えいちゃん(さかい きよたか)
えいちゃんのぶろぐ

エドワード・ベルガー監督の『教皇選挙』を見ました。「教皇選挙」とは近頃、新聞などもにぎわしたあのこと、カトリック教徒、14億万人の信者のいるキリスト教カトリックのローマ教皇を枢機卿が選ぶ、選挙のことで、「コンクラーベ」などと称されるものであるらしい。
さすが、アカデミー賞の脚本賞に選出されただけのことはあるストーリーの面白さで、ラストの展開にはあっと驚かされました。舞台はシスティーナ礼拝堂のみで、登場するのは神父と修道女ばかりです。知らない世界をのぞく面白さもありますな。
この映画を見ながら、日本での天皇の代替わり、昭和から平成、平成から令和の時に皇居の中では何が行われたのだろう、などと、ぼくは想像してしまいます。『教皇選挙』は決して事実を基にしてはいないのだけれど、そのあまりに人間的な話の中に、この映画は確かに伝統とは何か、現代に継承するとは何かというにこともテーマになっているような気もします。そして、日本の皇室の行く末なども案じつつ、伝統とその今への継承とは何だろうか、変わらないことと変わることとは何だろう、とぼくは考えずにはおられません。
映画『教皇選挙』公式サイト|2025年3月20日(木・祝)全国公開


五月七日、上野鈴廣演芸場での令和七年五月上席昼の部を見ました。例のごとく、見た演目を書き出してみます。前座の柳亭市遼くんの「狸の鯉」、林家まめ平師匠の「真田小僧」、松旭斎美智さんと松旭斎美登のお二人のマジック、古今亭文菊師匠の「出来心」、林家たけ平師匠の「てれすこ」、ニックスのお二人の漫才、三遊亭圓歌師匠の「やかん工事中」、柳家三三師匠の「筍」、立花家橘之助師匠の三味線弾きの唄いの浮世節、古今亭菊之丞師匠の「太鼓腹」で仲入りとなりました。三増紋之助師匠の曲独楽、林家つる子師匠の「箱入り」、入船亭扇遊師匠の「家見舞い」、林家二楽師匠の紙切り 、主任は林家正蔵師匠の「雛鍔」でした。
ぼくの印象にとても残った演目です。素人の曖昧な感想ということでご容赦ください。仲入り前は、古今亭文菊師匠の「出来心」、柳家三三師匠の「筍」、古今亭菊之丞師匠の「太鼓腹」などがよかったです。仲入り後は、みんな楽しかった。三増紋之助師匠の曲独楽のノリノリの楽しさ。林家つる子師匠の「箱入り」は何度、聞いても面白い。入船亭扇遊師匠の「家見舞い」の大爆笑。林家二楽師匠の紙切りのとぼけた味わい。主任の林家正蔵師匠の「雛鍔」は笑いながらも、どこか胸に染みる人情もので、円熟しております。
あー、暗いこの世のつらさ忘れ、寄席は心のオアシスなのです。


平塚市美術館にて『生誕100年 中村正義 -その熱と渦-』展と同時開催の『よみがえる絵画』展を見ました。
日本画壇の風雲児、1977年に52歳の若さで没した中村正義の展覧会。1961年に日本画壇に別れを告げ、日本画の枠にまったくおさまらない絵を発表しつつも、日本的な絵に先祖帰りするかのような絵も残しております。ぼくは中村正義が常に日本の伝統の重力を感じながら、その故郷のようなところに帰ることを拒み、引き裂かれつづけた、そのような画業の人生だったように、展覧会での絵を見ながら、思っておりました。常に病気と隣り合わせに行きながらも、その伝統と前衛の引き裂かれ具合は、虚無を抱えながらも、真なる自分への探求でもあり、そのあっぱれな人生に、生誕100年の今、喝采を送りたいと思うのでした。
『よみがえる絵画』展は、川村清雄の「滝」を見つつ、修復によって絵画がこれほどに元の状態の美しさを取り戻すことに驚きを隠せません。このような地道な労力、努力によって、美術作品が後世に伝わるようになることに、ぼくは修復師の方々への敬意と感謝を表すものであります。


