えいちゃん(さかい きよたか)
えいちゃんのぶろぐ

千駄ヶ谷の国立能楽堂で能楽鑑賞をしました。能楽とは、狂言も能楽だそうで、能も能楽なんだそう。
今日の国立能楽堂では、狂言は和泉流の「節分」を舞い、演じておりました。どのような話かというと、蓬莱から人の世に鬼がやって来て、ある女の人をみそめ、鬼がその女の人に向け、さまざまな舞いを踊ります。この鬼の恋は実りますでしょうか? ここでは、ぼくは申しますまい。なるほど、節分のときの「福は内、鬼は外」はこういうことであったのかと合点がいきました。
能は金剛流の「松風」。シテ(主人公)はやはりいつものように死者、霊で、恋にもの狂いとなった女、姉妹の二人の話でもありました。ぼくはいつものように、負けたもの、敗れたものへの共感を隠さない能の芸に圧倒され、感動せずにはおれません。素晴らしかった。


藤沢の遊行寺の本堂でProject Nxyによる白石征さんの作、金守珍さんの演出、水島カンナさんの構成の『女歌舞伎「小栗判官と照手姫~愛の奇蹟~」』を見ました。現代的でもある『女歌舞伎「小栗判官と照手姫」』は伝統的でもありながら初々しい。古い日本の物語が若い力によって今に伝わっていくことが嬉しい。構成も手がけている水島カンナさんの演ずる餓鬼阿弥が登場し、それは変わり果てた小栗判官の姿で、「一引き引いたは千僧供養、二引き引いたは万僧供養」の照手姫の言葉とともに霊験あらたかな熊野の湯への旅に出立し、ぼくの胸は熱くなる。
「小栗判官照手姫」は元は説教節の「をぐり」で歌舞伎や浄瑠璃にもなっている古い物語で、日本の古い物語の中でぼくが一番に好きな物語でもあるのだが、これの能楽がないのはどうしたことか? あぁ誰か、新作能の「小栗判官照手姫」を作ってはくれまいか。いつか歌舞伎や浄瑠璃の「小栗判官照手姫」も見たく存じます。それから、何十年も前に見た、この前に亡くなった遠藤啄郎さんの演出した横浜ボートシアターの『小栗判官・照手姫』も忘れられない。
芝居の鑑賞の後、寺内にある小栗判官と照手姫の墓に行き、手を合わせました。照手姫の墓を枝垂れた白い梅が飾っておりました。そこで一句です。
照手姫枝垂れた白い梅の夢
あっ、忘れていた、今日はぼくの誕生日でもあった。踊念仏の一遍上人、時宗のここは総本山で、さっき公演のされていた本堂にお参りし、御佛籤をひけば大吉。
「そのかみは
幾代経むらむ
便りをば
千歳もここに
まつのをのてら
善因善果の御先祖様以来の長い功徳によって前途に幸福が約束されています
この幸運を逃すことなく酒色をつつしみ慈愛と和敬の心を保ちましょう
運勢 大吉」
ゆめゆめうたがふことなかれ








浅草演芸ホールの寄席通い。おしどりの針金細工やアコーディオン、テルミンの演奏をとりまぜた楽しい漫才の後、二人の巨匠登場。古今亭文菊師匠の「替り目」と春風亭一之輔師匠の「呑める」。そして、翁家社中の曲芸につづいいて主任は大御所の春風亭一朝師匠で「野晒し」。世界は暗く、何か胸にひっかかるけれど、せめても寄席では笑っちゃおう。笑いました。
寄席に来る前に、浅草寺にお参りをし、御神籤をひくと大吉でした。
「手把太陽輝 手に太陽の輝きを把って
東君発旧枝 東君旧枝に発ひらく
稼苗方欲秀 稼苗方まさに秀でんと欲し
猶更上雲岐 猶更なおさらに雲岐うんきに上のぼる
手ずから太陽の光を把って、東君(春)が枯れ枝に花を開かせた。
稲の苗も秀で伸びようとし、その勢いの良さは、雲路にまで達するかのようである。」
ゆめゆめうたがふことなかれ


国立能楽堂に能楽を見に行きました。
見た狂言は和泉流『梟山伏』。梟の巣を取り除いてしまい、梟に取り憑かれた人なかろではなく、加持祈祷する僧侶も取り憑かれてしまう滑稽話。
能は観世流『巴』。木曽義仲につかえた女武士、巴御前が添い遂げられなかった悲しさを語る。プレトークとして、観世流のシテ方の安藤貴康さんの能とはどのようなものなのかの解説付き。能とは神仏への捧げ物であるのは、松の描かれた舞台の鏡板から、やさしく解きおこしていただけました。能は深くて、いいなぁ。後シテの登場の詠じた言葉がとても印象的だったので記しておきます。
「落花空しきを知る。流水心無うして自ずから。澄める心。たらちねの罪も報いも因果の苦しみ。今は浮かまん御法の功力に。草木国土も成仏なれば。況んや生ある直道の弔ひ。かれこれ何れも頼もしや頼もしや。あらありがたや」
