えいちゃん(さかい きよたか)
えいちゃんのぶろぐ

夏井いつきさんの著した『2024年版 夏井いつきの365日季語手帖』を読了しました。1年間での毎日1句の季語とその季語の解説、その季語による俳句とそれを選んだ夏井さんの鑑賞文による本です。選ばれた俳人は無名の人から高浜虚子のような俳句の歴史に欠くことのできない人までさまざま。例えば今日である9月17日に選となったのは、季語は「名月」で、岡田一実さんの以下の俳句。
名月や痛覚なしに髪伸びて
毎日のそれぞれの季語と俳句に日本語の豊かさを感じ入ります。
『2024年版 夏井いつきの365日季語手帖』刊行


この前、奄美大島を旅して、帰りの空港で買って、自分の部屋に積んでいた、島尾ミホの中短編小説集『祭り裏』を読了しました。読みながら、ぼくの若かりし頃、熱心に読んでいた中上健次の小説の濃厚な世界を思い出したりもします。小説の舞台は奄美大島のすぐ南にある加計呂麻島で時は前の戦争からその直後でしょうか。どのような世界であるかは、この本に「付篇」として載せられた石牟礼道子の「書評『祭り裏』」にある『祭り裏』からの引用が表すかのような世界なのです。
幼い私にむずかしいことはわかしませんでしたが、神も人も、太陽も月も、海も山も、虫も花も、天地万物すべてが近所隣の人々と区別のつかぬ同じ世界に溶け合っていて、太陽はティダガナシ(太陽の神)、月はティッキョガナシ(月の神)、火はヒニャハンガナシ(火の神)、ハベラ(蝶)は未だあの世に行かずに此の世に留まっている死んだ人のマブリ(霊魂)、モーレ(海の亡霊)は舟こぼれした人のマブリ、などとみんな私と日常を共にしているごく身近なものばかりでした。
惨劇とも呼べる事件も小説のなかで発生してしまうのだけど、このようなところでこそ魂というものは育まれるのではないかしらと、ぼくは考えてしまいます。加計呂麻島語といってもさしつかえないような島の言葉のセリフをカタカナで表し、それに日本語の標準語訳のルビをふるという破格の文体もあり、書き言葉にはない芳醇さ、豊かさも素晴らしく、この『祭り裏』はフォークナー、ガルシア=マルケス、ジェームズ・ジョイスと並ぶ辺地から放たれた世界文学であるように思えます。
祭り裏


この前、国立能楽堂で見た能の『善知鳥(うとう)』が強烈な内容で、頭から離れず、もう一度、反芻しようと、早稲田大学で名誉教授をしておられる能楽の研究者である竹本幹夫さんの著した『対訳でたのしむ 善知鳥 うとう』を読みました。上段の現代語訳があり、下段に小さい文字での原文の詞章の載せられた本です。再度、その内容を確認し、凄まじい何かを感じ、その粗筋を記したいと思った次第。
立山の地獄谷で修行の僧侶は成仏できずにいる亡くなった漁師に出会う。猟師は陸奥の国にいる自分の残した妻と子に会い、その妻の持っている自分の形見の笠と蓑に向かって読経し、冥福を祈って欲しいと頼む。その際には、片方の袖を渡すから、その袖が形見の服をぴったり合うはずだと言い、姿を消す。僧は修行をしつつ、陸奥の国にまで行き、泣きぬれている女とその子どに会う。形見の片方の袖のない服と僧侶の持ってきた袖がぴたりと合い、まさしく霊として会った猟師の妻と子であるのが判明し、僧侶は形見の笠と蓑に向け読経をする。そこに猟師の霊が現れる。霊は生前に行った善知鳥の狩りを再現するかのようなのだ。善知鳥という鳥の子は親鳥を真似て「うとう」と呼びかけると雛鳥は「やすかた」と答え、無邪気に寄ってくるのを、猟師は狩りをする。漁師は際限もなく夢中となり、むしろ殺生を楽しむように狩りをする。たくさんの親鳥は血の涙を流し、猟師の笠や蓑は真っ赤に染まれど、夢中となった猟師は狩りをやめない。その姿を霊となった漁師は、生きていくためにはそうするしかなかったのだが、初めて深く悔いる。そして、猟師は今は飛べない雉となり永劫に獣に追いたてられているというのだ。その姿を僧侶は救うこともかなわず、妻とその子は静かに見ることしかできずにいる。漁師は退場し、妻と子、僧侶も去っていく。
昔、高野山の金剛峯寺の長い参道のおびただしい墓の中にいくつもの生類の慰霊碑があったのを思い出したりする。それにしても救いのない強烈な内容に心は重くなり、今、ガザで行われていることはこのようなことではないかとも思い、戦慄した。停戦を願うのみ。


