えいちゃん(さかい きよたか)
えいちゃんのぶろぐ
ハン・ガンさんの著した『すべての、白いものたちの』を読みました。ハン・ガンさんはいわずもかなのの去年のノーベル文学賞を受賞した韓国の作家です。訳は斎藤真理子さん。「1 私」、「2 彼女」、「3 すべての、白いものたちの」の三章による、掌篇の集まりのやうなこの小説は、ストーリーは断片的で、散文詩のようでもあります。原題は『白い』。小説の後のハン・ガンさん自身にやる「作家の言葉」や訳者の佐藤真理子さんによる「『すべての、白いものたちの』への補足」、作家の平野啓一郎さんによる「解説 恢復と自己貸与」を読むと、また初めから読みたくなります。
この『すべての、白いものたち』を読みながら、哲学のノーベル賞と呼ばれるバーグルエン哲学・文化賞を受賞した柄谷行人さんのいう、グローバリズムによる、世界からの差異の消失による文学の終焉ということも思い出したりもしました。けれども、『すべての、白いものたち』を読むと、ここに文学というものが生き延びて存在しているという実感もわき、不思議な気持ちもしてくるのです。北朝鮮と対峙し、冷戦のリアリティがいまだに存在し、一人あたりのGDPでは日本と並ぶか、追い越した国でありながら、クーデターの起こる韓国。
ふとぼくは、文学はすべて所詮国民文学ではないか、とも思います。国家の成立と植民地の独立と文学がある相似を描いているように思われるのです。それは告解と、国家主義ではない愛国と愛郷の物語。現代という時代、ジェームス・ジョイスも、ウィリアム・フォークナーも、ガルシア・マルケスも、大江健三郎も、それを乗り越えようとしましたが、誰も乗り越えられなかった。今や、小説の面白さは多くの人が話題にするけれど、文学については語られない。けれども、そのような文学ではない次の文学が、ふと気がつけば、いつか向こうからやって来て、目の前に現れるような気もぼくにはするのです。アジアやアラブ、アフリカ、ラテン・アメリカの片隅の愛国も愛郷も踏み荒らされた地から、それはやって来る。ハン・ガンさんの小説にも、それはいつやって来たとしてもいい、とぼくは願ってもいるのです。
すべての、白いものたちの :ハン・ガン,斎藤 真理子
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