えいちゃん(さかい きよたか)
えいちゃんのぶろぐ

町田の芹ヶ谷公園にある町田市立国際版画美術館での『日本の版画1200年―受けとめ、交わり、生まれ出る』を見ました。日本における版画の海外から移入と日本での変性、日本の版画の創出ということの展覧会でありました。
日本における版画の歴史は奈良時代の小さな仏塔に納められた小さな経文の印刷に始まり、今の横尾忠則や靉嘔の現代版画にまで続く。江戸時代の浮世絵版画の隆盛は、ヨーロッパの芸術に大きな霊感を与えるのだけど、ぼくはその浮世絵版画のもっとも遅れてやってきた後衛の小早川清や川瀬巴水の芸術に惹かれてしまいます。と同時に、芸術は時代を写す鏡のようであって、日中戦争の始まった1937年に日本と中国の紐帯は切れ、その後の不幸な時代が苦々しい。しかし、戦後、希望の方へと向かい、民衆を巻き込みもした新しい版画運動すら起こるのです。それは、常に、受けとめ、交わり、生まれ出るのです。


国立近代美術館で『ヒルマ・アフ・クリント展』を見ました。19世紀後半に生を受けたヒルマ・アフ・クリントは100年の時を経て、21世紀となって発見され、もっとも早い抽象絵画を描いた人と呼ばれています。
彼女の大きな絵を見ていると、心が吸いこまれ、それはアストラル界へエーテルとなって広い世界に移行し、どこまでも天上に向かって、上昇するかのようです。と同時に、エマヌエル・スヴェーデンボリからルドルフ・シュタイナーの神智学と人智学へのスウェーデンのキリスト教神秘主義の伝統があって、さらにさかのぼれば、ケルトの神秘思想がありそうです。けれども、ぼくはキリスト教の選民思想が好きではありません。実際に今でもそれは世界に破壊と混乱をもたらしていることに疑いはありません。
絵のキャプションの解説を見ながら、ふと、19世紀から20世紀への端境期、電波や放射能などの目に見えないものの機能が発見されたことに、何かを感じることも、ぼくにはあるのです。ヒルマ・アフ・クリントの絵は素晴らしい。彼女の探求心。けれども、ぼくは、日本には稲荷の神威の稲荷神社があるなどと、妙なことを思い浮かべてもいるのです。
ヒルマ・アフ・クリント 10の最大物 ヒルマ・アフ・クリント財団蔵 #ヒルマ・アフ・クリント展


横浜美術館にリニューアルオープン記念展『おかえり、ヨコハマ』を見に行きました。横浜美術館の収集は16,000点以上にも及び、今や国内有数の美術館であり、今回のリニューアルとは収蔵庫を大幅に拡張したとのことです。こんな美術館のある市の市民の人たちがうらやましくもあります。
『おかえり、ヨコハマ』では横浜という町にまつわる美術館の収蔵作品を中心に、さまざまな絵や彫刻、写真などを見ることができました。この展覧会を見ながら、横浜は近代以降の日本の矛盾を先鋭的に現れところでもある、とぼくは思ったりします。松本竣介の「Y市の橋」を見ながら、たしかに「Y市」とは「横浜市」のことだ、とぼくは感嘆のため息さえもらしたのです。


『ヒルマ・アフ・クリント展』を見に、竹橋にある国立近代美術館に行ったのだけれど、『ヒルマ・アフ・クリント展』は会期前で、常設展を見てきました。こなように常設展をじっくり見るのもひさかたぶりのような気がします。
いつものように第二次世界大戦下の戦争画が数点、展示されていて、その中に藤田嗣治の「血戦ガダルカナル」もありました。戦時下の兵士たちの獣性を表現して限りなく、その大きな絵は、まったくの地獄の図を呈している。このような絵を戦時協力の絵として、時の軍部政権の政府に提供した藤田嗣治とは何ものなんだ? 戦中、藤田は、仲間の画家に、日本は負けますよ、そうすればわれわれの時代だ、ここがききますからね、と自らの腕を軽くたたき、にやっと笑った、という。戦後、藤田は戦時協力の批判にあい、自身の芸術の故郷、フランスに戻り、二度と日本に帰らなかった。藤田嗣治とは何ものなんだ?
会田誠の「美しい旗」を見て、これは危険な絵だという気がした。ぞっとするような全体主義への誘惑? 戦争だ、若者よ、体を鍛えておけ? むしろ、おれは、光り輝き、一人で屹立する病者の精神に共感するのだよ。
会場を歩き、日本画の展示場の菊池芳文の「小雨ふる吉野」に心休まり、しばらくは見とれていた。この絵には癒されます。最近、日本画が分かってきたような気がします。
『ヒルマ・アフ・クリント展』は3月4日(火)からだそうで、楽しみです。




