えいちゃん(さかい きよたか)

えいちゃんのぶろぐ

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こんな夢を見た。今日はバンドのライブのある日、近所のギタリストと落ち合い、電車に乗ってライブハウスに向かうが、途中で持ってこようとしていた歌詞カードを忘れているのに気づく。家に引き返し歌詞カードを取ろうとし二階に上がるのだけど、そこは知らない大きなタイル敷きのお風呂のないバスルームのような部屋になっていて、死んだはずの犬、レオがいる。ぼくは、レオを撫で毛が柔らかくもあり、獣らしく少ししごわごわもしている。体毛は茶色と黒なのだが、鼻の毛が真っ黒なのはまさしくレオ。そこに母が来て、どうしたの、と聞くから、ぼくはレオを抱き上げて、ほら、レオが帰って来たよ、と答える。母は、それはレオそっくりだけど、レオじゃありませんよ、と言う。ぼくはレオじゃないのかな、と思いつつも、レオみたいだから、うれしい。

そこで目が覚めた。レオが、まだどこか近くにいるような気がした。
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山梨県早川町の三里にある町営の温泉宿「ヘルシー美里」に泊りに行ってきました。身延線からバスに乗り一時間、何もない村にやってきたのではなく、人の暖かさと宿になった中学校と森や木、鳥たちのさえずりはあったのです。

ここは昔は三里中学校、のちの早川北中学校であったところで、古い木造の学校の外観がそのまま残っています。子ども連れの家族がたくさん来ていて、ちらほら、校庭だったところで子どもたちが遊んだりしています。夜には星空観察会、朝には餅つき大会などが催されていました。

夕食は猪鍋やら山女魚やらさしみこんにゃくやら、ここでとれたものがおいしかったです。そして、ここの温泉が素晴らしい。本当は鉱泉なのですが、その沸かし湯に入るのです。それが知られざる極上の湯でした。穴場見っけ!

http://www.hayakawa-eco.com/hmis
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こんな初夢を見た。ぼくとある女の子は廃校となったある中学校に裸にバスタオルだけをまとい向かっていく。途中で誰かに会って気づかれないか少し不安でもあるけれど、気づかれてもいい、とも思う。なぜなら二人にはこのかっこうがちょうどいい。廃校に着く、コンクリート仕立ての校内は冷たくない水で水浸しになっている。ある時は踝まで水につかり、ある時には膝まで水につかり、二人はある部屋に向かって進んで行く。

そこで目が覚めた。禅師の未熟者め、という声が聞こえてきそうですな。警策でたたかれてしまうぼくです。
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内田樹さんの著した「寝ながら学べる構造主義」という本を読みました。レヴィ=ストロースの「悲しき熱帯」が難しくて、なかなか読み進められなかったもので、その解説本のような本に手を出してしまったのだけど、さすが内田樹さんの著作、一気におもしろく読めてしまった。

構造主義という哲学には3人の源流があるらしい。その源流とは経済学者マルクスと精神分析医のフロイトともとは文献学者であったニーチェ。それを受け継いだのが言語学者のソシュール。それらの思潮がフーコー、バルト、レヴィ=ストロース、ラカンに続いていく。

どういう考え方なのかというと、ぼくたちは当たり前の前提としてあるものも疑わなくてはならないけれど、それに気づくことも難しい、というようなことだろうか。例えばの端初として、虹が七色に見えるという人たちもいて、虹が二十色に見えるという人もいて、言葉と思考は牢獄のようなものかもしれない、などと思う。それに気づくとはどういうことなのだろうか、ということのヒントが、例えば、レヴィ=ストロースのこの言葉を何度も、ゆっくりと読むと、少しはわかる気がするのです。

「彼らのうちであれ、私たちのうちであれ、人間性のすべては、人間の取りうるさまざまな歴史的あるいは地理的な存在様態のうちのただ一つのもののうちに集約されていると信じ込むためには、かなりの自己中心性と愚鈍さが必要であるだろう。私は曇りない目でものを見ているという手前勝手な前提から出発するものは、もはやそこから踏み出すことはできない。」

この言葉は、サルトルの実存主義を終焉させ、教化する宣教師たちの役割を終わらせたのかもしれないけれど、レヴィ=ストロース自身にも鋭い刃を向けているのに違いない。そして、ぼくたちだれもが、未開と呼ばれようがそう呼ばれなくても、西洋であれ東洋であれ、「悲しき熱帯」を生きているのかもしれない、と想起させてくれもする。









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最近、毎晩、聴いてしまうCDがあって、それはThe Cheiftainsの最新アルバム"Voice Of Ages"。特に4曲目の"Down In The Willow Garden"に惹かれます。深く死者を悼む気持ちと人を許す気持ちと許されないともわかっている懺悔と悔恨がないまぜとなって、重い金槌で打たれたような感動に海の底の静けさまで沈みこむようだ。ぼくはこの歌を何かが宗教的だと思います。チャーリー・モンローというアパラチアのカントリー・ミュジックの祖が初めて世に出し、エヴァリー・ブラザースやアート・ガーファンクルが歌い継いだこの歌は、もともとはアイルランドの伝承歌であったという。ぐるりとひとまわりして、アイルランドにもどり、アイルランドの結成50年を迎えた古老バンドCheftainsが若いオルタナ・カントリー・バンドBon Iverと共演し、こんな名演奏を21世紀に届けてくれました。詞を意訳してみたくなりました。ごらんあれ。そして、今夜もおやすみZZZzzz.....

