えいちゃん(さかい きよたか)
えいちゃんのぶろぐ

竹橋の国立近代美術館に「ゴーギャン展」を見に行った。ゴーギャンというとサマセット・モームの「月と六ペンス」という小説を思い出す。どの流派にも属さない19世紀末の絵かきの異端児、反逆児は月のような手に届かない最高に美しいもの求めながら、六ペンスに苦しんでいた。つまり、貧乏とまわりの無理解。34歳で絵筆を取り始め、55歳で1960年代のロックスターのように薬物の過剰摂取によって南の島で逝ってしまうまで終生、それはつきまとった。
「我々はどこから来たのか、我々は何者なのか、我々はどこに行くのか」という大きな絵が飾られた部屋の中に入ったその時、ぼくに鳥肌すら立ったのだった。
「月と六ペンス」のことを一生懸命ぼくに話してくれた友だちには、最近会っていないけれど、どうしているんだろう? 今度会ったときには、きみに新しい歌を聞かせてあげる。


人材紹介会社に面談に行った。求人自体が、去年の秋からめざましく減って、今は最盛期の半分以下なんだそうだ。転職斡旋会社も大変らしく、ぼくの担当として話してくれた人は、別れまぎわに、求人企業に向けての新規営業の話などのことを言っていた。
この面談に来る途中の道で煙草を入れたポーチを知らない人に拾ってもらった。歩いていると、後ろの方から、落としましたよの声がして、それはぼくのことだった。その気遣いがうれしかった。人材紹介会社で面談してくれた人もとても誠実な人で親身なアドバイスをいだたけた。うれしかった。誰かにこのやさしさを返したいと思った。
その足で上野の国立博物館に行った。阿修羅展が開催されている。仏像を見に来る人は、おじぃさん、あばぁさんばかりかと思っていたけれど、老若男女さまざまな人が来ていた。かなりの混みようで、博物館に入るまで一時間半ほどかかった。人々のざわめきの中でいろんな仏像を見つめていると、一人、平和な静寂に引き込まれるようだ。不思議。ぼくの後ろにいる人は誰だろう?
(写真の女性はたまたま写ってしまった知らない人です。こういう若い女性もいっぱい見にきていました)




イリヤ・カバコフというロシア出身の現代美術家(今はニューヨーク在住で現代の最先端を行くインスタレーション作品を発表しつづけている)がソビエト連邦時代に描いた絵本とその原画を一同に集めた展覧会に世田谷美術館に行ってきた。
100冊分もの絵本の原画を見ながら、昔、このような科学と空想の夢物語があったなぁと思う。当時はソビエトの社会主義の完全な言論の統制下にあり、すべてにおいて、厳密な検閲のもとに置かれたこれらの作品をカバコフ自身は、自分で描いたものではでありながら、自分で描いたものではなく、彼ら(ソビエトの当局)が描いたものであると、今は述懐しているし、これらを「紙クズ」とも呼んでもいるそうだ。しかし、この懐かしさは何だろう。科学の技術の進歩と勤勉な労働がもたらす明るい未来と教訓。作品のとことどころに白く塗りつぶされた跡や作品に紙が貼られ、あるものはそのまま白い紙のままであったり、更に描き加えられたあとは、多分、その検閲の跡であるだろう。その塗りつぶされた何かとは何だったんだろう? 想像力がふくらむ。もう一つの今はない社会の中で、これらの絵は、ぼくたちの社会の中での、商品を売らんが為の大量の広告物のもののようなものであったりするのかもしれない。それらの背景とは別に、たくさんの水彩画は不思議なかわいらしさ、美しさに満ちていて、ぼくを惹きつけもしたのだ。
これらの公開された、当局の意のまま作品とは別に、過酷な抑圧下にありながらも、密かに描かれつづけられた作品があるのだが、今回の展覧会では見ることはできなかった。ぜひ、それらをこの今回見れた、平凡で穏やかで明るく美しく、なぜか懐かしい絵本作品と並べて見てみたい。
