えいちゃん(さかい きよたか)
えいちゃんのぶろぐ



中川右介さんの著した『昭和20年8月15日 文化人は玉音放送をどう聞いたか』が面白く、一気読みしてしまいました。この本でいう文化人とは、作家、マンガ家、映画人、演劇人、音楽家といった文化・芸能の分野の著名人のことで、数えあげれば135人が取りあげられていて、三島由紀夫に始まり、黒柳徹子のあと、著者による「あとがき」で了となる。「あとがき」にこんな言葉がある。
「同じ日の同じ出来事が何度も繰り返されるループものは、起きるたびに違いが出てくるところに面白さがある。この本も、同じ放送を同じ日に聞いているのに、反応は人さまざまだ。戦時体制ではあるが、人びとの心はひとつではなかった。」
敗戦を泣くものもいれば、喜ぶものもいる。所詮、人の心とはそんなものだ。すると、タイとガンボシアの国境線で戦争を始めたというニュースが入ってきた。兵士ではない住民も亡くなっているという。戦争は人類の犯す罪悪の愚行だ。
昭和20年8月15日 文化人たちは玉音放送をどう聞いたか


去年のノーベル文学賞作家である韓国のハン・ガンさんの著した『少年が来る』を読んだ。1980年の光州事件を取材した小説である。光州事件とは当時の韓国の大統領であった朴正熙の暗殺に端を発し、クーデターを起こした全斗煥による全羅南道の光州での民主化運動を弾圧し、虐殺をし、多くの死者を出した事件。韓国の人たちにとってこの事件が起きた5月18日は忘れられない日となった。
光州事件といえば、ぼくには思い出すこともある。当時、高校生であったぼくは、パンク・ロックが好きで、当時、日本のパンク・ロックやニュー・ウェイブ派のロックのコンサートをしていた法政大学の学生会館のホールに何度も聞きに行っていた。そこで「光州ヴァイブレーション」と呼ばれるコンサートが行われ、光州での民衆の蜂起や軍の介入、おびただしい虐待を記録した映画が極秘裏に輸入され上映されたのだった。当時、朴正熙の暗殺後、戒厳令と情報統制により韓国国内で何が起きているのか、まったく外国では分からない状況であった。若いぼくは、石を投げながら、兵士に撃たれ、ピース・サインをする貧しい服装をした韓国の学生に血が騒ぐようなシンパシーを感じつつも、衝撃的であった。ロック・コンサートも行われ、リザードをバックにした白竜のレゲエのリズムの「光州シティ」も、ものすごくかっこよかった。そのころからずっと、おれは韓国や在日(在日韓国人や在日朝鮮人)のシンパよ。
さて、『少年が来る』にもどり、この小説には凄惨で、かつ残酷で、複眼で語られるの物語の中に詩の美しさも輝いている。ハン・ガンさんはこの小説を書くために何年間も調査と現場取材し、悪夢にうなされたという。この小説の訳者である井出俊介さんの「作者あとがき」を引用し、絶賛し、推薦し、この項を了とします。
作家は透徹した視線で、この事件の背後にある人間存在の引き裂かれた二面性―神性と獣性、崇高さと残酷さ―を凝視している。人間が併せ持つ不条理への不信を克復しないままでは前に進めないという切実な思いが、この小説の行間からひしひしと伝わってくる。
少年が来る (新しい韓国の文学 15)


青山学院大学で日本現代史の教授をされている小宮京さんの著した『昭和天皇の敗北 日本国憲法第一条をめぐる闘い』を読了しました。
小宮さんは、所謂、第三の聖断はなかった、昭和天皇は敗戦後、自らの権力に固執していた、と書いております。ちなみに、前の大戦における昭和天皇の聖断とは、軍部の、「国体」護持、連合国軍による占領の拒否、撤兵と武装解除は自主的に行う、戦争責任者の処分は日本側がする、という四つの条件を付けてのポツダム宣言の受諾の案に反対し、天皇の決断による1945年8月10日の「国体」護持(天皇制維持)のみを条件としたポツダム宣言の受諾が一つ目の聖断、8月13日のポツダム宣言の受諾による即時講和の天皇の決断が二つ目の聖断、三つ目の聖断とは、憲法についてのGHQ草案を受け入れ、静かに自ら権力を放棄し退場したとする、ことだそうです。その三つ目の聖断はなかった、と本書では断じています。昭和天皇が亡くなって、今年で36年、このような本『昭和天皇の敗北』が出されて、事実という真実が明らかになったようなのです。
日本国憲法憲法が発布されて以来、昭和の天皇は、質問に答えるということのみを例外として、自らの政治観やそれのたぐいに属することを公にすることは一切なくなりました。その口をつぐんだことが憲法と民主主義の定着に貢献したとする、歴史のあやと不思議な成り行きを感じつつ、それを初めて破ったのが2016年の平和的とされる平成の天皇のメディアをつうじてのおことばであることに、ぼくは困惑し、本を閉じたしだいです。
昭和天皇の敗北 日本国憲法第一条をめぐる闘い -小宮京 著


藤原新也さんの著した『メメント・ヴィータ』を読みました。この本を読みながら、NHKのラジオ番組で小児科医の高橋孝雄の語っていた、ヴァーチャルなゲームの中の経験は、所詮、経験とはまったく異なることで、経験ではない、ということを思い出していました。そのヴァーチャルなゲームの中の経験の真逆の『メメント・ヴィータ』に書かれた、「人類の肌色」から「メメント・ヴィータ」までの三十四編はまったく生々しい経験そのもののようなのです。「メメント・ヴィータ」とは「生を想え」ということだそうで、この本は「命の声」を書籍化したものだ、と藤原さんは前書きの「生を想え」で書いておられます。特におそるべきは、ラストの「メメント・ヴィータ」で、日本の社会と政治の底流のもっとも暗い部分に切り込んでいて、とても危なく、藤原さんは武器を携えた身辺警護の人すら雇うべきではないか、とぼくは思った次第です。が、その章も、一点の清浄で締めくくられるところが、藤原新也さんの真骨頂であるようなのです。
メメント・ヴィータ - 藤原新也 (単行本)


