えいちゃん(さかい きよたか)
えいちゃんのぶろぐ

朝、合氣道の朝稽古をして、二つの美術館をはしごしました。神奈川県立美術館葉山と横須賀美術館。神奈川県立美術館葉山で『生誕110年 香月泰男展』、横須賀美術館で『ビジュツカンノススメ アートを楽しむ4つのヒント』と『谷内六郎展 いつまで見ててもつきない夢』を見ました。
神奈川県立美術館葉山『香月泰男典』で、ついにぼくは、たくさんのシベリア・シリーズと呼ばれる、自らのシベリア抑留体験を描いた名作を見て感動しました。
シベリア・シリーズではくすんだ黒た土の色に近い色を執拗に描きつづけた香月泰男だったけれど六十二歳の生涯の中のその晩期、清冽な青い色を描きはじめていたことを知りました。その青の美しさ。「青の太陽」と題された絵にそえられた香月の画集の一文。
「ふと顔をあげると
東天の闇をついて太陽がのぼる
それは一瞬疲労も寒さも忘れ去れる
美しいものであった」
シベリアで抑留された人の一割が死に、そのすべてに近しい人々の死は餓死による死で、香月はおびただしい、そのような死を身近に見ていた、のだと思う。そのことが香月の絵を変え、それでも青い空はあった。
そして、横須賀美術館で『ビジュツカンノススメ』と『谷内六郎展』を見ました。
『ビジュツカンノススメ』で見た色鮮やかな中川久さんや川田佑子さんの抽象画を見ながら、ぼくは、ぼくの小学生のころの担任であった森田先生を思い出しました。校庭の砂場を灰色で描いていると、森田先生はちょっと絵筆をかりてもいいかな、といい、その灰色の砂場をいろとりどりの点で、きれいだなぁとつぶやきながら描いてくれたのです。ぼくはそれに感心し、どう描いてもいいんだ、自由なんだ、と思った。けれども、今では、そのことに不満というか、同意できない何かを感じてもいるのです。灰色は灰色の美しさがあるのではないかしら? 青の美しさ、赤の美しさと同じように。黒や茶色でもしかり。
楽しみにしていた『谷内六郎展』。その生涯を見通すさまざなな絵の幻想の詩の心に感激します。不覚にも目をうるませなが、ぼくは、昭和に戻りたいなぁ、というような言葉をひとりごちてもいたのです。
神奈川県立美術館葉山『香月泰男典』で、ついにぼくは、たくさんのシベリア・シリーズと呼ばれる、自らのシベリア抑留体験を描いた名作を見て感動しました。
シベリア・シリーズではくすんだ黒た土の色に近い色を執拗に描きつづけた香月泰男だったけれど六十二歳の生涯の中のその晩期、清冽な青い色を描きはじめていたことを知りました。その青の美しさ。「青の太陽」と題された絵にそえられた香月の画集の一文。
「ふと顔をあげると
東天の闇をついて太陽がのぼる
それは一瞬疲労も寒さも忘れ去れる
美しいものであった」
シベリアで抑留された人の一割が死に、そのすべてに近しい人々の死は餓死による死で、香月はおびただしい、そのような死を身近に見ていた、のだと思う。そのことが香月の絵を変え、それでも青い空はあった。
そして、横須賀美術館で『ビジュツカンノススメ』と『谷内六郎展』を見ました。
『ビジュツカンノススメ』で見た色鮮やかな中川久さんや川田佑子さんの抽象画を見ながら、ぼくは、ぼくの小学生のころの担任であった森田先生を思い出しました。校庭の砂場を灰色で描いていると、森田先生はちょっと絵筆をかりてもいいかな、といい、その灰色の砂場をいろとりどりの点で、きれいだなぁとつぶやきながら描いてくれたのです。ぼくはそれに感心し、どう描いてもいいんだ、自由なんだ、と思った。けれども、今では、そのことに不満というか、同意できない何かを感じてもいるのです。灰色は灰色の美しさがあるのではないかしら? 青の美しさ、赤の美しさと同じように。黒や茶色でもしかり。
楽しみにしていた『谷内六郎展』。その生涯を見通すさまざなな絵の幻想の詩の心に感激します。不覚にも目をうるませなが、ぼくは、昭和に戻りたいなぁ、というような言葉をひとりごちてもいたのです。




アンドリュー・レビタス監督の『MINAMATA ミナマタ』を見た。カリブの海賊のジョニー・デップが数々の名作で写真史に名を残すフォトグラファー、ユージン・スミスになりきって演じている。俳優とか役者ってすごい。そして、水俣市でのシーンは日本の役者が演ずることとなる。被害者の家族の水俣の市民を演じた真田広之さんとか浅野忠信さんとか、悪役のチッソの社長を演じた國村隼さん、水俣病の若い患者を演じた青木柚くん、もちろん、ユージン・スミスの連れ合いのアイリーンを演じた美波さん、みんな素晴らしい。
ラストのシーンで歴史の偉大な瞬間に立ち会えたかのようで、鳥肌が立ち、ぼくの涙腺はいっきに崩壊しました。
映画『MINAMATA―ミナマター』公式サイト