ハン・ガンさんの著した『すべての、白いものたちの』を読みました。ハン・ガンさんはいわずもかなのの去年のノーベル文学賞を受賞した韓国の作家です。訳は斎藤真理子さん。「1 私」、「2 彼女」、「3 すべての、白いものたちの」の三章による、掌篇の集まりのやうなこの小説は、ストーリーは断片的で、散文詩のようでもあります。原題は『白い』。小説の後のハン・ガンさん自身にやる「作家の言葉」や訳者の佐藤真理子さんによる「『すべての、白いものたちの』への補足」、作家の平野啓一郎さんによる「解説 恢復と自己貸与」を読むと、また初めから読みたくなります。
この『すべての、白いものたち』を読みながら、哲学のノーベル賞と呼ばれるバーグルエン哲学・文化賞を受賞した柄谷行人さんのいう、グローバリズムによる、世界からの差異の消失による文学の終焉ということも思い出したりもしました。けれども、『すべての、白いものたち』を読むと、ここに文学というものが生き延びて存在しているという実感もわき、不思議な気持ちもしてくるのです。北朝鮮と対峙し、冷戦のリアリティがいまだに存在し、一人あたりのGDPでは日本と並ぶか、追い越した国でありながら、クーデターの起こる韓国。
ふとぼくは、文学はすべて所詮国民文学ではないか、とも思います。国家の成立と植民地の独立と文学がある相似を描いているように思われるのです。それは告解と、国家主義ではない愛国と愛郷の物語。現代という時代、ジェームス・ジョイスも、ウィリアム・フォークナーも、ガルシア・マルケスも、大江健三郎も、それを乗り越えようとしましたが、誰も乗り越えられなかった。今や、小説の面白さは多くの人が話題にするけれど、文学については語られない。けれども、そのような文学ではない次の文学が、ふと気がつけば、いつか向こうからやって来て、目の前に現れるような気もぼくにはするのです。アジアやアラブ、アフリカ、ラテン・アメリカの片隅の愛国も愛郷も踏み荒らされた地から、それはやって来る。ハン・ガンさんの小説にも、それはいつやって来たとしてもいい、とぼくは願ってもいるのです。
すべての、白いものたちの :ハン・ガン,斎藤 真理子


新国立劇場のオペラパレスに『 Soundwalk Collective & Patti Smith PERFORMANCE CORRESPONDENCES』を見に行きました。黒い安全靴のようなブーツ、青い普通のジーンズ、黒いロングのジャケットで登場したパティー・スミスには強烈なオーラがあり、かっこいい。彼女はパンクの女王と呼ばれたこともあったのです。サウンドウォーク・コレクティヴはロンドンとベルリンを拠点とする現代音響芸術集団で、チェロとパーカッション奏者も入ったその音響の映像は本当にイマジネイティヴで、フィールド・レコーディングされた音とそれに重なる映像もライブのその場で再編集されている。それらとニューヨークのパティー・スミスとの詩の朗読と詠唱の絶妙なコラボレーションにより、音と映像と言葉が有機的に結合した強烈な体験をぼくはしたのです。
人の作った爆音により方向を失ない、座礁する鯨やイルカをテーマにした「さまよえる者の叫び」は本当に寂しく辛い。暗殺されたイタリアの異端の映画監督のピエル・パオロ・パゾリーニをテーマにした「パゾリーニ」では、ぼくは不意打ちの強烈な一撃をくらったかのようでもあるのです。
アンコールでは実の娘、ジェシー・パリス・スミスとパティー・スミスの二人で出てきて、パレスチナと広島の原爆の話から、祈るということについて語り、ジェシー・パリス・スミスのピアノ演奏だけをバックに「Peaceable Kingdom」を歌ってくれた。それはとても美しい瞬間だったのです。この希望に満ちためでたしめでたしを意訳しました。
♪♪♪
昨日、わたしはあなたがそこにいるのを見ていた
窓枠に手をもたれて
窓の外の雨を見ていた
わたしはあなたに語りかけたかった
その涙はむなしくなんかないよって
わたしもあなたも知っているはず
二人とも同じじゃいられない
いつも同じ昔のままだったことなんかない
どうしてそんな気持ちを隠しているのかな?
ライオンも子羊も同じ野原や森に住むようになる
ある時、わたしたちはもっと十分に強くなって
再びそれをうち建てる
平和が可能な王国をうち建てる
再びうち建てる
何度でもうち建てる
どうしてそんな気持ちを隠しているのかな?
ライオンも子羊も同じ野原や森に住むようになる
ある時、わたしたちはもっと十分に強くなって
再びそれをうち建てる
平和が可能な王国をうち建てる
再びうち建てる
何度でもうち建てる
ある時、わたしたちはもっと十分に強くなって
再びそれをうち建てる
平和が可能な王国をうち建てる
再びうち建てる
何度でもうち建てる
平和が可能な王国をうち建てる
再びうち建てる
それでいい
それでいい、それがいい
どこにって? それはここしかないじゃない
今じゃなくって? 今しかない
だってわたしはあなたを愛している、あなたを愛している♪♪♪


