えいちゃん(さかい きよたか)
えいちゃんのぶろぐ
午後からうらたんざわ渓流釣場でフライフィッシングをしました。もう釣場の人に顔をおぼえられているみたいだし、ぼくのホーム・グラウンドといえば、ここですな。
今日は、ウェイダー(胴まである長靴みたいなの)を履いて、ポンドで少しフライラインを投げてから、自然の渓流そのままのエリア、ヤマメクラシックⅡに行きました。釣っているのはぼく一人で、魚影の濃さはポンドのところのなん分かの一。管理釣り場でないかのような、このような処があるのがうらたんざわ渓流釣場の魅力です。
そこで川辺を歩いていると、大きな魚影が水の中に見えました。もしかして釣れるかな、無理だろうな、などと思いつつ、毛鉤を魚影の少し前に落とす。魚はその毛鉤をパク。尺(1尺=約30.3センチメートル)越えの大きな虹鱒でありました。ネットに取り込み、写真を撮ってリリースします。魚はなぜか逃げ出さず、ずっと、ぼくの近くの水の中に、涼しそうにして、そこにいました。何を考えているのだろう? 鱒というこの種族は不思議な生きものだな。
松村雄策さんの訃報を聞き、松村さんの著した本『僕を作った66枚のレコード』を読み、アルバム『UNFINISHE REMEMBERS』を聴く。
松村さんは渋谷陽一さんのロック雑誌「ロッキング・オン」のライターで、ぼくが松村さんの文をよく読んでいたのは中学生の頃だった。その雑誌の中で、岩谷宏さんの文と松村雄策さんの文が好きだった。松村さんもぼくもアイドルはジョン・レノンとジム・モリソン。岩谷宏さんのイギー・ポップの詞の訳と文はかっこよかったな。
その後、パンクロックが登場して、それとは関係なく、高校生の頃は「ニュー・ミュージック・マガジン」を読むようになり、「ロッキング・オン」はあまり読まなくなっていた。「ニュー・ミュージック・マガジン」ではアメリカンロックが多く取り上げられ、「ロッキング・オン」ではブリティッシュロックが多く取り上げられていた。「ニュー・ミュージック・マガジン」でブルースやらのロック以外の記事も多くて、「ロッキング・オン」的にいうと、その選択は必然だった。ぼくは世界中のポップミュージックを聴きたかった。「ロッキング・オン」が「ニュー・ミュージック・マガジン」の点数を付けたレコード評を、学校の成績表か、ロックは点数で付けらるようなものじゃないだろ、などと批判していたのは、なるほどと思った。なるほど、と思いながら、ぼくは「ニュー・ミュージック・マガジン」で10点満点の付いたロバート・ジョンソンのレコードを買っていた。
『僕を作った66枚のレコード』は2017年に出されていて、ぼくが松村雄策さんの文を読んでいたあの頃のままなのだ。渋谷陽一さんは松村さんの訃報に際し、松村さんのことを「永遠の青春」と述懐していた。この『僕を作った66枚のレコード』が面白くて、一気に読んでしまったぼくも「永遠の青春」じゃん。
そして、ぼくは『UNFINISHE REMEMBERS』を聴いている。松村さんの歌って透明なガラスのようだ。けれど、そのガラスに近づけば、それが無数に傷だらけなのに気づく。ロックンロールってそういうことじゃん、とぼくはひとりごちる。それは完全に正しい、と松村雄策さんの声が聞こえたような気がした。
ロックンロールを胸に松村雄策さんは70歳で逝ってしまった。冥福をお祈りいたします。
ロジャー・ミッシェル監督の『ゴヤの名画と優しい泥棒』を見ました。ジム・ブロードベントとヘレン・ミレンの演ずる初老の夫婦、ケンプトン・バントンとドロシー・バントンの会話を見ていると、ちょっと違うけど、落語のようで、少し「芝浜」や「火炎太鼓」を思い出したりしました。コメディーなのだけれども、その映像は1960年代のブリティッシュのスタイリッシュで、1961年にロンドンであった本当の絵画盗難事件を題材にしています。後半は法廷劇となり、びっくりするようなやっぱ納得の判決と後日談につながります。
イギリスの映画で舞台はロンドンのはるか北、労働者の町、ニューカッスル。民主主義の生まれた国のイギリス。ユーモアはユーマニティ。ケンプトン・バントンのセリフ「あなたはわたし、わたしはあなた」。とんでもなく嫌なニュースが続く中、おいしいミントティーのような映画でした。ごちそうさま。