内田樹さんの著した『凱風館日乗』が面白くて一気読みしてしまいました。本のタイトルとなっている「日乗」は永井荷風の『断腸的日乗』を意識してとのことです。短い文章での日本への批評は、「第一章 日本が抱える困難について・・・・・・」、「第二章 世界はこれからどうなるのか?・・・・・・」、「第三章 日本救国論・・・・・・」から成り、この戦争にむかうかのような日本の現状下で、「第三章 日本救国論・・・・・・」では希望的な内容が書かれているのが、少し意外なようにも思われました。内田さんは特に若い人たちに何らかの希望を見いだしているようでもあるのです。
内田さんは、コモンの実践として道場兼学塾である凱風館を建て、合氣道の師範でもあられ、その凱風館にコモンを創造しようとしたという。その「コモン」とは、てらいもなく、経済学者、宇沢弘文のいう「社会的共通資本」、「公共の財産」であるだろう。反動の表層とは裏腹に、底辺の流れてとして、日本人はこのような方向に向かっているらしいことを内田さんは感じているらしいのだ。内田さんの言葉では「共有地」となり、それが日本各地に作り直されているらしい。ぼくも「共有地」か出発したいとも願う。
この本のしまいの文章は「武道的思考と資本主義」なのだが、そこで澤庵禅師の言葉が引用され、流派こそ違えども同じく合氣道を志してもいるぼくにとって、とても印象的でありました。
「蓋し兵法者は勝負を問わず、強弱に拘らず、一歩を出でず、一歩を退かず、敵我を見ず、我敵を見ず、天地未分陰陽不到の処に徹して直ちに功を得べし」
内田樹さんはこれをこう現代の言葉に訳しておられる。
「武道家は勝負を争わない。強弱を競わない。一歩前に出ることもないし、一歩後ろに退くこともない。敵は私を見ないし、私も敵を見ない。そうして、天地が未だ分かれず、陰陽の別もない境地において、直ちに果たすべきことを果たす」
それは、「資本主義が滅びるのが先か、人類が滅びるのが先か」の問題意識に接続しつつ、優劣のない世界に人を立たせ、人を勝敗から引き放ち、常に自己更新をする永遠の初心者となり、なすべきことをなすのが武道の道だとする。なるほどです。精進します。
内田樹 - 凱風館日乗


梅原猛さんの著した『梅原猛の授業 能を観る』を読みました。ぼくも齢を一巡りすると、たまたまぼくが生まれたこの日本とは何だろうかと思い、能に惹かれもし、鑑賞しますが、この『梅原猛の授業 能を観る』を読むと、梅原さんの多様で大胆な学識により、日本の文化の古層があらわになるかのようなのです。
高校生のころ、梅原さんの『地獄の思想』や『水底の歌 柿本人麿論』を読み、そのユニークな論の立てかたと思想に感銘をおぼえた記憶があります。神社の在り方の本来は、国に対して恨みをもつ霊を鎮めるためのものが大きいのではないかと、梅原さんは卓見を述べておられました。
梅原さんは、日本を愛し、西洋に対して日本を擁護する日本主義者であり、国際日本文化研究センターの設立に尽力された人でありつつ、憲法九条の会の発足のまず初めの呼びかけ人であり、靖国神社の立場に反対の意をとなえられておりましたのには、一貫した切れることなない過去からの細い糸があったようにも思われもするのです。
梅原猛の授業 能を観る - 文庫 - 朝日新聞出版