麻田雅文さんの著した『日ソ戦争 帝国日本最後の戦い』を読みました。本の帯に「東京大学教授 加藤陽子氏 安全保障研究者・東京大学准教授 小泉悠氏 絶賛」とあり興味をそそられました。ちなみに加藤陽子さんは日本学術会議の任命を日本政府により拒否された人でもあります。ぼくは、加藤陽子さんのことを日本の近代史と現代史の研究者、著述家としてもっとも重要な人だと思う。加藤陽子さんは中道の学者だとぼくは思うのだけれど、トランプのリベラル狩りに先んずる日本政府の浅はかさを痛感しますな。
麻田雅文さんの『日ソ戦争』を読むと、1945年8月9日の長崎に原子爆弾が投下された日から同年の9月7日まで日本とソ連の間での戦争が続いていたことに、率直に驚く。麻田雅文さんは、日ソ戦争は同時代の米英との戦いに比しても、さらに陰惨な印象を受けるとし、それが今のロシアにも受け継がれている感覚を覚えているとしている。その根拠として日ソ戦争の特徴を三点あげている。
第一に、日ソ戦争では民間人の虐殺や性暴力など、現代であれば戦争犯罪に当たる行為が停戦後にも多発した。
第二に、住民の選別とソ連への強制連行である。
第三に、領土の奪取である。
日本軍の蛮行も許されるものではないし、今、行われているイスラエルの暴力と殺戮もおぞましく、それにしても、ソ連の犯した三点が戦争直後から現在のロシアにまで続いているのも恐ろしい。世界はこれから闇に沈むのだろうか?
ところで、日本はポツダム宣言を内々に受諾し、全面降伏したのが8月14日で15日が玉音放送で敗戦が国民に伝えられる。この『日ソ戦争』によれば、天皇は国体(天皇制)の保持について逡巡していたが、ついに決心し、軍部(大本営)の反対を押し切る。寺山修司の短歌に以下のようなものがある。
マッチ擦するつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや
天皇にまったく前の戦争の責任がないとはいえないけれど、天皇はこの時、祖国のために確かに身を捨てた。9月2日がポツダム宣言の正式な調印。正式な調印の9月2日でもなく、内々に受諾した8月14日でもなく、広く天皇の声で知らしめた8月15日が戦後、終戦記念日として定着することとなる。この日、新しい天皇制の呪縛か、新しくなった天皇による加護か何かがが始まることとなった。そして、『日ソ戦争』によれば、この後、いくつかの偶然と多くの血と命の犠牲によって北海道はソ連の領土にならなくて済んだのだった。日本に戦争の悲惨が再びやってこないのを祈るのみです。
日ソ戦争 帝国日本最後の戦い -麻田雅文 著|中公新書


ハン・ガンさんの著した『すべての、白いものたちの』を読みました。ハン・ガンさんはいわずもかなのの去年のノーベル文学賞を受賞した韓国の作家です。訳は斎藤真理子さん。「1 私」、「2 彼女」、「3 すべての、白いものたちの」の三章による、掌篇の集まりのやうなこの小説は、ストーリーは断片的で、散文詩のようでもあります。原題は『白い』。小説の後のハン・ガンさん自身にやる「作家の言葉」や訳者の佐藤真理子さんによる「『すべての、白いものたちの』への補足」、作家の平野啓一郎さんによる「解説 恢復と自己貸与」を読むと、また初めから読みたくなります。
この『すべての、白いものたち』を読みながら、哲学のノーベル賞と呼ばれるバーグルエン哲学・文化賞を受賞した柄谷行人さんのいう、グローバリズムによる、世界からの差異の消失による文学の終焉ということも思い出したりもしました。けれども、『すべての、白いものたち』を読むと、ここに文学というものが生き延びて存在しているという実感もわき、不思議な気持ちもしてくるのです。北朝鮮と対峙し、冷戦のリアリティがいまだに存在し、一人あたりのGDPでは日本と並ぶか、追い越した国でありながら、クーデターの起こる韓国。
ふとぼくは、文学はすべて所詮国民文学ではないか、とも思います。国家の成立と植民地の独立と文学がある相似を描いているように思われるのです。それは告解と、国家主義ではない愛国と愛郷の物語。現代という時代、ジェームス・ジョイスも、ウィリアム・フォークナーも、ガルシア・マルケスも、大江健三郎も、それを乗り越えようとしましたが、誰も乗り越えられなかった。今や、小説の面白さは多くの人が話題にするけれど、文学については語られない。けれども、そのような文学ではない次の文学が、ふと気がつけば、いつか向こうからやって来て、目の前に現れるような気もぼくにはするのです。アジアやアラブ、アフリカ、ラテン・アメリカの片隅の愛国も愛郷も踏み荒らされた地から、それはやって来る。ハン・ガンさんの小説にも、それはいつやって来たとしてもいい、とぼくは願ってもいるのです。
すべての、白いものたちの :ハン・ガン,斎藤 真理子


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プロフィール
HN:
えいちゃん
性別:
男性
職業:
S.E.
趣味:
音楽
自己紹介:
音楽を演奏したり聴いたりするのが好きです。
歌ってしまいます。そしてギターも少々。
Sam CookeやOtis Reddingなど古いR&Bが好きです。
歌ってしまいます。そしてギターも少々。
Sam CookeやOtis Reddingなど古いR&Bが好きです。


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