浜松町にある劇団四季の自由劇場で企画・構成・台本・演出、浅利慶太さんによる『ミュージカル李香蘭』を見ました。あったことの羅列による歴史ではなく、人びとの経験したことの前の大戦の歴史がよく分かりました。それこそが演劇の力だとぼくは思います。
このミュージカルの原作は山口淑子さんと藤原作弥さんの共著による『李香蘭 私の半生』。山口淑子さんは、李香蘭であったことを消し去りたいと自分を恥じて、インタビューで語っておられました。だからこそ、それを残すために『李香蘭 私の半生』を書いたのだと思うのです。『ミュージカル李香蘭』にしろ、『李香蘭 私の半生』にしろ、李香蘭こと山口淑子さんの経験したことの凄まじさにぼくは驚いてしまいます。
この『ミュージカル李香蘭』は戦争の終わりとともに幕がおりるのですが、常に自己を詳察し、自己を更新する山口淑子さんは、戦後、さまざまな名前を持つにいたります。ハリウッドの映画に出演した彼女の名前の「シャーリー・ヤマグチ」もそのひとつで、後にパレスチナと日本の友好に国会議員として尽力もし、パレスチナでは「ジャミーラ・ヤマグチ」と親愛を込めて呼ばれました。イスラエルは李香蘭という少女を間違った戦争の宣撫工作に映画を通してかりたてた満州国のようだ、とも山口淑子さんはおっしゃっておられます。
さて、『ミュージカル李香蘭』は間違ったこと、戦争を繰り返さないためにも、一人でも多くの人に見てもらいたい、そのような名作、演劇、ミュージカルなのであります。


鎌倉能舞台で能楽を見ました。見た狂言は『伯母ヶ酒』、能は『熊野(ゆや)』です。見に来た足で長谷寺て長谷観音にお参りもし、高徳院の大仏にも参りました。
さて、能楽です。狂言の『伯母ヶ酒』はお酒飲みの話で落語の原型を思わせる滑稽さです。能の『熊野』は平家の公達に仕える遊女が故郷に残してきた病気がちの老いた母をおもんばかる話。桜咲く酒宴で舞う遊女にやっと許された母のもとへの帰郷で幕のめでたし、めでたし。こういう能を「夢幻能」に対しての「現在能」というらしいです。『熊野』は定番の名曲。
人間国保の能楽士の中森貫太さんの解説もありました。江戸時代、日本の芸能、歌舞音曲は、朝廷の雅楽、武士の能楽、町民の歌舞伎や文楽というように棲み分けていたらしいです。その中でもっとも豪勢な富を得ていたのが、歌舞伎役者だったそう。一年に千両とか。すげー。で、千両役者なんだそうです。現在のお金に換算すると千両は一億三千万円だそう。
ここらへんでお金の話はやめて、鎌倉能舞台の話をします。舞台と客席がすごく近い。囃子方の大鼓、小鼓の音と掛け声の迫力が驚くほどすごいのです。びっくり。
人がいっぱいの鎌倉の町でありました。


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プロフィール
HN:
えいちゃん
性別:
男性
職業:
S.E.
趣味:
音楽
自己紹介:
音楽を演奏したり聴いたりするのが好きです。
歌ってしまいます。そしてギターも少々。
Sam CookeやOtis Reddingなど古いR&Bが好きです。
歌ってしまいます。そしてギターも少々。
Sam CookeやOtis Reddingなど古いR&Bが好きです。


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