柳の木の下で
ぼくとぼくの愛おしい人は会っていた
ぼくたちはそこでよりそって
愛おしい人は眠ってしまった

ぼくはそこでブルゴーニューのワインを持っていて
愛おしい人はそれをしらなかった
そこでぼくは親しいかわいい娘を殺してしまった
そこは土手のそばの下のあたり

ぼくはサーベルを彼女にむけたけれど
それは血まみれのナイフだった
ぼくは彼女を川に捨て
それは恐ろしい光景だった

ぼくの父さんはいつも
お金がぼくを自由にしてくれると言っていたけれど
ぼくがあわれなあの娘を殺してしまったなら
彼女の名前はローズ・コネリー

父さんは小屋に立ちすくみ
涙をぬぐって
彼の絞首台高くの息子を
見つめていた

太陽の下でぼくは絶えていく
悪魔がぼくを待っている
ぼくが殺したあの娘の名前は
ローズ・コネリー


The Chieftains ft Bon Iver - Down in the Willow Garden

http://www.youtube.com/watch?hl=ja&gl=JP&v=YDlF4Nozi2w
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近ごろはネットウヨクと呼ばれる人たちがいるらしい。インターネットの中の右翼であるらしい。そういえば、電話線の中の右翼を描いた小説があった気がし、それが、中上健次の「十九歳の地図」であることことを思い出し、再び読みたくなり、会社帰りにイーオンの中の未来書店で文庫本を見つけ、買って、読んでしまった。

「十九歳の地図」の主人公は十九歳の新聞配達の少年で、いちおう、浪人生となっていて、けれど、大学の進学はあきらめ、東京のどこかで、半ば無為と思えるような毎日を送っていて、気晴らしに公衆電話から、自分は右翼だと自称する嫌がらせの電話を知らない人にかける。

ぼくは、ティーンエイジャーのころ、ミュージック・マガジンか何かの記事で芥川賞を取った新進気鋭の作家、中上健次という人を知り、近所の鹿沼図書館でその芥川賞を取った小説「岬」を読み、こんな小説があってもいいのかと当時はショックを受け、あらゆる中上健次の作品をむさぼり読んだ。今、読み返してもおもしろく、あー、この悪態をつく文体はカソリックの司祭から不道徳、非倫理的作家だとされ、葬儀を拒まれたフランスの作家、ルイ・フェルディナン・セリーヌの強い影響を日本の風景の中に必死に定着させようとしていたのかもしれない、とも思った。この短編集の中には四篇の小説が収められていて、それは、「一番はじめの出来事」、「十九歳の地図」、「蝸牛」、「補陀洛」。昔、読んだころは「十九歳の地図」を一番おもしろいと思ったのだったけれど、今のぼくは、中上健次の首をくくって死んだ実の半分だけ血のつながった兄を哀悼するかのような「補陀洛」に惹かれる。この死んだ兄の話は、多くの中上健次の小説に影をおとし、何度も登場する。

初めて読んだ時は、これらの小説の舞台としてもあるようなところが本当に日本のどこかにあるのか、と驚きもした。後にこれらの小説が被差別部落を描いていることを知ったのだけど、小説の中では一度も「差別反対」や「部落」という言葉は出てこず、そこを中上健次は「路地」と呼称した。その路地のある町、紀州の新宮あたりを旅したことがあるのだけど、中上健次の小説の世界を想像していたぼくは、むしろ不思議に明るい感じを受け、拍子抜けしたような気にもなった。その時、太地の町かどこかを歩いていると、男二人が紀州弁で怒気荒く、何かを言い争っていて、女一人がそれを止めに入ろうとしている。その時は、何度も読んだ中上健次の世界が胸にせまるようで、火をつければ燃え上がる男たちと女たちであるならば、それは、中上健次の愛した神倉山の火祭りであるような気がした。







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パナソニック汐留ミュージアムへ「ジョルジュ・ルオー アイ・ラブ・サーカス」展を見に行ってきました。サーカスをテーマにしたジョルジュ・ルオー展です。

ルオーと聞いて思い浮かべるのは荒野をとぼとぼ歩くキリストとその弟子たちや聖骸のようなキリスト像であり、その黒く縁取られ厚く塗りこめられた暗い絵なのだけど、サーカスの絵も、何か、キリストとその弟子たちを同じように描いているようなのでした。そのような絵を描きつづけつづけたルオーだけど、最晩年に近いころの「貴族的なピエロ」という絵は、黒ではなく、青を貴重とし、何か明るく、女のピエロが悲哀や憂鬱ではなく、微笑さえたたえていて、その笑みがが復活したキリストの微笑でもあり、悟りを得た仏陀の微笑のようでもあり、何か、感じ入りました。深い美しさを感じました。

それから、パリの往年のサーカスに関する展示やビデオも上映していて、それも素敵でした。

サーカスに魅せられたジョルジュの詩の一節をご紹介して、今夜はおやすみZZZzzz.....

子供の頃のあのサーカス
貧苦にやつれた小さな顔の
場末の町の貧しい子には
サーカスの光こそは太陽であり、心の夢の故郷だ
それとももしかしたら、失われた楽園の象徴か
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プロフィール
HN:
えいちゃん
性別:
男性
職業:
S.E.
趣味:
音楽
自己紹介:
音楽を演奏したり聴いたりするのが好きです。
歌ってしまいます。そしてギターも少々。
Sam CookeやOtis Reddingなど古いR&Bが好きです。
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