えいちゃん(さかい きよたか)
えいちゃんのぶろぐ

土曜日の3月28日は相模大野のアコパで、日曜日の3月29日は小田急相模原のエルトピートで歌っています。アコパは夜の6時に開演でエルトピートは夕方4時に開演です。
自粛要請が政府や自治体から出されていて、少しは考えてしまいますが、自分の心の声に従い、出かけて歌うことにしました。アコパもエルトピートもそれほど混みあわなく、毎日乗っている通勤電車の方がよほど危ないような気がします。平日、遠い会社に電車に乗って惰性でお金のために労働するよりも、土曜日や日曜日に近くに歌いに出かける方がぼくにとって大切で切実なことと思えるこのごろです。
政府はこの時期、和牛の商品券を配ると報道されていますが、それは和牛の生産農家がこの前に結ばれた日米貿易協定の関税引き下げによって打撃を受けているからではないでしょうか? 政府による本質かくしの愚かな政治がつづきます。
みなさま、どうかご自愛くださいませ。
自粛要請が政府や自治体から出されていて、少しは考えてしまいますが、自分の心の声に従い、出かけて歌うことにしました。アコパもエルトピートもそれほど混みあわなく、毎日乗っている通勤電車の方がよほど危ないような気がします。平日、遠い会社に電車に乗って惰性でお金のために労働するよりも、土曜日や日曜日に近くに歌いに出かける方がぼくにとって大切で切実なことと思えるこのごろです。
政府はこの時期、和牛の商品券を配ると報道されていますが、それは和牛の生産農家がこの前に結ばれた日米貿易協定の関税引き下げによって打撃を受けているからではないでしょうか? 政府による本質かくしの愚かな政治がつづきます。
みなさま、どうかご自愛くださいませ。


左足のふくらがぎの肉離れで合氣道の道場に行けていません。来週こそは復活するぞの願いを託し、この英語のナレーションの合氣道のムービーを紹介いたします。
去年の道場の忘年会でぼくがうっかり「試合」という言葉を口にしてしまい、道場のみんなに、合氣道には「試合」はない、「演武」があるのみ、と諭されました。そう、勝ち負けもない、相手を尊ぶ、なんという武道の美しさよ。
Koichi Tohei - Principios conceptuales fundamentales y Curso elemental
去年の道場の忘年会でぼくがうっかり「試合」という言葉を口にしてしまい、道場のみんなに、合氣道には「試合」はない、「演武」があるのみ、と諭されました。そう、勝ち負けもない、相手を尊ぶ、なんという武道の美しさよ。


この前、段差のあるところでつまずいて、左足の親指から思いっきりぶつけて、ころんで、足の指は何てことないのだけど、左足のふくらはぎが歩けないほど痛い。近所の整形外科医の町医者、クリニックに行くと肉離れと診断されて、その時、ベテランの医師に触診された。つーっとふくらはぎを指で触っていくと、この変で切れてるねー、断裂まではしていないけれど、肉離れかなというのです。神の指です。百戦錬磨のその道の達人かととても感心しました。
安静にして動かさないことが一番とのことで、家でエラとルイのバラッドを聞きながら、たまに読みかけの本を読みつつ、寝ています。そのうち痛くなんくなるだろう。あー、“Ella and Louis”、これ最高! おやすみZZZzzz.....
安静にして動かさないことが一番とのことで、家でエラとルイのバラッドを聞きながら、たまに読みかけの本を読みつつ、寝ています。そのうち痛くなんくなるだろう。あー、“Ella and Louis”、これ最高! おやすみZZZzzz.....
Ella Fitzgerald and Louis Armstrong - Ella and Louis


