えいちゃん(さかい きよたか)
えいちゃんのぶろぐ

岸田秀さんの著した『ものぐさ精神分析−増補新版』を読了した。この本は高校生の頃、読んでことがあって、二度目の読書でもあるのだ。
岸田秀ってどんな人と和光大学に通っていた友だちにたずねたことがあるのだが、鬱病っぽい人だよと答えられたことがあったのを思い出す。
この本のほとんどの文章が、岸田さんの考える一つの真理の変奏のように思われる。その真理とは、「人間は本能の壊れた動物であり、「幻想」や「物語」に従って行動しているにすぎない」とする「唯幻論」なのだ。
岸田さんは「我発見被殴打的根本原因」の中で小学生の頃は軍国主義で、よく教師に殴られ、大学で教師になってからは学生に殴られるようになったというのには、不謹慎ながらも、ぼくは笑ってしまう。これも幻想だろうと学生から殴られたとどこかで聞いたことがある。
「わたしの原点」の中では自らの強迫神経症や幻覚を治癒せんがために、フロイト派の精神分析の本を読みあさり、継母との関係における抑圧を発見する。すると、強迫神経症と幻覚はほぼ寛解となったそうだ。
岸田さん自身もこの本の中で少しはふれているのだけれど、ぼくは、岸田さんの生まれたのが1934年だったことも大きかったのではないかと思う。生まれてから11年間、「天皇」という強い「幻想」と強い「物語」の中にいて、その後も「天皇」の「幻想」と「物語」は「民主主義」に抑圧されながらも、社会のもっとも底のところを流れてきた。坂本龍一さんや浅田彰さんのいうところの野蛮な土人としての日本人の思想である。今、柄谷行人さんは、左派の文芸批評家のポール・ド・マンの擁護するベルギー王室についてこのようにいう。
「なぜベルギーではいまも王政が健在なのか。ド・マンを通じて考えて、分かったことがある。ベルギーは、フランス系とドイツ系と、フランドル系が合わさった国なんですね。民族的、宗教的一体性がない。何でまとまっているかといえば、王政によってです。王がいなくなったら、おそらく統一が保てなくなってしまうような国なんだ。王は、ただ存在していればいい。」
まるで日本の象徴天皇制ではないか。佐藤優さんは天皇について考える時、エマニエル・トッドの『西洋の敗北』を射程に入れなくてならないと主張する。野蛮な土人としての日本人の「幻想」と「物語」は何をもたらすのか、今、岸田秀さんに問いかけてみたくもあるのです。
ものぐさ精神分析 増補新版 -岸田秀 著|中公文庫


岸田秀さんの著した『続 ものぐさ精神分析』を読了した。この本は高校生のころ読んだことがあって、二度目ということとなるだろうか? 半世紀近く前に出された『二番煎じ ものぐさ精神分析』と『出がらし ものぐさ精神分析』の2冊の単行本から、よいと思う論文、批評文を岸田さん自身が選び、1冊の単行本にまとめたものが『続 ものぐさ精神分析』で、ぼくが高校生のころはよく読まれていたのだけれど、その内容の多くが古くなっていないことに驚いてしまう。
高校生のころも「性的唯幻論」などと称し、すべては幻想だと説く和光大学の教授であった岸田秀さんに、何やら胡散臭いものを感じながら、面白く読んでいたという記憶がある。ぼくはこの後、二十歳を越えたころから、岸田さんが師とするフロイトの精神分析ではなく、河合隼雄の説くユングの心理学に惹かれるのだけれど、『続 ものぐさ精神分析』の一章をさかれて書かれたユング心理学を批判である「ユングの元型について」は確かに鋭く、根本からの批判となっている。
しかし、今、ぼくがこの本で最も読みたかったのは、それではなく、来年の三島由紀夫百年生誕祭を控えての、岸田秀さんの「三島由紀夫の精神ははじめから死んでいた。この現実の世界に生きているという実在感の欠如に、彼の文学、その他の活動を解く鍵がある。」の書き出しから始まる「三島由紀夫論」なのだ。岸田秀さんの「三島由紀夫論」は、百年生誕祭を前に盛り上がるぼくの三島由紀夫熱を、甘いか、苦いかは分からぬが、良薬となってほどよく冷ましてくれるようなのだ。
ぼくは高校生のころから三島由紀夫の小説を面白いと思ったけれど、三島由紀夫の『金閣寺』よりも水上勉の『金閣炎上』の方が高く評価できると思った。三島文学マニアの瀬戸内寂聴さんはインタビューで「三島さんの作品って、文学というより、工芸品みたいなのよね」とおっしゃっていた。三島由紀夫の文学を愛するポール・シュレイダー監督の日本では公開されなかった『Mishima: A Life In Four Chapters』では、その背景が、市ヶ谷の自衛隊でのシーンを除いて、すべてハリボテのリアリティのないものとなっていた。ハリボテのおもちゃのような金閣寺やハリボテのおもちゃのような靖国神社が出てくることに、ぼくはなるほどと首肯した。
最近、三島由紀夫の『金閣寺』の題がもともとは「人間病」であったことが書簡によって発見されたが、どうしてぼくが三島由紀夫に惹かれるのだろうかといえば、正確には分からぬが、それはニーチェのいわんとする「病者の光学」といったものかもしれない。
続 ものぐさ精神分析 -岸田秀 著|中公文庫


