きな錯誤を導いたのだ。
私たちはここに霊地熊野から真の人間主義を提唱する。人間は裸で母の体内から生れた。純正の空気と水と、母の乳で育てられた。今一度戻ろう、母の元へ。生れたままの無垢な姿で。人間は自由であり、平等であり、愛の器である。 霊地熊野は真の人間を生み、育て、慈しみを与えてくれる所である。熊野の光。熊野の水。熊野の風。岩に耳よせ声を聞こう。たぶの木のそよぎの語る往古の物語を聞こう。
そこに熊野大学が誕生する」
昔、NHKの教育テレビで、いろんな著名人が生涯出会った本の中でもっとも好きな書物を紹介する番組があり、中上健次が番組の司会者役だったのだけど、そのテレビの最終回で中上自身が選んだ本は、サン・デグ・ジュペリの「星の王子さま」だった。テレビのスクリーンの枠の中で、はみかんだような笑みで、こういうのがやっぱ基本だと思う、と言っていたことを思い出す。
最近、遠藤周作の小説をよく読む。「イエスの生涯」を読み終えた。この小説で描かれる世界が昨今のチベットをめぐる状況とだぶるように感じ、決して古びないテーマなんだと思った。非暴力を貫くインド解放運動のガンジーやアメリカ公民権運動のマーチン・ルサー・キング牧師の考え方はイエスはいなければ、出てこなかった考え方なのかもしれない。そのイエスとは旧約聖書のイザヤ書にあるようなこんな人である。
「その人には見るべき姿も、威厳も、慕うべき美しさもなかった。
侮られ、棄てられた。
その人は哀しみの人だった。病を知っていた。
忌み嫌われるもののように蔑まれた。
誰も彼を尊ばなかった
まことにその人は我々の病を負い
我々の哀しみを担った・・・・・・」
ダライラマ14世は自分が最後のダライラマかもしれないと言い、けれど、非暴力を訴える。どういうことだ。それが世界に通じない。2000年前にイエスは愛とはこういうことだよと教えてくれたのかもしれないのに。
イヴォンヌ・シュイナードという人の著した「社員をサーフィンに行かせよう」を読んだ。このイヴォンヌさん、最も先端的な環境配慮のなされたアウトドアのスポーツウェアの会社「パタゴニア(patagonia)」の創業者にして、オーナー。この「パタゴニア」、100%ペットボトルから再生された繊維を使ってのフリースとか商品として有名です。いつでも、社員は自由にサーフィンに行って良いとか、服装は完全自由とか、自由なアメリカの中でも「パタゴニア」はユニークな会社であるという。
人類はこの地球上でその役割を終えつつあるのではと刺さる言葉の一方、次世代のためにこの地球の環境を残すために、あきらめずに小さなことでもできることから取り組んでいくべきだという根底には、彼自身の永続している1960年代的、カリフォルニア的、カウンターカルチャー的反骨精神とアウトドア、自然好きの人となりがあるのだ。そして、自然保護論者のデイヴィド・ブラウワーの言葉「死んだ地球からはビジネスは生まれない」という言葉を引用しつつ、ビジネスは継続するほどの少しづつの成長でよい、「パタゴニア」の商品は長く使って欲しい、流行に左右されないデザインと品質がそこにはあると言い、「(株主のためではなく、社員のためでもなく、顧客のためでもなく)地球環境のために「パタゴニア」はある!」という結論に達する。新しい時代の到来を少しだけ感じた。
パタゴニア・ホームページ
戸井十月の「遥かなるゲバラの大地 」とともに読むといい本。戸井氏とは対照的に惠谷氏はあくまでも客観的にチェ・ゲバラの死の前後を検証していく。世界中を舞台にして繰り広げられる冒険小説のようなことが、事実、あったのだ。そこから到達した惠谷氏の短い、この本の終わりの書かれた結論、もしくは感想めいたものにぼくも同感、感嘆する。
チェ・ゲバラは21世紀になり復活した。ゲリラやテロによってか? いいや、違う。貧しい人たちを救おうとする国際ボランティアの活動によって。そして、米国中心の格差を是とするグローバリズム、ネオリベラリズム(新自由主義)にノーを主張する中南米での左派政権の次々の誕生を見よ。今、チェ・ゲバラの子供たちが武器を持たずに活動し始めていると思う。なんて、たくさんの武器を持たないコマンダンテがいることだろう。しかも、チェ・ゲバラには高潔と同時に、古い社会主義的な神格化をかたくなに拒む、何らかの人間性すら伝えられている。貧しい人、困難にあっている人たちを限りなく愛し、優しい、しかも、行動した男の中の男だとも思う。最近のぼくの憧れです。
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プロフィール
HN:
えいちゃん
性別:
男性
職業:
S.E.
趣味:
音楽
自己紹介:
音楽を演奏したり聴いたりするのが好きです。
歌ってしまいます。そしてギターも少々。
Sam CookeやOtis Reddingなど古いR&Bが好きです。
歌ってしまいます。そしてギターも少々。
Sam CookeやOtis Reddingなど古いR&Bが好きです。
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