雨宮処凛さんの対談本「この国の不寛容の果てに」を読んでいて、熊谷晋一朗さんがこんなことをおっしゃっておりました。
「「障害者にも生産性がある」という言い方では、優生思想の枠組みの中でしか反論できていないことになるので。年商1億円はもちろん事実なのですけれど、べてるの家が大事にしているのはそこではないでしょう。彼らの働き方を見ていて私が思い出すのは、政治哲学者ハンナ・アーレントが言った、労働・仕事・活動の三類型なんですね。アーレントは、人間の活動には三つあって、労働(Lavor)、仕事(Work)、活動(Action)だと。そのうち労働(Lavor)は、衣食住を満たすためにために不可欠な、ある意味で仕方なくする作業のことで、基本的には動物もしていることです。対して仕事(Work)は、それまでに存在していない作品を生み出して後世に残し、人間の文化に何かを付け加えること。そして、活動(Action)は、政治的なコミュニケーションです。人と人が集まって自分に見える世界を表現しあい、共有された現実をつくりだすこと。アーレントは、この「仕事」と「活動」こそが人間の人間たる条件だと言ったのです」
この次に本では、精神障害等をかかえた当事者の地域活動拠点「べてるの家」で何が本当に大事にされていて、それがいかに画期的かを論じられているのだが、みなさまにはそれはこのすばらしい本で読んでいただきたく伏せておきます。
ぼくもこれからは、生産性がないといわれようとも、労働は少しづつ減らし、仕事や活動を充実させていく道を選ぶぞ。まずは自分のために書いておきます。
ハンナ・アーレントの「エルサレムのアイヒマン――悪の陳腐さについての報告」はいつか読みたい。
「「障害者にも生産性がある」という言い方では、優生思想の枠組みの中でしか反論できていないことになるので。年商1億円はもちろん事実なのですけれど、べてるの家が大事にしているのはそこではないでしょう。彼らの働き方を見ていて私が思い出すのは、政治哲学者ハンナ・アーレントが言った、労働・仕事・活動の三類型なんですね。アーレントは、人間の活動には三つあって、労働(Lavor)、仕事(Work)、活動(Action)だと。そのうち労働(Lavor)は、衣食住を満たすためにために不可欠な、ある意味で仕方なくする作業のことで、基本的には動物もしていることです。対して仕事(Work)は、それまでに存在していない作品を生み出して後世に残し、人間の文化に何かを付け加えること。そして、活動(Action)は、政治的なコミュニケーションです。人と人が集まって自分に見える世界を表現しあい、共有された現実をつくりだすこと。アーレントは、この「仕事」と「活動」こそが人間の人間たる条件だと言ったのです」
この次に本では、精神障害等をかかえた当事者の地域活動拠点「べてるの家」で何が本当に大事にされていて、それがいかに画期的かを論じられているのだが、みなさまにはそれはこのすばらしい本で読んでいただきたく伏せておきます。
ぼくもこれからは、生産性がないといわれようとも、労働は少しづつ減らし、仕事や活動を充実させていく道を選ぶぞ。まずは自分のために書いておきます。
ハンナ・アーレントの「エルサレムのアイヒマン――悪の陳腐さについての報告」はいつか読みたい。