恵比寿駅から歩いて15分ぐらいのところにある山種美術館で『HAPPYな日本美術
―伊藤若冲から横山大観、川端龍子へ―』を見ました。日本の吉祥の絵を見て、寿ぎましたよ。
横山大観って、何か、オリエンタリズムの画家というようような気がして、どこか軽蔑していたのだけれど、実物の絵を見ると、全然、違うのですね。富士山を描いた「心神」の飾りのない美しさよ。やはり、絵は本物を見なくてはなりませんな。反省いたします。岡倉天心らとともに西洋化の波に抗い、日本美術の再興を志した大観の心はいかに? 小松均の見事な「赤富士図」を見ながら、ぼくには伝統は変わりながら受け継がれるもののような気がするのです。
『HAPPYな日本美術』には、かわいい絵もいっぱい。川端龍子の象を描いた「百子図」と鯉を描いた「鯉」が、とうてい同じ画家の描いたものとは思われないのです。幅広い作風だのう。
余談ながら、山種美術館の中にあるカフェで抹茶をたのんでみました。抹茶がこんなに甘くて、美味しいものだとは知りませんでした。
あー、七福神、松竹梅、富士、鷹、茄子、鶴、雉、鶏、象、蛇、蛙、鯉、鯛、蛸、牛、獅子、鹿、たくさんの幸せの絵をありがとう、おめでとう。


駒場公園内にある日本近代文学館で『協力企画展 三島由紀夫生誕100年祭』を見ました。『協力企画展』となっているのは山中湖文学の森三島由紀夫文学館との協力というこであろう。来年の1月14日が三島由紀夫の誕生日で生誕から100年だそうです。それは昭和100年ということでもあります。小さな展覧会でした。
1970年11月25日に自衛隊の駐屯地で撒かれた檄文が大きなパネルとなって展示されていました。ぼくはそれを全文、読んでみましたが、その文が最後の小説である『豊饒の海』や後期の最も重要な短篇である『英霊の聲』とどう繋がっているのか分からず、むしろ、大きな矛盾のようでもあるようで、困惑してしまいます。
三島由紀夫は自決の直前に自身の展覧会を開いていて、それは「書物の河」「舞台の河」「肉体の河」「行動の河」の四つの河に分かれ、すべてが、「豊饒の海」へ流れ入るように構成となっていたそうです。小説『豊饒の海』の帰結を知っているぼくは、それが空恐ろしいようにも感じるのです。
ぼくの父は三島由紀夫の数歳、年下ですが、戦争というものを知っている世代です。その父が話していたことですが、数歳、年上の父の同僚が会社を定年で退職した時、その退社式の終わりに、いきなり、皇居の方に向かい「天皇陛下万歳」を三唱をしたそうです。三島由紀夫のような多くの市井の人もいたのでしょうか?
三島由紀夫の書いた手紙も展示されていました。その中で、ニューヨークからの手紙で、同じくニューヨークに来ていた大江健三郎と落ち合い、楽しく過ごしたことなども書かれていて、ぼくは何だか、ほっとしてしまいました。
三島由紀夫を読んだことのない人は、是非、『潮騒』か『近代能楽集』、『午後の曳航』のどれかを読んでみてください。どれも長い小説ではありません。それが面白いとなれば、最後の小説となった四冊の長篇の『豊饒の海』をお勧めします。


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プロフィール
HN:
えいちゃん
性別:
男性
職業:
S.E.
趣味:
音楽
自己紹介:
音楽を演奏したり聴いたりするのが好きです。
歌ってしまいます。そしてギターも少々。
Sam CookeやOtis Reddingなど古いR&Bが好きです。
歌ってしまいます。そしてギターも少々。
Sam CookeやOtis Reddingなど古いR&Bが好きです。


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