映画『ゴヤの名画と優しい泥棒』オフィシャルサイト
朝の六時前に起き、フライフィッシングの道具を車に積み、三月一日に釣り解禁となった養沢毛鉤専用釣場に行った。車の中で、ウクライナの情勢が気になり、NHKのラジオをつけて、圏央道を走らせる。ロシア軍に侵略されるウクライナの人の痛みを思い、海をへだててロシアと国境を接する日本にいる日本人のぼくにとってもまったく人ごと、遠いヨーロッパの出来事とは思えず、不安だ。奥多摩の山奥まで車は進み、ビリー・ホリデイのCDをかけた。
養沢毛鉤専用釣場に着き、この釣場の川の一番、下流にある管理事務所で受付をする。係りの人からコーヒーを勧められ、飲みながら、今日はどんな釣行となるのだろうか、と思いをはせ、管理事務所を後にする。入渓許可を示すバッチは十六番で、ぼくは十六番目の入渓者らしい。釣りの準備をし、管理事務所の下のポンドのところに降り、ロッドを振る。おっと、たくさんの魚がぼくの足音に逃げていく。静かに歩かねば。釣れなっかった。
四キロメートルもある養沢毛鉤専用釣場は魚はすれているけれど、管理事務所の下のポンド以外は自然の河川そのままで素晴らしい。車で上流の方に移動しそこから歩いて釣りあがることにする。入渓し、魚がいないか川を見て、魚の気配を感じるように気を配る。ところどころで魚影を見つけ、ラインを繰り出す。ある小さな淵で魚の群れているのを発見し、そこで浮くドライや沈むニンフを繰り出すが、ことごとく魚に無視されてしまう。
いつの間にか昼すぎになり、車を停めたところまで戻り、そこの近くのこの前に来た時に入った蕎麦屋さん「木の小屋」に行ってみるが、閉まっていた。しかたなく車で養沢センターに移動しそこで食事を取ろうとしたが、そこも営業していなく、そこのとなりの小さな蕎麦屋さんに入ろうとするが人が並んでいて諦め、管理事務所に車でもどる。そこでもってきたカップラーメンにポットの湯を注ぎ、食べた。釣りの時のカップラーメンはぼくの定番となりつつある。
午後、再び、魚影の濃いポンドの並ぶところに降りる。ボウズはいやだな、一匹は釣りたいと思い、そこでねばることにする。となりにいるカップルはよく釣れているみたいだ。釣りはちょっとしたことで釣果が違ってくる。女子は釣れたよ、どうしよう、と騒いでいたりして、微笑ましい。何やらインジケーターをつけ、沈むフライを使っているらしい。そうかと思い、ぼくもインジケーターをつけ、一番小さいミッジサイズのニンフで、シンカーを付け、沈めて、流し、少しづつラインを引っぱっていくと、ぐんとインジケーターが沈む、ロッドを合わせる。フックした。寄せてネットに取り込むと、けっこう大きい尺越えのニジマスだった。リリースしようと毛鉤をはずし、写真を撮ろうとしたところ、ネットの中で魚は暴れて、逃げていった。写真は撮れなかった。ありがとう、じゃまたな、とぼくは心の中でつぶやく。数釣りも大もの狙いでもないぼくは何のためにここにいる? ボウズじゃなくてよかった、一匹、釣れてよかった、一匹、釣れればいいんだよ。
もう午後の三時過ぎで受付を済ませ、釣場を後にする。ロシアから核ミサイルがいまごろ、わが家の相模原市に飛んできてはいないかと、車の中でラジオをつける。そんなことは起きていない。相模原の少し南の座間には米軍基地があり、ペンタゴンの東アジアの総司令部ということだそうだ。ウクライナ人はもちろんのこと、ロシア人にも、アメリカ人にも何の恨みもないが、戦争はいやだな。絶対平和主義か? 卑怯者。武器を持った外国の軍隊がやってきたら、戦う、抗戦するという選択肢は否定できない。CDのビリー・ホリデイに切り替えた。
今日は平和な釣りの一日だった。
リー・ダニエルズ監督の『ザ・ユナイテッド・ステイツvs.ビリー・ホリデイ』を見ました。
もしや、ビリー・ホリデイというとその悲惨な生い立ちや事件、麻薬、人種差別の陰鬱な映画かと少し躊躇していたのですが、それほど暗くもない映画でありました。それというのもステージで歌うシーンがたくさんあり、音楽の映画として素晴らしかったからで、不世出の天才シンガー、ビリー・ホリデイになりきったアンドラ・デイの歌唱シーンはすごいです。
映画の内容としては、人種差別を告発「奇妙な果実(Strange Fluet)」を歌ったビリー・ホリデイをFBIが安寧秩序を乱す存在として危険視し、麻薬の件で逮捕するが、ビリーは服役とその釈放後も屈せず「奇妙な果実」を歌いつづけていくというもの。
