えいちゃん(さかい きよたか)
えいちゃんのぶろぐ

ティク・ナット・ハン著、池田久代訳の「小説ブッダ-いにしえの道、白い雲」を読了した。この本、小さい八十一の章からなっているのだが、二段組の四百頁を超す厚さなのに、我ながらよく読み通せたのは、毎晩、眠る前に一章か二章づつ読みつづけたからであった。すると、猛烈に眠くなり、眠ってしまう。次の夜、また読みたくなり、読むと、あえていうなら、つまらなくて、眠ってしまう。けれど、また次の夜、惹かれて読んでしまうの繰り返しであった不思議な本です。ティク・ナット・ハンさんはベトナムからフランスに移住し活動する有名なお坊さんであるらしいのだが、ブッダを描いても決して神がかりならず、しかし、敬意とやさしさに満ちていて、池田久代さんの訳の日本語もまっすぐで平易で読みやすい。後半から仏教の教えが物語に登場するブッダ自身やブッダの弟子たちの口をかりて、つづられるのだけど、平易に語れれるこの震撼とさせる言葉をぼく自身への覚書としてそこから引用し、この眠くなる本をみなさんにお薦めします。
「私の目は私ではない。私の耳は私ではない。私の鼻も、私の舌も、私の体も、私の心も私ではない。眼識は私ではない。耳識も私ではない。鼻識も、舌識も、身識も、意識も私ではない。地という要素は私ではない。水も、火も、風も、空間も、意識という要素も私ではない。生死は私に触れることがない。生まれたことも死ぬこともないがゆえに私は微笑む。生によって私が存在したのでもなく、また死によって私の存在が奪い去られることもない」
「私の目は私ではない。私の耳は私ではない。私の鼻も、私の舌も、私の体も、私の心も私ではない。眼識は私ではない。耳識も私ではない。鼻識も、舌識も、身識も、意識も私ではない。地という要素は私ではない。水も、火も、風も、空間も、意識という要素も私ではない。生死は私に触れることがない。生まれたことも死ぬこともないがゆえに私は微笑む。生によって私が存在したのでもなく、また死によって私の存在が奪い去られることもない」


Jim Kweskinの2009年の今のところの最新アルバム"Enjoy Yourself(It's Later Than You Think)"を聴きました。ジャグバンド・リバイバルの1960年代から40年以上が過ぎました。このアルバムでは所謂オールド・ジャズなどと呼ばれるアメリカのスタンダード曲が次々と歌われるのですが、バンジョーやアコースティック・ギター、フィドル、マンドリンなどのカントリーの編成で見事にノスタルジックにスウィングしています。しかも、ジムの歌が1960年代のジャグバンドのころよりも格段にうまくなり、味わい深くもなっていることにびっくり。このアルバムはチャートにのぼらない、日のあたらない名盤かもしれないけれど、その音楽はジャケット写真のようにぽかぽかと小春日和のように暖かい。いつかジムのような好々爺になりたいな。


会社帰りにつたやに寄り、まさかこんな映画は置いてないだろうと思いつつ、邦画のコーナーに行くと、目に飛び込んできた「兵隊やくざ」の文字に喜んで借りてしまった。
増村保造監督の「兵隊やくざ」は、満州での関東軍の駐屯地を舞台にした、勝新太郎演ずる大宮貴三郎と田村高廣演ずる有田上等兵の友情物語であり、痛快娯楽作なのであった。
軍規をやぶってなんぼというような大宮貴三郎と有田上等兵のふるまいを見て、どんなところに行くことになっても自由に生きたい、そいて、生きのびる、と思うのだった。1965年のこの映画、興行成績も優秀で、座頭市と並ぶ、勝新太郎を代表するヒット・シリーズとなったのだけど、こんな映画を見て溜飲をさげていた日本の庶民というのもなかなかのものだ。そして、田村高廣の怪演もおもしろい。有田上等兵は頭で暴れて、大宮貴三郎は体で暴れて、二人の心は友情でつながっていて、しかも、自由なんだ。自由が最高!


