えいちゃん(さかい きよたか)
えいちゃんのぶろぐ
こんな夢を見た。ぼくは高校にいて、明日が卒業式で、それを仕上げねば、卒業とならないものがある。それは美術の課題で油絵を描いて提出するということなのだ。ショッピング・モールのような大きな高校を早く出て、家に帰り、絵を描かなくてはならない、とぼくは思う。どんな絵を描くかは心の中ではもう決まっていて、襖の格子のようないくつもの窓枠の向こうにたくさん星が輝いているというような絵で、題は「コンスタレーション(constellation)」にしようと思っている。それは、配置とか布置などの意味なのである。頭の中、心の中ではもう絵は描かれ、できあがっていて、早く家に帰って、描き始めたい、とぼくは思っている。
そこで目が覚めた。目が覚めてから"constellation"は「星座」の意味でもあったことにも気が付いた。なぜか、傑作が描けそうな、すばらしい歌が作れ、歌えそうな根拠のない予感をぼくは感ぜずにはいらないのです。
そこで目が覚めた。目が覚めてから"constellation"は「星座」の意味でもあったことにも気が付いた。なぜか、傑作が描けそうな、すばらしい歌が作れ、歌えそうな根拠のない予感をぼくは感ぜずにはいらないのです。
こんな夢を見た。ぼくは大学の古い講堂にいる。そこでは、講義ではなく何かの集会のようで、ぼくが学生だったころの懐かしい人たちが集まっていて、がやがやと人の声が講堂に響いている。一升瓶を持った誰かの、その講堂の入り口の方で、振る舞い酒が出たよ、とおらぶ声がする。ぼくは、そうかと思い、その振る舞い酒をもらいに講堂の外に出る。大学は小高い丘の上にあり、そこから夜の海が見え、月明かりに照らされた凪いだ波の光景がとても美しい。振る舞い酒は体育会や学生のサークルの部屋の集まった学生棟で出るらしく、そこまでの短い道を歩くのだが、その道はとてもぬかるんでいて、ぼくの足は踝のあたりまで泥につかってしまう。ようやく学生棟のところに着き、やっとコップに一升瓶から日本酒をもらおうとして、そのお酒をぼくはこぼしてしまう。もう残り少ないお酒をもらえるだろうか、と思いながら、ぼくは再びコップをさしだしている。
そこで目が覚めた。月明かりの夜の海の美しさが心に残りました。心理学の祖、カール・グスタフ・ユングの説く原型の物語に「夜の航海(night sea journey)」というのがあるそうです。人は太陽で、その太陽は夜になると西の海で怪魚に飲まれ、苦しい旅をして、東の海で怪魚から吐きだせれて、昇ってくる。人生が変わろうとする時、ぼくはいつも水に関係する夢を見てきたような気がします。夜の海の航海でたよりにできるのは月の光だけなのさ。
そこで目が覚めた。月明かりの夜の海の美しさが心に残りました。心理学の祖、カール・グスタフ・ユングの説く原型の物語に「夜の航海(night sea journey)」というのがあるそうです。人は太陽で、その太陽は夜になると西の海で怪魚に飲まれ、苦しい旅をして、東の海で怪魚から吐きだせれて、昇ってくる。人生が変わろうとする時、ぼくはいつも水に関係する夢を見てきたような気がします。夜の海の航海でたよりにできるのは月の光だけなのさ。
こんな夢を見た。ぼくはどこかのダンススタジオにいる。畳敷きのダンススタジオ。ぼくはそのスタジオに久しぶりに顔を出したらしく、踊りの練習に来ているみんなが、久しぶりと、目で合図をしてくる。一人の女の人は、ぼくの手を取り、どこへ行っていたの、みんな、心配していたんだから、何かをさとすかのようなのだ。しばらくすると、「七人の侍」のラストシーンのように、お揃いのスゲ笠と赤い手ぬぐい、木綿の絣の着物の娘たちが、民謡風の音楽に合わせて踊り始める。それを見ながらぼくは、畳に煙草で焦げたような焼け跡を見つけ、それをテープか何かで修繕することを考えている。
そこで目が覚めた。「七人の侍」のラストシーンを知っているかい? 「田植え踊り」とも呼ばれているそのシーンは映画史上に残る最も美しいファイナルだと思う。志村喬の演じる勘兵衛の最後のセリフです。
「今度もまた、負けいくさだったな」
「え?」
「勝ったのはあの百姓たちだ。わしたちではない」
