えいちゃん(さかい きよたか)
えいちゃんのぶろぐ

山岡淳一郎さんの著した『木下サーカス四代記』を読みました。
香具師の出し物から始まった木下サーカスを歴史をたどることは日本の教科書の歴史には載らない東アジアのそのもっとも東にある国の影もあり光もある本当の近代史と現代史を紐解くことのようでもあるようです。
読みながら、一度だけ見たことのある木下大サーカスの目の前でみたライオンの大きなお尻を思い出して、また行きたくなってしまう。木下大サーカスのホームページを見てみると、今は新潟で興行をしているみたいです。また横浜に来ないかなー。それとも返還される予定の米軍の補給廠とかではどうだろう? だって、この『木下サーカス四代記』を読んでも、今や世界中の人たちが国境を越えてやってきて、素敵でファンタジックなショーを繰り広げている木下大サーカスって、平和がもっともあっているよね。
木下大サーカスよ、永遠なれ!


「奉納靖國神社夜桜能」を観に行きました。満開を過ぎ、葉も見えだした桜のその花びらが、ときおり目の前を舞っていきます。三日、続けて催される今夜の題目は仕舞に「忠度」、「玉之段」、狂言に今をときめく野村萬斎演ずる「成上がり」、そして、能が「鷺」でありました。
「鷺」の話の筋は難しくなく、夕涼みに来られた帝の御一行の前の水上に鷺が現れ、帝は鷺を捕まえて参れと蔵人に命ずる。翼ある鳥を蔵人はなかのか捕まえられないが、帝の勅命だと鷺にいうと、おとなしく鷺は捕まる。帝は神妙であるとお喜びになり、蔵人と鷺に五段の位を授ける。鷺は喜びの舞を舞い、帝の許しを得て飛び去る。帝の御一行も夕涼みの池の庭を後にする。
すべての演者が舞台から去り、後には能楽堂の松の絵のみ残され、その余韻の深さに静まった心の内が感動し、涙のひとしずくもぼくの頬につたわるようなのでした。素晴らしかったです。








渋谷のサクラホールに『沖縄のウタ拝2022』を見に行きました。
二部構成の一部の後、右隣にいた女子がそのまた向こうの女子に、どうだった、と聞かれ、沖縄のうらみつらみを感じた、と答えていましたが、その声は涙に濡れているようでした。
音楽と映像て綴られる沖縄の近現代を表した叙事詩は、その願いと祈りで未来を照射するよう。
フィナーレはCoccoの踊り。子どものころバレエをしていたというバレリーナそのもののほっそりとした手足の長い彼女の全身を舞わせる踊りの美しさは沖縄そのものでもあるようなのです。
劇場を出て、ぼくは、戦争のない世界に行きたいな、と思っていました。戦争のない沖縄では足りません。戦争のない日本でも足りません。ぼくは戦争のない世界に行きたいのです。
沖縄のウタ拝 2022


銀座にある観世能楽堂に『能 山姥 長杖の伝』を見に行きました。開演を椅子に座って待っていると、シテって何かしらね、という隣からひそひそ話の声が聞こえてきます。ぼくは主人公のことです、とは答えませんでした。見始めればすぐに分かりますからね。村上湛さんの解説の後、能が始まります。村上さんはこうおっしゃます。
「「山めぐり」とは何か…見るものを深い思念に誘う劇的主題である」
観世能楽堂で購入した本『能面の世界』で見市泰男さんは山姥の能面について、こう解説しておられる。
「能の山姥は風貌怪異だが、化物ではなく、深山幽谷の主であり宇宙の象徴ともいえる超自然的な存在である」
『能面の世界』に載せられていた昭和の文豪、野上弥生子の能についての言葉。
「あらゆるものが有って、しかも無にまで及んでいる能面は、その本質をなにより明らかに示すものといふべきである」
なるほどです。ぼくは日本の伝統と美の劇と音楽を堪能しました。能は素晴らしい総合芸術です。