佐野眞一さんの著した「宮本常一の写真に読む失われた昭和」を読了した。読むと同時に民俗学者、宮本常一の残した101点ものちりばめられた写真をつくづく見てしまう。かの現代日本の写真芸術を代表する森山大道氏も宮本の写真にはかんわない、とこの本の解説で述べている。「苦海浄土」の作者でもある石牟礼道子さんが宮本常一について書いた文がこの本の中で引用されているのだが、それをぼくも書き写す。
「この潮の満ち干きする渚の、おどろくほどの緻密な観察と鮮明な記憶、まのあたりに見ているような平明な描写力。読んでいてふいに胸えぐられる感じになるのは、今はこの列島の海岸線すべてから、氏の書き残されたような渚が消え去ったことに思いいたるからである」
それは日本中を旅したこの民俗学者の残した写真についてもいえる。10,000点以上の写真を残し、それはかげがえいのない日本人の記憶として彼の故郷の地にある山口県の周防大島文化交流センターに展示されているそうだ。いつか見に行きたいものだ。
この本「宮本常一の写真に読む失われた昭和」なのだが、宮本民俗学のかっこうの入り口となるようなものかもしれない。高度成長期に過疎の道をたどる日本の村のために自助自尊をといた宮本常一さんは学者や作家の気質を超えて、もしかして宮澤賢治のような人だったのかもしれない、と思った。失われたのは昭和ではなく日本なのかもしれない。右からは極左と呼ばれ、左から極右と呼ばれていたそうだが、本当だろうか。かっこいなー。怒りすらもともなって宮本常一は自身の死の三年前に述べたそうだ。
「失われるものがすべて不要であり、時代おくれのものであったのだろうか。進歩に対する迷信が、退歩しつつあるものをも進歩と誤解し、時にはそれが人間だけでなく生きとし生けるものを絶滅にさえ向かわしめつつあるのではないかと思うことがある」
そして、ぼくはカメラを持って旅に出たくなりました。
「この潮の満ち干きする渚の、おどろくほどの緻密な観察と鮮明な記憶、まのあたりに見ているような平明な描写力。読んでいてふいに胸えぐられる感じになるのは、今はこの列島の海岸線すべてから、氏の書き残されたような渚が消え去ったことに思いいたるからである」
それは日本中を旅したこの民俗学者の残した写真についてもいえる。10,000点以上の写真を残し、それはかげがえいのない日本人の記憶として彼の故郷の地にある山口県の周防大島文化交流センターに展示されているそうだ。いつか見に行きたいものだ。
この本「宮本常一の写真に読む失われた昭和」なのだが、宮本民俗学のかっこうの入り口となるようなものかもしれない。高度成長期に過疎の道をたどる日本の村のために自助自尊をといた宮本常一さんは学者や作家の気質を超えて、もしかして宮澤賢治のような人だったのかもしれない、と思った。失われたのは昭和ではなく日本なのかもしれない。右からは極左と呼ばれ、左から極右と呼ばれていたそうだが、本当だろうか。かっこいなー。怒りすらもともなって宮本常一は自身の死の三年前に述べたそうだ。
「失われるものがすべて不要であり、時代おくれのものであったのだろうか。進歩に対する迷信が、退歩しつつあるものをも進歩と誤解し、時にはそれが人間だけでなく生きとし生けるものを絶滅にさえ向かわしめつつあるのではないかと思うことがある」
そして、ぼくはカメラを持って旅に出たくなりました。


横浜ジャグ・バンド・フェスティバルに遊びに行ってきました。日本国中のいろんなジャグ・バンドが集まる一年に一回のお祭りなのです。
いろんなバンドがあって、みんな個性的でおもしろくて楽しい。ジャグとは蛇口とか瓶の口の意味だけど、もう一つの隠れた意味は自由ということではないかと、入れ替わり立ち替わりの演奏を見て、信じてしまう。そして、今年のスペシャル・ゲストは1960年代にジャグ・バンド・リバイバルの火付け役となった伝説のジム・クウェスキン・ジャグ・バンドの再結成。すしづめのようになった満員の横浜の老舗ライブ・ハウス、サムズ・アップで二曲つづけて聴かせてくれたブルース、「モーニング・ブルース」と「ワイルド・アバウト・マイ・ラビンク」にぼくの目頭は熱くなったのです。


「白い河 風聞 田中正造」を読了した。立松和平の絶筆だという。作者は病に倒れ、鉱毒事件と戦う谷中村の農夫の大六が日露戦争に従軍するところで物語はふいに中断している。この前に読んだ「毒 風聞 田中正造」の続編だろうかと思い読み始めたのだが、物語はほぼ同じ時を背景にし、「毒 風聞 田中正造」とはまったく異なった文体で書かれていた。人以外の生き物たちも語るというということはなく、全編が三人称でつづられる。この小説を読むと、立松は島崎藤村の「夜明け前」のような小説を書きたかったのかもしれない、と思った。「夜明け前」は途中まで読んだけど、いつか最後まで読み通したい、と望みつつ、この未完の傑作にエールを送る。大六の行軍のところで話は終わり、本を閉じると、勝っても負けても戦争は戦争、と思い、敵味方関係なく、百年前の兵士の霊が背中の方で無言で立っているような気もした。


立松和平の著した「毒 風聞 田中正造」を読了した。毒水の奔流にのみこまれるなまずの語りから始まるこの物語を読み始めて、ぼくは立松和平の朋友であった中上健次は大逆事件で処刑された大石誠之助を書かずに逝ってしまった、と思った。ひるがえって、立松和平が彼の郷里の怒れる聖人、足尾鉱山鉱毒事件の被害民奔走に人生をかけて奔走し、野垂れ死んだ田中正造の物語を書き残したのはいいことだ、と思った。しかして、彼の小説の筆は、何かにとり憑かれたかのように進み、読後感は衝撃的に重く、小説とか文学というよりも、語り継がれていく和声の歌の物語のようだ。この本の紹介にとこの本自身の後記から引用し、ぼくもそれに声を歌にし合わせたい。
田中正造翁の生涯の願いどおり私も山河の護持を祈りつつ、本書を田中正造翁に捧げたい。
田中正造翁の生涯の願いどおり私も山河の護持を祈りつつ、本書を田中正造翁に捧げたい。


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プロフィール
HN:
えいちゃん
性別:
男性
職業:
S.E.
趣味:
音楽
自己紹介:
音楽を演奏したり聴いたりするのが好きです。
歌ってしまいます。そしてギターも少々。
Sam CookeやOtis Reddingなど古いR&Bが好きです。
歌ってしまいます。そしてギターも少々。
Sam CookeやOtis Reddingなど古いR&Bが好きです。


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