そこで目が覚めた。「七人の侍」のラストシーンを知っているかい? 「田植え踊り」とも呼ばれているそのシーンは映画史上に残る最も美しいファイナルだと思う。志村喬の演じる勘兵衛の最後のセリフです。
「今度もまた、負けいくさだったな」
「え?」
「勝ったのはあの百姓たちだ。わしたちではない」
こんな夢を見た。ぼくは日がな一日、大きな広場のある公園でぼーっとしている。いろんな人が通りすぎていく。すると、前の会社の友だちが散歩をしていて、声をかけられる。サカイさん、何しているですか、と声をかけられ、別に何もしていないよ、とぼくは答える。また、飲み会しようよなどと、ぼくは続ける。友だちは、いいですね、じゃまた、といい去っていく。あの友だちは、テレビやネットでの報道をにぎわしている高級なホテルの親会社の航空会社に勤めているのを、ぼくは思い出し、まともな嘘をつかない普通の会社が日本を救うのかもしれない、と思う。午後もおそくなり、夕方近くなり、いろんな人が家路に急いでいるらしい。犬をつれて散歩をしている人も家路に急いでいる。そんな時、飼い主からはぐれてしまったらしい一匹のビーグル犬がベンチにすわっているぼくにまとわりつき、じゃれついててくる。テレパシーで、ぼくに「撤収」という言葉を送ってくる。見ると、赤い首輪がついていて、雄の犬だ。飼い主は探しているのではないかしら? 家へ連れ帰ったらいいか、警察に届け出て、飼い主が見つからなければ、引き取ればいいか、などと、ぼくは、印象的な「撤収」という言葉とともに、あれこれ考えている。
そこで目が覚めた。起きてネットを見ていたら、ANAインター・コンチネンタル・ホテルに日本の航空会社は出資してはいるが、親会社ではないらしいのを知った。さて、かわいい犬にぼくは「撤収」ということを夢の中で教わったのだが、どうしよう?
そこで目が覚めた。起きてネットを見ていたら、ANAインター・コンチネンタル・ホテルに日本の航空会社は出資してはいるが、親会社ではないらしいのを知った。さて、かわいい犬にぼくは「撤収」ということを夢の中で教わったのだが、どうしよう?
こんな夢を見た。ぼくはどこかにのライブハウスにいる。あたり一面の壁に落書きだらけのライブハウスは大学生の頃の軽音の部室のようで何やら懐かしい。そこのライヴハウスは壊れかけたような間仕切りで、ミキシングコンソールのあるところが区切られている。そこには窓にはガラスははまっていない。ぼくはミキサーの隣にいる。客席は全部で五十席ぐらきて三十席ほど埋まっている。ちらほらと若い女子がおり、なぜだか、その人たちは、昔の大学時代に出会った人のようでもあるのだ。そのステージに死んでしまったぼくの友だちがアコースティックギターも持って現れ、歌い始める。その歌は河島英五の「酒と泪と男と女」であることにぼくは驚く。ぼくの知っている彼はロックンロールやブルースの英語の歌しか歌わなかったのだ。いつのまに、こんな日本の歌を歌うようになったのだろうとぼくは感心し、それにしても、相変わらず歌がうまいなと思う。
そこで目が覚めた。ところで、死んだ人に心のどこかで引け目を感じてしまうのはぼくだけだろうか? と同時に生も死もつながっているとも思う。だから悪夢ではないこんな夢を見るのかしら。夢で会う彼らは、いつも、とても穏やかなのです。
そこで目が覚めた。ところで、死んだ人に心のどこかで引け目を感じてしまうのはぼくだけだろうか? と同時に生も死もつながっているとも思う。だから悪夢ではないこんな夢を見るのかしら。夢で会う彼らは、いつも、とても穏やかなのです。
こんな夢を見た。退職日にぼくは会社を去るために、エレベータに乗っている。そこで久しぶりにある女の人に出会い、ぼくはこんな言葉をかける。よっ、久しぶり、これで会社に来ることもない、今日がぼくにとってこの会社の最後の日だから、居酒屋にでも行って飲もうよ。その女の人は、いいよといい、いいお店、知っているよ、ついて来て、ともいう。ぼくは彼女の後をついていくと、繁華街からどんどん離れ、知らない森の中の公園のような所に着く。そこでは、会社のみんなが古新聞を広げ、食べ物や飲み物を出し合い、宴会をしていて、彼女とぼくは、その集団にまぜてもらう。だんだん、夜もふけて寒くなってくる。ぼくは、みんなにぼくの家に行って、続きをしようと声をかける。みんなはぼくについて来て、ぼくの家の大きな広間で宴会の続きをする。