鯨庭さんが漫画を描いて著した『遠野物語』を読む。原作は民俗学という日本独自の学問を確立した柳田国男。監修と解説は現在、東京学芸大学で名誉教授をされている石井正巳さん。6つの漫画から成り、それは「プロローグ」、「馬と花冠」、「河童の子」、「狐は夢」、「おおかみがいた」、「エピローグ」。
「馬と花冠」などを読むと、現代の世界文学のようだ。古くならないというよりも今という時代にこそ通じる何か特別なものがあるようなのだ。「おおかみがいた」を読むと、ぼくたち、日本人が日本狼という野生動物を滅亡させた民族であることに、あらためて気づかされ、胸に痛みを感じる。そして、柳田国男は日本で最も重要で、偉大な思想家であり、文学者、活動家であると思う。
「遠野物語」鯨庭 [コミックス(その他)]


山内若菜さんの著した『いのちの絵から学ぶ −戦争・原発から平和へ』を読みました。本を読みすすめると、ぼくが2021年に初めて原爆の図丸木美術館で山内若菜さんの絵を見た時のことを思い出します。ぼくは山内さんの絵ではなく、丸木位里、丸木俊の合作による「原爆の図」を見に行き、そこに山内若菜さんの絵も展示されていた、その山内さんの絵を見て、鳥肌が立つほどの感動を覚えたのでした。それから、山内さんの絵の展示される展覧会には何度か足を運ぶやうになりました。『いのちの絵から学ぶ』はそんな山内さんの絵を描くかたわら、もう一つの重要な活動である中学校、高校、大学でのいのちを芸術鑑賞授業、移動型展示講演会をまとめたものであり、そこには自伝的な内容も含まっているものでありました。
この本を読むと、驚くは、日本の芸術界というか画壇が、「平和」と「政治」ということをタブー、禁忌として扱い、表立って表現してはいけないこととしていることを知りました。そこからはみ出した山内若菜さんの苦闘と展示を含めた新しい表現の模索が始まり、抽象から具象の変化ともなったのかとも思い、驚いております。今のもっとも注目すべき芸術家である山内若菜さんの芸術をいろんな人に見ていただきたい。山内若菜さんの絵は、絶望から希望の光のさす圧倒的な塊です。
いのちの絵から学ぶ


半藤一利さんの著した『其角俳句と江戸の春』を読みました。宝井其角の俳句とそれに伴う半藤一利さんの一頁と少しのエッセイを読めば、この本からは江戸の涼しく気持ちのよい風が吹いてくるかのようですな。と同時に、ぼくは柄谷行人さんの著した『日本近代文学の起源』などを思い出してしまいます。江戸の世までは「俳諧師」と呼ばれ、明治による近代の訪れから「俳人」と呼ばれることになったのは、跳躍なのか下降なのかは、ぼくには分からぬ。正岡子規の「写生文」のことなども考えてしまう。『其角俳句と江戸の春』によれば、中国の古典、日本の古典、故事を知っていれば、さらに深読みでき、ふむふむなるほどと首肯できる句も宝井其角の俳句にはたくさんあるのだが、それよりも、ぼくは江戸の風に吹かれたいだけなのかもしれません。
其角俳句と江戸の春


石橋学さん、板垣竜太さん、神原元さん、崔江以子さん、師岡康子さんの著した『「帰れ」ではなく「ともに」―川崎「祖国へ帰れは差別」裁判とわたしたち』を読了しました。板垣竜太さんの書かれた「第4章 在日朝鮮人にとっての「帰れ」ヘイト」や崔江以子さんさんの書かれた「第6章 「帰れ」ではなく「ともに」」を読むと、この国にある外国人への差別は苛烈で、読み進めるのに、心は苦しく、辛くなる。
さて、自分に立ち戻れば、ぼくは人生のどこかで差別をしたり、そのような言葉を発しなかったかと問えば、何か胸苦しい。ぼくは確かに日本に生まれ、育ち、生活している日本人だけれども、今、ぼくはどこであらうと、外国人への差別の言葉を聞くと、その差別の言葉を発した人とは、やはり友だちにはなれないのだろうと諦めて、すーっと遠ざかり、距離をとってしまう。ぼくには友だちはいないような気もしてくる。自分の人生にとって、これがいいことなのか、よくないことなのか、正しいことなのか、正しくないことなのかも判然としない。昔、そのような言動を聞いて、行かなくなったバーもあった。もっと心を開いて、差別はいけないといったらどうだろうかとも、ふと思うのだけれども、そのようなことをする勇気も度量もない、心貧しいぼくは、差別のなくなることを願うばかりで、この本『「帰れ」ではなく「ともに」』に肯き、ページを閉じたのです。
「帰れ」ではなく「ともに」 - 株式会社 大月書店 憲法と同い年


島尾敏雄の著した『死の棘 短篇連作集』を読了しました。名作とのほまれの高い長篇の『死の棘』の前に書かれた原型にして、生々しい短篇小説で、昔、日本の文学には「私小説」というジャンルがあったことなどを思い出し、つげ義春の漫画を連想したりします。この『死の棘 短篇連作集』は大変な小説で、読み進めるのも辛くなることもあります。ふと、LGBTQももちろん含めて、1000組のカップルがいれば、1000通りの愛があるはずだとも思ったりします。しかし、この小説にでてくる愛は苦しすぎるのです。ふと、子はかすがいなどといいますが、かすがいにされた子どももたまったものではない。しかし、敏雄とミホの物語は通り過ぎ、作品は残り、人は去ってゆく、そのような愛の記憶となった愛の記録の物語『死の棘 短篇連作集』に真実はあるのではないでしょうか。
島尾 敏雄 - 単行本 死の棘 短篇連作集


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プロフィール
HN:
えいちゃん
性別:
男性
職業:
S.E.
趣味:
音楽
自己紹介:
音楽を演奏したり聴いたりするのが好きです。
歌ってしまいます。そしてギターも少々。
Sam CookeやOtis Reddingなど古いR&Bが好きです。
歌ってしまいます。そしてギターも少々。
Sam CookeやOtis Reddingなど古いR&Bが好きです。


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