古民家nicoichiの花咲く桜の樹の下で歌いました。木の精が死者たちとともに現れて、ぼくはとぼくのまわりのみんなが祝福を受けていたような気もしていました。
能の舞台のような、大野一雄の舞踏のような、生だけではなく、死があって生があるような、高校生のころ読んだ梶井基次郎の「桜の樹の下には」を思い出してもいたのです。
桜の樹の下には屍体(したい)が埋まっている!
これは信じていいことなんだよ。なぜって、桜の花があんなにも見事に咲くなんて信じられないことじゃないか。俺(おれ)はあの美しさが信じられないので、この二、三日不安だった。しかしいま、やっとわかるときが来た。桜の樹の下には屍体が埋まっている。これは信じていいことだ。
どうして俺が毎晩家に帰って来る道で、俺の部屋の数ある道具のうちの、選(よ)りに選ってちっぽけな薄っぺらいもの、安全剃刀(かみそり)の刃なんぞが、千里眼のように思い浮んで来るのか―お前はそれがわからないと云ったが―そして俺にもやはりそれがわからないのだが―それもこれもやっぱり同じようなことにちがいない。
一体どんな樹の花でも、いわゆる真っ盛りという状態に達すると、あたりの空気のなかへ一種神秘な雰囲気(ふんいき)を撒(ま)き散らすものだ。それは、よく廻(まわ)った独楽(こま)が完全な静止に澄むように、また、音楽の上手な演奏がきまってなにかの幻覚を伴うように、灼熱(しゃくねつ)した生殖の幻覚させる後光のようなものだ。それは人の心を撲(う)たずにはおかない、不思議な生き生きとした、美しさだ。
しかし、昨日、一昨日、俺の心をひどく陰気にしたものもそれなのだ。俺にはその美しさがなにか信じられないもののような気がした。俺は反対に不安になり、憂欝(ゆううつ)になり、空虚な気持になった。しかし、俺はいまやっとわかった。
お前、この爛漫(らんまん)と咲き乱れている桜の樹の下へ、一つ一つ屍体が埋まっていると想像して見るがいい。何が俺をそんなに不安にしていたかがお前には納得が行くだろう。
馬のような屍体、犬猫(いぬねこ)のような屍体、そして人間のような屍体、屍体はみな腐爛(ふらん)して蛆(うじ)が湧(わ)き、たまらなく臭い。それでいて水晶のような液をたらたらとたらしている。桜の根は貪婪(たんらん)な蛸(たこ)のように、それを抱きかかえ、いそぎんちゃくの食糸のような毛根を聚(あつ)めて、その液体を吸っている。
何があんな花弁を作り、何があんな蕋(ずい)を作っているのか、俺は毛根の吸いあげる水晶のような液が、静かな行列を作って、維管束のなかを夢のようにあがってゆくのが見えるようだ。
―お前は何をそう苦しそうな顔をしているのだ。美しい透視術じゃないか。俺はいまようやく瞳(ひとみ)を据(す)えて桜の花が見られるようになったのだ。昨日、一昨日、俺を不安がらせた神秘から自由になったのだ。
二、三日前、俺はここの渓(たに)へ下りて、石の上を伝い歩きしていた。水のしぶきのなかからは、あちらからもこちらからも、薄羽かげろうがアフロディットのように生れて来て、渓の空めがけて舞い上ってゆくのが見えた。お前も知っているとおり、彼等はそこで美しい結婚をするのだ。しばらく歩いていると、俺は変なものに出喰(でく)わした。それは渓の水が乾(かわ)いた磧(かわら)へ、小さい水溜(みずた)まりを残している。その水のなかだった。思いがけない石油を流したような光彩が、一面に浮いているのだ。お前はそれを何だったと思う。それは何万匹とも数の知れない、薄羽かげろうの屍体だったのだ。隙間(すきま)なく水の面を被(おお)っている、彼らのかさなりあった翅(はね)が、光にちぢれて油のような光彩を流しているのだ。そこが、産卵を終った彼らの墓場だったのだ。
俺はそれを見たとき、胸が衝(つ)かれるような気がした。墓場を発(あば)いて屍体を嗜(たしな)む変質者のような惨忍(ざんにん)なよろこびを俺は味わった。
この渓間ではなにも俺をよろこばすものはない。鶯(うぐいす)や四十雀(しじゅうから)も、白い日光をさ青に煙らせている木の若芽も、ただそれだけでは、もうろうとした心象に過ぎない。俺には惨劇が必要なんだ。その平衡があって、はじめて俺に心象は明確になって来る。俺の心は悪鬼のように憂欝に渇(かわ)いている。俺の心の憂欝が完成するときにばかり、俺の心は和(なご)んで来る。
―お前は腋(わき)の下を拭(ふ)いているね。冷や汗が出るのか。それは俺も同じことだ。何もそれを不愉快がることはない。べたべたとまるで精液のようなものだと思ってごらん。それで俺たちの憂欝は完成するのだ。
ああ、桜の樹の下には屍体が埋まっている!
一体どこから浮んで来た空想かさっぱり見当のつかない屍体が、いまはまるで桜の樹と一つになって、どんなに頭を振っても離れてゆこうとはしない。
今こそ俺は、あの桜の樹の下で酒宴をひらいている村人たちと同じ権利で、花見の酒が呑(の)めそうな気がする。
能の舞台のような、大野一雄の舞踏のような、生だけではなく、死があって生があるような、高校生のころ読んだ梶井基次郎の「桜の樹の下には」を思い出してもいたのです。
桜の樹の下には屍体(したい)が埋まっている!
これは信じていいことなんだよ。なぜって、桜の花があんなにも見事に咲くなんて信じられないことじゃないか。俺(おれ)はあの美しさが信じられないので、この二、三日不安だった。しかしいま、やっとわかるときが来た。桜の樹の下には屍体が埋まっている。これは信じていいことだ。
どうして俺が毎晩家に帰って来る道で、俺の部屋の数ある道具のうちの、選(よ)りに選ってちっぽけな薄っぺらいもの、安全剃刀(かみそり)の刃なんぞが、千里眼のように思い浮んで来るのか―お前はそれがわからないと云ったが―そして俺にもやはりそれがわからないのだが―それもこれもやっぱり同じようなことにちがいない。
一体どんな樹の花でも、いわゆる真っ盛りという状態に達すると、あたりの空気のなかへ一種神秘な雰囲気(ふんいき)を撒(ま)き散らすものだ。それは、よく廻(まわ)った独楽(こま)が完全な静止に澄むように、また、音楽の上手な演奏がきまってなにかの幻覚を伴うように、灼熱(しゃくねつ)した生殖の幻覚させる後光のようなものだ。それは人の心を撲(う)たずにはおかない、不思議な生き生きとした、美しさだ。
しかし、昨日、一昨日、俺の心をひどく陰気にしたものもそれなのだ。俺にはその美しさがなにか信じられないもののような気がした。俺は反対に不安になり、憂欝(ゆううつ)になり、空虚な気持になった。しかし、俺はいまやっとわかった。
お前、この爛漫(らんまん)と咲き乱れている桜の樹の下へ、一つ一つ屍体が埋まっていると想像して見るがいい。何が俺をそんなに不安にしていたかがお前には納得が行くだろう。
馬のような屍体、犬猫(いぬねこ)のような屍体、そして人間のような屍体、屍体はみな腐爛(ふらん)して蛆(うじ)が湧(わ)き、たまらなく臭い。それでいて水晶のような液をたらたらとたらしている。桜の根は貪婪(たんらん)な蛸(たこ)のように、それを抱きかかえ、いそぎんちゃくの食糸のような毛根を聚(あつ)めて、その液体を吸っている。
何があんな花弁を作り、何があんな蕋(ずい)を作っているのか、俺は毛根の吸いあげる水晶のような液が、静かな行列を作って、維管束のなかを夢のようにあがってゆくのが見えるようだ。
―お前は何をそう苦しそうな顔をしているのだ。美しい透視術じゃないか。俺はいまようやく瞳(ひとみ)を据(す)えて桜の花が見られるようになったのだ。昨日、一昨日、俺を不安がらせた神秘から自由になったのだ。
二、三日前、俺はここの渓(たに)へ下りて、石の上を伝い歩きしていた。水のしぶきのなかからは、あちらからもこちらからも、薄羽かげろうがアフロディットのように生れて来て、渓の空めがけて舞い上ってゆくのが見えた。お前も知っているとおり、彼等はそこで美しい結婚をするのだ。しばらく歩いていると、俺は変なものに出喰(でく)わした。それは渓の水が乾(かわ)いた磧(かわら)へ、小さい水溜(みずた)まりを残している。その水のなかだった。思いがけない石油を流したような光彩が、一面に浮いているのだ。お前はそれを何だったと思う。それは何万匹とも数の知れない、薄羽かげろうの屍体だったのだ。隙間(すきま)なく水の面を被(おお)っている、彼らのかさなりあった翅(はね)が、光にちぢれて油のような光彩を流しているのだ。そこが、産卵を終った彼らの墓場だったのだ。
俺はそれを見たとき、胸が衝(つ)かれるような気がした。墓場を発(あば)いて屍体を嗜(たしな)む変質者のような惨忍(ざんにん)なよろこびを俺は味わった。
この渓間ではなにも俺をよろこばすものはない。鶯(うぐいす)や四十雀(しじゅうから)も、白い日光をさ青に煙らせている木の若芽も、ただそれだけでは、もうろうとした心象に過ぎない。俺には惨劇が必要なんだ。その平衡があって、はじめて俺に心象は明確になって来る。俺の心は悪鬼のように憂欝に渇(かわ)いている。俺の心の憂欝が完成するときにばかり、俺の心は和(なご)んで来る。
―お前は腋(わき)の下を拭(ふ)いているね。冷や汗が出るのか。それは俺も同じことだ。何もそれを不愉快がることはない。べたべたとまるで精液のようなものだと思ってごらん。それで俺たちの憂欝は完成するのだ。
ああ、桜の樹の下には屍体が埋まっている!
一体どこから浮んで来た空想かさっぱり見当のつかない屍体が、いまはまるで桜の樹と一つになって、どんなに頭を振っても離れてゆこうとはしない。
今こそ俺は、あの桜の樹の下で酒宴をひらいている村人たちと同じ権利で、花見の酒が呑(の)めそうな気がする。