内田樹さんの著した『私家版・ユダヤ文化論』を読む。面白かった。「終章 終わらない反ユダヤ主義」は特に興味深く、難しい哲学の話にも関わらず、一気に読んでしまったけれど、これは反ユダヤ主義を称揚する内容ではなく、どちらかといえば、ユダヤ人の固有の文化性を褒め称えるような内容であった。
読みながら、昔、読んだ武田泰淳の『快楽』という小説を思い出していた。この小説では「快楽」を「かいらく」ではなく「けらく」と読む。俗世の「快楽(かいらく)」を抜け出すことこそ、仏弟子である僧侶の「快楽(けらく)」であるとしながら、主人公の若き僧侶は何度も躓くのだ。主人公は寺の御本尊に尋ねる。すべてを見通せている仏陀よ、なぜ、この世界を救ってくださらぬのかと。仏陀はすべてを見つつ、何も手をくださない。これはユダヤ人の神のようではないだろうか?
この本を読んでみようという動機として、内田樹さんがYouTubeでユダヤ人について、語りまくっている動画を見たことも大きい。『私家版・ユダヤ文化論』と動画で知らないことも知り、新しいものの見方を知った。ファシズムの起源はイタリアのムッソリーニではなく、フランスにあり、かの国のエドュアール・ドリュモンというジャーナリストの書いた蒙昧な大著『ユダヤ的フランス』であっとらしい。そこから、フランスはナチスを歓迎し、ビシー政権を作ったのではないかと動画は内田さんは指摘する。さらに動画での内田さんの指摘は過激といってもいいようなものにもなる。ドイツのイスラエル支持の隠された動機は、隣人としてのユダヤ人との共生を忌避したいがためではないか? イスラエルにいる正統ユダヤ教徒は、パレスチナを支持し、イスラエルを拒否し続けているともいい、アメリカ合衆国のユダヤ人も一枚岩ではない。
内田さんは、ユダヤ人であり敬虔なユダヤ教徒であり、現代を代表する哲学者であり、神学者でもありレヴィナスから直に教えを受け、薫陶を受けたという。神の後から来たという絶対的な有神論者であり、愛こそが報われることのない努めてであり、報われることのないからこそ他者への責務であるとする、世界中にいるユダヤ人とともに、今は、ぼくはガザで暴力が止むことを祈るばかりなのだ。
Amazon.co.jp: 私家版・ユダヤ文化論 (文春新書 519) : 内田 樹


宮田律さんの著した『ガザ紛争の正体 暴走するイスラエル極右思想と修正シオニズム』を読了した。擬制のイスラエル建国から現在のガザでのパレスチナ人へのホロコースト、ジェノサイドまでたどるこの本を読んでいると辛くなる。世界はこれを見ているだけでいいのか? もう9ヶ月も時は経ち、いいわけはないと思う。『ガザの正体』からイスラエルに殺害されたレファアト・アラリールの詩を引用。
もし、私が死ななければならないのなら
あなたはどうしても生きなくてはならない
私の物語を語るために
私の遺品を売って
一切れの布といくつかの糸を買うために
(色は白で、長いしっぽをつけてくれ)
そうすれば、ガザのどこかにいる子供が
天をまっすぐに見つめ返しながら
すでに炎の中に消えてしまったがー
肉体にも、自分自身(魂)にさえ
一言も別れを告げなかった父親を待ちながらー
その凧が、あなたが作った私の凧が
空高く舞い上がるのを見てくれるから
そうすれば、束の間、天使がそこに現れて
愛をよみがえらせてくれるから
もし私が死ななければならないのなら
それが希望をもたらしますように
それが物語になりますように
アパルトヘイトを無くさせた後の初代の南アフリカの大統領のネルソン・マンデラの言葉をこの本から引用。
アパルトヘイトは人道に対する罪であり、イスラエルは数百万のパレスチナ人の自由と財産を奪っている。それは著しい人種差別と不平等のシステムを永続化させ、国際法に違反して体系的に数千人ものパレスチナ人たちに拘禁と拷問を行っている。イスラエルは市民、特に子どもたち対する攻撃を行っている。
ネルソン・マンデラは世界史に登場するぼくのもっとも尊敬する人物なのだが、この発言はネルソン・マンデラ存命の時のもので、事態はさらに深刻、残酷なことになっている。そして、さらに、この本から小説家の堀田善衛の言葉を引用。
言論は無力であるかもしれない。しかし、一切人類が、「物いわぬ人」になった時は、その時は人類そのものが自殺する時であろう。
ガザ紛争の正体


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プロフィール
HN:
えいちゃん
性別:
男性
職業:
S.E.
趣味:
音楽
自己紹介:
音楽を演奏したり聴いたりするのが好きです。
歌ってしまいます。そしてギターも少々。
Sam CookeやOtis Reddingなど古いR&Bが好きです。
歌ってしまいます。そしてギターも少々。
Sam CookeやOtis Reddingなど古いR&Bが好きです。


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