えいちゃん(さかい きよたか)
えいちゃんのぶろぐ
フェリックス・ヴァン・ヒュルーニンゲン監督とシャルロッテ・ファンデルメールシュ監督の共同監督の『帰れない山』を見ました。山とともに生き、山とともににあろうとした男と、山に憧れつづけた男の友情物語。
この前、旅をした飯田の風の学舎やそこで聞いた大鹿村のことがなんだか思い出される。世界はつながっていて、もしかして同時進行のシンクロニシティなのでしょうか?
原作はパオロ・コニェッティさんの小説『帰れない山』で自伝的な何かなのであろうか? 映画『帰れない山』では山の美しさが映像でせまってきます。
映画の会話に出てくる「真ん中の山」って何だろう? 謎めいたラストの展開はハッピーエンドには見えず、なんともいいがたいものでありました。大きな世界の輪廻に身をまかせたということなのだろうか?
映画『帰れない山』オフィシャルサイト
オンデマンドで小津安二郎監督の『宗方姉妹』を見ました。「宗方姉妹」と書いて「むねかたきょうだい」と読むそうです。
田中絹代が姉、高峰秀子が妹を演じていて、若かりし頃の高峰秀子ってこんなにきれいで可愛らしかったんだ、などと思う。
新東宝での作品ですが、松竹のいつもの小津調のまま。ただ、映画の中の雨はしとしとではなく、ザーザーふっています。
1950年(昭和25年)の映画で、出てくる看板とかが英字で、読んでいる新聞が英字新聞だったりする。そして、何気ない日常のシーンに敗戦ということが暗い雲となって大きな影を落としているとも思えました。
小津の有名な言葉で「永遠に通じるものこそ常に新しい」といのがあうるけれど、この『宗方姉妹』では「古くならないものが一番新しい」というセリフがこの映画にはあったりします。
よねやまたかこさん、ナダノキさん、オノカズさん、えいちゃんことぼくの四人で歌う旅をしました。
一日目、下諏訪のフォーク酒場「1977」のオープンマイク、二日目、飯田の風越公園での「FOLK SONG PICNIC」と「風の学舎」での打ち上げ、三日目、飯田の「SPACE TAMA」でのオープンマイク「ブラボー音楽会」。四者四様の東京や神奈川から来た四人の歌でもありましたし、とくに「風の学舎」での打ち上げは、歌うこと、演奏すること、歌を聴くこと、音楽を聴くことの楽しさの原点に立ち返り、思い出させてくれたようにも思われました。
思いがけぬ再会もあったし、そして、何の事故もなく四人ともちゃんと帰ってこれたことが何よりでした。
楽しかった。
一日目、下諏訪のフォーク酒場「1977」のオープンマイク、二日目、飯田の風越公園での「FOLK SONG PICNIC」と「風の学舎」での打ち上げ、三日目、飯田の「SPACE TAMA」でのオープンマイク「ブラボー音楽会」。四者四様の東京や神奈川から来た四人の歌でもありましたし、とくに「風の学舎」での打ち上げは、歌うこと、演奏すること、歌を聴くこと、音楽を聴くことの楽しさの原点に立ち返り、思い出させてくれたようにも思われました。
思いがけぬ再会もあったし、そして、何の事故もなく四人ともちゃんと帰ってこれたことが何よりでした。
楽しかった。
臨済宗円覚寺派管長であらせられる横田南嶺さんの著された『こころころころ はがきで送る禅のこころ』を読みました。横田南嶺和尚が檀信徒の皆さんに送られた葉書の言葉から『こころころころ』はなっており、やさしく仏教、禅の心が説かれておりました。この前、ぼくが鎌倉の円覚寺に訪れた時にこの本は購入したものであります。ご紹介に一節を引用します。
「うたたねの ひととき楽し 蓮の上」
これは私が作った歌で、辞世の句にしても良いと思っています。人の一生というものは、仏様の蓮の上でうたたねをしているようなもの。孫悟空がどんなに動き回っても仏様の手の上であったように、私たちがいろんなことをやっても結局は仏様の手の平の上であり、蓮の上と表しました。
これを仏心といいます。蓮の上で懐かれながら、悩んだり苦しんだりしているこの場所が、仏心の中なのです。そう信じてゆったりとした気持ちですごすことが大切です。
ぼくは円覚寺の近くの建長寺の大仏を見上げながら友だちのふとつぶやいたことを思い出してしまいます。
「すべてを見ているんだよ」
国民宿舎の丹沢ホームにフライフィッシングのフィッシングエリアがあるというので行ってみました。
神奈川県の清川村から秦野市に向かう山の中の細い道を車で走らせるとその中間点にあって、対向車が来ないことを祈りながら走らせる。(帰り道は対向車線に車が来て、ちょっとあせった。)クマ出没注意のマークのある看板も見えて、鹿が歩いているのを目撃。朝早く、丹沢ホームに着き、遊漁券を払うと、丹沢ホームの主人から山蛭に気をつけてください、などと言われる。ウェイダーを着ているからか、山蛭は大丈夫でした。
自然そのままのフィッシングエリアで、苦労して入渓すると深山幽谷のままの渓谷と川でした。魚はそこかしこにいるのが見えます。初めて行くところのいつものボーズ(一匹も釣れないこと)じゃなくて、何匹かはフッキングできず、一匹はバラしたのだけれど、二匹釣れたことはよかったです。夏が過ぎたらまた来たいと思います。
神奈川県の清川村から秦野市に向かう山の中の細い道を車で走らせるとその中間点にあって、対向車が来ないことを祈りながら走らせる。(帰り道は対向車線に車が来て、ちょっとあせった。)クマ出没注意のマークのある看板も見えて、鹿が歩いているのを目撃。朝早く、丹沢ホームに着き、遊漁券を払うと、丹沢ホームの主人から山蛭に気をつけてください、などと言われる。ウェイダーを着ているからか、山蛭は大丈夫でした。
自然そのままのフィッシングエリアで、苦労して入渓すると深山幽谷のままの渓谷と川でした。魚はそこかしこにいるのが見えます。初めて行くところのいつものボーズ(一匹も釣れないこと)じゃなくて、何匹かはフッキングできず、一匹はバラしたのだけれど、二匹釣れたことはよかったです。夏が過ぎたらまた来たいと思います。
大江健三郎の著した『晩年様式集』を読了した。この小説の背景として、東日本大震災とその後の原発の廃炉を求める運動があり、虚実ないまぜとなった作家自身の一人称で書かれた小説であった。とても読み進めるのが難しかったのは、先行となる多くの小説を読んでいなくては、分かりにくい部分もあったように思われる。大江健三郎という大きな物語群が終わってしまって、やはり寂しい。いつか、先行するたくさんの大江健三郎の小説を読んでから、再び『晩年様式集』を手にしたいと思います。