亡き父の思い出です。自治会というのがありますね。近所のゴミ出しとか、下水道のどぶさらいとかしています。その小さな自治会を自分の属する、もしくは指示する政党の宣伝の場にしようとした人がいたのです。(この話は政党の名前は関係なく、それについては控えさせてください。)父はそれに猛反発し、それを無きものとしました。その後、自治会の人から言われたのです。ありがとうございます、あれは私もおかしいと思っていたんですよ、その話が無くなってよかったです、と。近所の手前、遠慮もあるだろうけれど、言い出す人は父一人。どうして、みんな、声をあげないんだろうと思いましたよ。そして、正しきトラブル・メイカ―、その父の血をぼくは受け継いでいるんだなと、近ごろときたま思うようなことがあります。


カテゴリー


最新コメント


最新記事
(04/15)
(04/13)
(04/13)
(04/12)
(04/11)
(04/08)
(04/07)


プロフィール
HN:
えいちゃん
性別:
男性
職業:
S.E.
趣味:
音楽
自己紹介:
音楽を演奏したり聴いたりするのが好きです。
歌ってしまいます。そしてギターも少々。
Sam CookeやOtis Reddingなど古いR&Bが好きです。
歌ってしまいます。そしてギターも少々。
Sam CookeやOtis Reddingなど古いR&Bが好きです。


ブログ内検索


最新トラックバック