中河伸俊さんの著した『黒い蛇はどこへ 名曲の歌詞から入るブルースの世界』を読了。35曲のアメリカのブルースの歌詞が取り上げられていて、読むと、ブルースの不思議な魅力が輝き始めます。間男の誘いなどの日常の些事(ロバート・ジョンソンの「うちの台所へお入り」)から、人類が月に宇宙船で降り立った社会のこと(ハウリン・ウルフの「月のクロ助」)まで、なんでも歌うブルースは素晴らしい、とあらたにぼくは認識しました。おいらの今の楽しみだってブルースとフライフィッシングだよ。この本の「あとがき」に中河さんが書かれているように、ぼくもリトル・ミルトンに合わせてこう唱和したく存じます。「Hey, Hey, the blues is alright!」


藤城清治さんの影絵の展覧会「こびとといっしょ 生きるよろこび展2021」を見に、銀座にある教文館ウェインライトホールに行きました。
藤城清治さんの影絵の展覧会「こびとといっしょ 生きるよろこび展2021」を見に、銀座にある教文館ウェインライトホールに行きました。
毎年、つづいていたこの展覧会、今年で最後だというのも、銀座の教文館の建物自体が建て替えとなる事情からだという。そのせいか、規模を縮小しての開催だったように、何回か、この展覧会「生きるよろこび展」に来ているぼくは思いました。
久しぶりに懐かしいあのセルロイドの影絵のこびとたちに会えました。ふと、スーマーさんの歌うミンストレルは藤城清治さんが想像して、作り出した影絵の中のこびとではないかしら、と思う。見えないけれど、見えるときがあるのです。
那須塩原にある藤城清治美術館にニ度目の訪問をする旅をしようかしら? 今年の「生きるよろこび展」では会えなかったケロヨンとモグちゃんに会えるかな? 子どものころ、ケロヨンとモグちゃんが好きでした、ぼくはそんな世代です。
藤城清治さん、御年、九十七歳、いつまでもお元気でいてください。
藤城清治さんの影絵の展覧会「こびとといっしょ 生きるよろこび展2021」を見に、銀座にある教文館ウェインライトホールに行きました。
毎年、つづいていたこの展覧会、今年で最後だというのも、銀座の教文館の建物自体が建て替えとなる事情からだという。そのせいか、規模を縮小しての開催だったように、何回か、この展覧会「生きるよろこび展」に来ているぼくは思いました。
久しぶりに懐かしいあのセルロイドの影絵のこびとたちに会えました。ふと、スーマーさんの歌うミンストレルは藤城清治さんが想像して、作り出した影絵の中のこびとではないかしら、と思う。見えないけれど、見えるときがあるのです。
那須塩原にある藤城清治美術館にニ度目の訪問をする旅をしようかしら? 今年の「生きるよろこび展」では会えなかったケロヨンとモグちゃんに会えるかな? 子どものころ、ケロヨンとモグちゃんが好きでした、ぼくはそんな世代です。
藤城清治さん、御年、九十七歳、いつまでもお元気でいてください。