そこには社長もいて、やっと、社長になれたよと、安堵するかのようにしみじみと述懐する。ぼくは、よかったですねとねぎらいの声をかける。だんだん、三々五々、人々は帰っていく、エレベータで会った彼女とぼくだけになる。彼女は、わたしも帰らなきゃというので、駅まで送っていくよとぼくはいう。彼女が駅までの帰り道に、わたし、悪い男に引っかかって、性病を移されたこともあるのよ、というので、ぼくは見かけによらずに、大変だなと思う。そうだ、最後の日だから、携帯の電話番号を教えてもらっておかなきゃと思い、彼女に携帯の電話番号を教えてよと言う。彼女は、いいよ、ちょっと待っててといい、どこかに駆け出し、姿が見えなくなる。ぼくは、彼女を探しながら、駅まで歩いて行く。駅にはさっきまでのぼくの家で飲み食いしていた人たちがたくさんいて、どこか別の駅まで電車で乗って行って、二次会に行く算段をしている。二次会に行けば、さっきはぐれてしまった彼女に会えるはずだと思い、ぼくは改札に向かっている。
そこで目が覚めた。フランスのレオン・カラックス監督が日本を舞台に映画を撮ったなら、ありそうな場面だなぁとか自分の見た夢を褒めすぎ。性病云々は最近、再読している山崎洋子さんの著した「天使はブルースを歌う」の終戦直後の横浜の話としてその話はもろ出てきます。ぼくの家には大きな広間とかはないのだけれど、なんとなく幸せな夢でした。
おわりははじまり。
そこで目が覚めた。フランスのレオン・カラックス監督が日本を舞台に映画を撮ったなら、ありそうな場面だなぁとか自分の見た夢を褒めすぎ。性病云々は最近、再読している山崎洋子さんの著した「天使はブルースを歌う」の終戦直後の横浜の話としてその話はもろ出てきます。ぼくの家には大きな広間とかはないのだけれど、なんとなく幸せな夢でした。
おわりははじまり。
こんな夢を見た。ぼくと亡き父はどこかのデパートの屋上の動物がいたり、遊戯施設のたくさんあるところにいる。いわゆる、昔ながらのデパートの屋上というやつだ。そこで、たくさんの小さな猿が放し飼いにされている。その猿のうちの一匹を父は父の肩にのせる。父の手にはいろんなお饅頭の入った白いビニール袋を下げている。父とぼくは歩いて家に帰ってゆく。肩にのせた猿を父は、ぼくの肩に渡し、すぐに馴れるよと、と言う。ぼくに肩にのった猿はぼくの体にしがみつきながら、下の方に行き、ぼくの足の踝あたりにしがみつき、ぼくは歩いて行く。ぼくと父は家に着き、父は手に持ったお饅頭の入ったビニール袋を居間の大きなちゃぶ台に置き、ぼくにしがみついた猿はおとなしく居間で座っている。その居間に母が入って来る。ぼくは、こんなものは飼えるわけないじゃないの、激怒するかと思いきや、かわいいねぇ、と言い、ビニール袋に入っていたお饅頭を小さな猿に食べさす。猿はおとなしく、おいしそうにそれを食べている。
そこで目が覚めた。猿って知恵者だという気がするな。手話を憶えたゴリラのココは、ある時、こんなことを言ったという。
「私はゴリラ。私は花。私は自然。ココは人間が好き。地球が好き」
「でも、人間は愚かだ。ココは残念。ココは泣く。時間がない。地球を助けて! 地球を守って! 自然があなたの行動を見ている」
「ありがとう」
そこで目が覚めた。猿って知恵者だという気がするな。手話を憶えたゴリラのココは、ある時、こんなことを言ったという。
「私はゴリラ。私は花。私は自然。ココは人間が好き。地球が好き」
「でも、人間は愚かだ。ココは残念。ココは泣く。時間がない。地球を助けて! 地球を守って! 自然があなたの行動を見ている」
「ありがとう」
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プロフィール
HN:
えいちゃん
性別:
男性
職業:
S.E.
趣味:
音楽
自己紹介:
音楽を演奏したり聴いたりするのが好きです。
歌ってしまいます。そしてギターも少々。
Sam CookeやOtis Reddingなど古いR&Bが好きです。
歌ってしまいます。そしてギターも少々。
Sam CookeやOtis Reddingなど古いR&Bが好きです。
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