映画を見て、昔、読んだ大橋巨泉・油井正一訳の「奇妙な果実―ビリー・ホリデイ自伝」を再び読みたくなりました。などと思ってアルバム「奇妙な果実」の大和明さんの書かれたライナーノーツを読んでいると、「奇妙な果実―ビリー・ホリデイ自伝」の引用があり、ぼくもここで引きたいと思います。
「私は遊び半分に集まるナイト・クラブの客に、私の歌の精神を感じとってもらえるか、まったく自信がなかったのである。私は客がこの歌を嫌うのではないかと心配した。最初に私が歌った時、ああやっぱり歌ったのは間違っただった、心配していたことが起こった、と思った。歌い終わっても、一つの拍手さえ起こらなかった。そのうち一人の人が気の狂ったような拍手をはじめた。次に全部の人が手を叩いた。(中略)今もって私はこの歌を歌うたびに沈痛な気持ちになる。パパの死にざまが瞼に浮かんでくるのだ。しかし私は歌いつづけよう。リクエストしてくれる人々のためばかりではなく、20年を過ぎた今でも南部では、パパを殺した時と同じようなことが起こっているからだ。」
エンドロールにかぶさる正装で恋人と踊るシーンは、ビリーが生涯、得たくて得られなかったもののような気がして、涙が禁じえなかった。1960年、ビリーが44歳で亡くなった後の公民権運動で白人も黒人も街頭で抗議をするアメリカをビリーは見ることもなかった。
ビリー・ホリデイはアメリカの最も偉大な歌手なのです。ぼくのお薦めのビリー・ホリデイのアルバムを一枚選ぶとすれば、やはりコモドア・レコーズの"The Geatest Interpretations Of Billie Holiday"です。
ザ・ユナイテッド・ステイツvs.ビリー・ホリデイ
昼は新宿末廣亭に、夜はコットンクラブ東京に行きました。
行く前にウクライナ大使館に少ないお金だけれども、募金に応じての送金をしました。こんな不安で、もしかして世界が瀬戸際かもしれない時にこそ、お笑いと音楽が欲しくなる。
末広亭では話の枕にプーチンを笑いのネタにする噺家さんもいて、落語も世につれ、人につれなのですが、昼の部の主任をつとめた瀧川鯉昇師匠の古典落語「茶の湯」に大笑いし、楽しみました。やなぎ南玉さんのいろものの曲ごまというコマ回しもよかったな。
夜は、最近、ぼくが毎日聴いているアルバム『百日紅の木の下で』のシンガー、大島花子さんのコンサート。バックにはギターの笹子重治さん、バイオリンの江藤有希さん、チェロの橋本歩さん。一曲だけゲストで花子さんおお父さんである亡き坂本九の名曲「上を向いて歩こう」をいっしょに歌ってくれた畠山美由紀さん。絵本作家、画家の荒井良二さんは「Limuere」の演奏に合わせてライブペインティングをしてくれました。あー、本当に音楽は素晴らしい。
ところで、ギターの笹子重治さんについて、ぼくは昔からのファンなんです。それははるか昔、ブラジルからサンバ・カリオカ詩人でシンガーのギレリュミ・ヂ・プリ-トが来日し、原宿のクロコダイルでライブをした時のバックが笹子さん率いるショーロ・クラブで、ブラジル人でもないのにこんな演奏をする人がいるのかと驚いておりました。笹子さんは派手な演奏はしないけれども、まさに信じられないほどの情感で奏でる名手です。数年前のショーロクラブの『武満徹ソングブック』は『百日紅の木の下で』と同じように毎日聴いておりました。
コロナ禍がつづいていて、バカな戦争を始めるとんでもないバカたれ男もいるけれども、ぼくの人生にいろんな芸術は必要です。
カレンダー
えいちゃんのお奨め
カテゴリー
最新コメント
最新記事
(02/03)
(02/03)
(02/03)
(02/01)
(01/31)
(01/28)
(01/28)
プロフィール
HN:
えいちゃん
性別:
男性
職業:
S.E.
趣味:
音楽
自己紹介:
音楽を演奏したり聴いたりするのが好きです。
歌ってしまいます。そしてギターも少々。
Sam CookeやOtis Reddingなど古いR&Bが好きです。
歌ってしまいます。そしてギターも少々。
Sam CookeやOtis Reddingなど古いR&Bが好きです。
ブログ内検索
最新トラックバック