二度目の山梨県の忍野村の釣りの旅行をしました。台風が熱帯低気圧に変わって、降ったりやんだりの中、釣竿を振っていました。
釣りをする川から、歩いて5分の忍野高原ホテルに泊まりました。その宿の人と朝食の時、こんな会話がありました。
「何をしに忍野まで来たんですか」
と宿の人。
「実は釣りをしに来たんです。フライフィッシングの初心者なんですけど」
とぼく。
「それは釣れないわ。あそこの川はベテランみたいな人しか釣れないのよ。釣り人が多くて、魚が賢くなって、初心者の釣りの人なんて魚にバカにされるのよ。すぐ近くに寄ってきて、わざとらしくすーっと逃げたりして」
よく分かっていらっしゃる。
釣れなかったけど、夕まづめのライズはすごかった。何度か当たりはあったのだけど、毛鉤をかけられなかった。フライフィッシングって難しいなぁ。そこも、とても面白いのだけど。
朝、散歩がてら、釣竿を宿から川に行ってみた。朝まづめもすごいかな、と思っていたけれど、それほどでもなく、昨日の夕まづめは本当にすごかったんだ。朝食を食べて、宿を出発し、昼まで釣りをした。毛鉤を藪や木に何度もひっかける。昨日、川で出会った人とこんな会話もありました。
「久しぶりに忍野に釣りをしに来て、様子を見に来たんだけど、藪で投げにくそうだね。昔は、結構、ちゃんと草が刈られて、手入れされていたんだけどな」
そうか、そんなところでもあったのか。
昼ごろ、近くのさかな公園にある森の中の水族館を見物しました。子どもがいっぱい。そして、ぼくの釣れなかった魚がたくさん泳いでいました。
帰りに柄の長い忍野の釣りの専用のランディングネット、忍野ネットを買って帰ろうと思って、忍野村のフライフィッシングの専門店兼レストラン、リバーズエッジに寄ってみたのだけど、「今日の開店は午後3時からです」という看板がさげられ、閉まっていました。忍野ネットは次の春までお預けだな。というのも、10月から2月まで、長い禁漁期間に入るのです。その間、フライフィッシングの愛好家はタイイングという毛鉤巻きにいそしむ。いろんな意味で、なんて贅沢な遊びなんでしょう。足腰が弱っているのも気づき、もっと若いころ、フライフィッシングを始めればよかったのにと思いつつ、人生の時を過ぎてきた今の自分だからこそ感じれる楽しみや幸せもあるのだと思うぼくなのです。
釣りをする川から、歩いて5分の忍野高原ホテルに泊まりました。その宿の人と朝食の時、こんな会話がありました。
「何をしに忍野まで来たんですか」
と宿の人。
「実は釣りをしに来たんです。フライフィッシングの初心者なんですけど」
とぼく。
「それは釣れないわ。あそこの川はベテランみたいな人しか釣れないのよ。釣り人が多くて、魚が賢くなって、初心者の釣りの人なんて魚にバカにされるのよ。すぐ近くに寄ってきて、わざとらしくすーっと逃げたりして」
よく分かっていらっしゃる。
釣れなかったけど、夕まづめのライズはすごかった。何度か当たりはあったのだけど、毛鉤をかけられなかった。フライフィッシングって難しいなぁ。そこも、とても面白いのだけど。
朝、散歩がてら、釣竿を宿から川に行ってみた。朝まづめもすごいかな、と思っていたけれど、それほどでもなく、昨日の夕まづめは本当にすごかったんだ。朝食を食べて、宿を出発し、昼まで釣りをした。毛鉤を藪や木に何度もひっかける。昨日、川で出会った人とこんな会話もありました。
「久しぶりに忍野に釣りをしに来て、様子を見に来たんだけど、藪で投げにくそうだね。昔は、結構、ちゃんと草が刈られて、手入れされていたんだけどな」
そうか、そんなところでもあったのか。
昼ごろ、近くのさかな公園にある森の中の水族館を見物しました。子どもがいっぱい。そして、ぼくの釣れなかった魚がたくさん泳いでいました。
帰りに柄の長い忍野の釣りの専用のランディングネット、忍野ネットを買って帰ろうと思って、忍野村のフライフィッシングの専門店兼レストラン、リバーズエッジに寄ってみたのだけど、「今日の開店は午後3時からです」という看板がさげられ、閉まっていました。忍野ネットは次の春までお預けだな。というのも、10月から2月まで、長い禁漁期間に入るのです。その間、フライフィッシングの愛好家はタイイングという毛鉤巻きにいそしむ。いろんな意味で、なんて贅沢な遊びなんでしょう。足腰が弱っているのも気づき、もっと若いころ、フライフィッシングを始めればよかったのにと思いつつ、人生の時を過ぎてきた今の自分だからこそ感じれる楽しみや幸せもあるのだと思うぼくなのです。


ブレイディみかこさんの著した『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー 2』を読む。面白くて、旅先、忍野村の宿で、一気に一晩で読んでしまった。旦那さん、みかこさんいうところの配偶者、そして、この本の主人公でもあるぼく、みかこさんの息子とみかこさんの在英生活記。
こういうのを読むと、日本は30年間、いろんなことが止まってしまっているようにも思え、後塵に期してしまった国であることを悩ましく考えてしまう。アフガニスタン、ミャンマー、香港のように、時代が急に逆戻りしてしまう国もある。マレーシアの大統領から"Look east"といわれ、日本の経済発展を羨望され、手本とされたことも遥か昔に過ぎ去った。入国管理所でいじめ殺されたスリランカ人のウィシュマ・サンダマリさんのことが申しわけなく、悲しい。日本も今や、とても遅れています。アジアのみなさま、進みはジグザクだけど、がんばって行きましょう。
さて、『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー 2』にもどり、やはり、英国と日本のあらゆるところの違いに驚く。と同時に、少しづつ子が親から離れていく、その時の物語でもあった。ぼくが中学生のころはどうだったけかな? 中学三年生の時、ぼくはパンク・ロックに出会ったんだ。
改めて日本が好きなぼくは、6章の「再び、母ちゃんの国にて」に日本のこれからの希望の一筋を見つけた気がしました。
